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『シュレーディンガーの男』【第10話】 箱の中の男

 佐山はまた一人、この小さな部屋の中央に立つ。
 娘が突然姿を消してから三年。何度こうしてこの場に立ち尽くしたことだろう。目の前には真新しいシーツがかけられたベッドがある。けれどそこにはもう人の流すわずかな寝汗すら滲むことはない。娘──穂波という主を失い、単なる長方体の無機物となり、それはそこに構えているだけ。だというのに──
 まるで儀式のように毎日洗われたシーツは皺ひとつなくぴんと張られ、陽が沈む頃になると再びこの場に真っ白な空間をつくる。
 びくびくと──いつ鳴るかわからぬ電話の着信音に自分は恐れおののいている。反面、それが鳴り響くのをどこかで望んでいる。判決を待ちくたびれた罪人のようですらある。
 娘は見つかるのか。いつかこの部屋にひょっこりと帰ってきてあのクリーム色のカーテンをその手でまた開くことがあるのか? それとももう二度と戻らないのか? 生きているのか? 今もどこかで? 本当に自分の住むこの同じ世界で、今もまだ生きているのか? せめて──

 そう、せめてはっきりさせてはくれないか。せめて、待ち続けるだけのこの毎日から解放してはくれないか。もうこれ以上耐えることなどできない。生存を確認する着信、身代金要求の着信だって構わない、もういっそのこと死を確定する着信でも…………
 そんなことを考えてしまうほど自分の精神は疲れ果てていた。
 だがそれも三日前までの話だ。
 佐山の願いは届いたはずだった。あの着信音は鳴った。ようやく終わりを告げたはずだった。少なくともこの苦しみから解き放たれるはずだった。なのにどうしてまだシーツは清潔さを保ち、そこに存在しているのだろう。そんな不条理を目の前にして、佐山は膝から崩れ落ちる。
 かつてはつらつと明るかった妻の腕は小枝のように痩せ細り、髪は乱れ、薄れ、狂女のように今日もどこかで縮こまって震えているのだろう。そして時がくればこの純白のシーツをまた無造作にひっぺがし、何かに取り憑かれたように洗い始めるのだろう。今日も、また明日も、その次の日も。着信音は確かに終了を告げたはずのに。そんな妻に、もうそんな必要は、洗濯する必要はないのだよなんて誰が言えよう。そんなものはもはや毎日という『日常』の繰り返しですらない。繰り返しですらな、繰り返しですらな、繰り返しですらな、繰り返しですらな──

 まるで同じ地点で引っ掛かり、延々とループを続けるレコードの盤上のような日々。佐山はその“詰まり”の原因となる小さなほこりを、誰か取り除いてくれないかと懇願する。誰かこのレコードの針を持ち上げてはくれないか。持ち上げてもう一度この音楽を初めから聴かせてくれないかと渇望する。もはや自分の精神はボロボロの楔だった。ぽとりぽとりと、蛇口から垂れ落ちる水音を闇の中で延々と聞かされ続け、今にも瓦解せんとする精神のほぞに打たれた最後の楔。朽ちかけ、腐り落ち、それでもなおかつ全体の重みを一身に受け止めている小さな楔だった。

 そこから見上げる薄緑色をした天井といえばまるで木箱の蓋のように閉塞感を煽り立ててくる。いつかこの蓋は誰かによってそっと開けられ、そこから真っ白で巨大な顔がぬっと覗き込んでくるのではないかとそんな気にもさせられる。その時、その巨大な顔が目にする自分の姿ははたしてどのように映るのだろう。佐山は思った。あの着信音が鳴らない世界はあったのだろうか。「穂波の死を伝える着信音」が鳴らない世界線は存在したのだろうか? それともどんな道を選ぼうと結局それを妨げることはできなかったのか──その答えをそっと耳打ちしてくれる者すらいない。
 きっとこちらが夢なんだ。こちらが『嘘の世界』だと言ってほしい。
 自分は今、生と死の狭間に潜んでいるのだ。今の自分はそんな煉獄で見る幻想の中、ほんの束の間灯っている風前の炎──終わりかけの魂なのだ。『本当』の世界では無邪気に笑う娘の姿があるのだ。そうだ、そうに違いない。そうでなければ救いがない。きっとここはその生と死の狭間にあるそんな空間なのだ。きっと『本当』の世界では今、娘の方が自分の死を見届けようとしているのだ。もし──もしもそうであってくれるならば、自分はきっとこの苦しみを永遠に背負い続けることも拒まないだろう。この終わらない悪夢の中に永住することすら喜んで享受するだろう。
 父親が娘の死を見届けるなど──そんなことが、そんな自然の理に反するようなことが、許されていいはずがないのだ。
 佐山は何度も何度も頷いた。だから恐れずに目覚めよう。目を開き、あの四肢にねばねばと絡みついて離れようとしない悪夢から今日こそは目覚めるのだ。簡単なことだ。布団から起き上がり、伸びをして、廊下を歩けばいい。顔を洗って、歯を磨いて、新聞を手にして食卓につけばいい。なんだ、穂波のやつはまだ起きてこないのか? それとももう学校へ行ったのか? ──と、そんなことをボヤきながら朝刊を開けばいい。ただそれだけのことだ。さあ、新聞を開こう。
 二〇二二年 一月二十三日(木曜日)
 天井の蓋が鈍く重々しい音をたてながら開かれていくのが見える。
 二・〇・二・二・年? 一月二十三日?
 派手な音がして椅子が倒れるのがスローモーションのように佐山の目に映る。そう、佐山は立ち上がろうとして足がよろめき、今、仰向けに卒倒しているのだ。
 天井の隙間から──『蓋』の隙間から──巨大ななにかがこちらを覗き込んでいる。そんな気配を感じる。佐山は手にした新聞を力強くぎゅっと握りしめる。みろ。やっぱりだ。こっちの世界の方が『本物』じゃないか。簡単なことじゃないか。
 佐山は開かれた天井に向かってゆっくりと両手を伸ばした。

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