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『シュレーディンガーの男』【第14話】

 現在より三年前。二〇二二年一月二十六日(犯行から十一日前)

「自分は今、恐ろしいことを考えているのかもしれない」佐山は思っていた。それは「間違いでした」などでは決して許されないことだった。何か確証が欲しかった。娘の身に起こったあの未来が、自分が体験したはずのあの未来が、再び、必ず訪れるという確証が。
「いや……」
 本当を言うのであれば訪れてほしくなどはない。訪れなければどれほどいいか。しかし起こるというのであれば、それに対し何らかの対策を早急に講じねばならないのも確かだ。穂波が誘拐されたのは二月六日。もう二週間の猶予もない。そしてまた思考がループに入るのだった。
「『間違い』では、すまされない……」

 この「三年前の世界」に戻ってきて以来、ずっとそんなことばかり考えている。吐き気をもよおすほどだった。佐山は千葉まで足を伸ばし斎藤医師の言う通り気分転換に中山競馬場に来ていた。今日はアメリカ・ジョッキー・クラブ・カップが行われている。競馬場などいつ以来だろう。佐山は思った。当然ながら穂波がいなくなってからの三年間、競馬どころの心境ではなかった。だがそれ以前も土日のかき入れ時に店を休むことなどできるはずもなく、スマホや場外馬券場で馬券を購入し、仕込みをしながらテレビやラジオでレースの結果を聞いているのが常だった。
 日曜の競馬場は人に溢れ、活気があった。わずかながら以前の平穏だった日々──あの気持ちが蘇ってくる。佐山はビールを購入し、パドックへ向かった。
「だが──」
 気晴らしとは言ったもののこれは佐山にとってひとつの検証だった。というより、そちらの方に重きがあった。他のレースはともかく今日のメインの十一レース、これに関して佐山はよく覚えていた。初めて三連単で万馬券を獲ったからだ。といってもそれは本当にたまたまであり、基本佐山の買い方は至って堅実だった。所詮は遊びと割り切っているので一レースに大金をつぎ込むことなどしない。なので依存症のようにギャンブルにのめり込むことはなかった。その時も五百円だけしか買わなかったがそれでも一万五百四十円の配当が付き、五万ほど儲けた。
「か~っ! なんで一万円突っ込まなかったかな~。そしたら百万円たい!」
 そんなことを斎藤医師と話しながら笑っていたのを覚えている。もちろんそんなことはしない。初めからレースの結果がわかっているのならばともかく、不確定なものに大金をはたくのは馬鹿げている。負けたら負けたで取り返したくなり「次こそは次こそは」の気持ちが次第に倍増していく。その気持ちがギャンブル沼へ落ちていく第一歩だということはよくわかっていたからである。
 馬順も深く考えたわけではなかった。どれほど考えたって当たらぬもまたギャンブルだ。佐山の誕生日は十一月十日で、穂波が十一月二日。なので11-10-2と買ってみただけである。ただの偶然だった。
 だが今にして思うとこれはまるで天啓のようではないか。意味のある偶然──確かシンクロニシティといったか──あの日、佐山がたまたま三連単を獲ったこと、それが自分と娘の誕生日の数字であり記憶として頭に残っていること、そして再びこの場であの日と「同じレース」を見ること……偶然などでなく、まるで仕組まれた必然のように思えてくる。 
 佐山はぶるりと震えた。
 そんな時、隣の若者たちの話し声が耳に入ってきた。
「マイネルフロスト、仕上がってるね。やっぱこいつが本命かな」
『そいつはヤメといた方がよかよ』──佐山は思わずそう口に出そうになったが、その言葉を飲み込んだ。確かその馬は──マイネルフロストは、途中まで調子が良く、二着まで追い上げるがアクシデントで競走を中止することとなる──はずだった。
 馬鹿なことだとは思いつつ、そんな些細な軽口が未来に影響を及ぼしてしまうのではのではないか──自分がそれを口にしたことで、このレースの結果が全て変わってしまうのではないか──そんなこともあり得ると思ったからだ。それでは検証にならない。
 佐山は内ポケットをさぐると封筒を確かめた。封筒には先ほど銀行から引き落とした二百万が入っている。今回は五百円ではない。もしも的中すれば──「本当にその未来がやってくる」のであれば──「億」だった。配当が激変せぬよう発走直前になってから馬券を購入することを佐山は決心していた。
 そして、もしもそれが的中した暁にはいよいよ「あの未来がやってくる」ことを認めざるを得なくなる。そうも覚悟していた。穂波が誘拐され監禁されてしまう未来──
 佐山は正直なところ半分、いやそれ以上、的中してほしくないとも思っていた。「頼むからハズレてくれ。頼むからこれは何かの間違いであってくれ」と心のどこかで必死に願っていた。そのためならば二百万など惜しくもなかった。この金はいわば「覚悟の代金」だと思っていた。実際のところを言えば悪魔に魂を売ってまで「億」の見返りなど、欲しくはなかった。


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