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『シュレーディンガーの男』【第15話】

 二〇二五年現在。二月七日(犯行より三年後) 

 あの忌まわしい事件から三年が過ぎた。
 佐山に懲役十六年の判決が下り、刑務所に収容された後、上尾の小料理店をこれ以上存続させる理由もなくなった。女手一人で営業するのも困難だろうし、殺人犯が営んでいた飲み屋に誰が好んで来たがるかも疑問だった。そうでなくともこのネット社会のご時世だ。風評被害、下手をすると嫌がらせに合うことは目に見えて明らかである。なにより娘の穂波にその悪意の矛先が向けられることだけは避けねばならなかった。転校もさせなければならないだろうし、埼玉──いや東京近郊に住むことはもうできないだろうなと覚悟していた。店をたたんだ後、詩織は穂波を連れて九州、博多の実家に戻ってきていた。姓も「佐山」から詩織の実家方の「浅野」へと戻し、ひっそりと暮らしていた。
「離婚でも構わんけんな。おいはいつでも判を押す──そうされてもしょんなかことば、おいはしたっちゃけんな」佐山はそう言ったが詩織はそんな気にはなれなかった。
 詩織としては佐山の突然の奇行に何らかの理由があることを信じたかった。だが信じてみたところで「その答え」がいつか火を見るよりも明らかになる──そんなこともまた起こりえないだろうと直感的に、心のどこかで、わかってはいた。そのためどうにもモヤモヤと霧の晴れぬ日々が続いているのも確かだった。また娘の穂波にしても、事件当時中学一年生という、ちょうど大人への階段を踏み出した時期であったためショックが隠せなかったのは見て取れた。が、時が傷を癒すとはよく言ったもので、田舎でのんびり過ぎゆく時間と自然の美しさなどにも助けられてか、今では明るく優しい性格に落ち着いてくれている。それがせめてもの救いだった。
 ベランダで洗濯物を干しながらそんなことを考えていると、ふとあの日のことが蘇ってくる。
『この新聞は何だ! からかってるのか? この新聞は本当に今日の日付けのものなのか?』──そう意気込んで佐山が走ってきたあの日を思い出す。(あれはいったい……なんだったのか。どういう意味であったのか?)
 そんな時、着信音が鳴った。ズボンからスマホを取り出し着信先を見ると「警察」と表示されているので思わずドキリとした。が、考えてみると警察からかかってくるのに「警察」と表示されるだろうか? これは自分がかつて登録した番号なのだと気づく。警察の番号を登録した覚えがあるのは後にも先にも佐山のあの事件があった時だけだ。そんな思いが瞬時に頭を駆け巡り、詩織は通話ボタンをおそるおそる押した。佐山の事件で何か新事実が発覚したのか、それとも何かそれに関する報告かもしれない。
「もしもし……?」
「こちら佐山さんの奥さんの番号で間違いなかったでしょうか?」
「……警察の方でしょうか?」
「覚えておいでですかね? 私、佐山さんの事件を担当しておりました針村と申します。今、大丈夫でしょうか?」
「あ、それは……はい」
 返答しながら詩織は当時を思い返していた。家に聞き込みにも来たあの大柄で猟犬のような目をした刑事だと詩織はすぐに思い浮かべることができた。
「あの、佐山のことで……何か?」
 向こうからかけてきたにも関わらず、大坪は何か言い淀んでるような間を作った。あの時のように粛々とした公的な質問とは少し異なった感じを受けた。
「九州に戻られたと聞いておりますが、なんというか、その……その後お変わりはありませんか?」
 詩織はきょとんとした。刑事にもアフターケアがあるのか? そんなことは聞いたこともない。
「先日──覚えてらっしゃいますかね、佐山さんのかかっていた斎藤医師、あの方にお会いする機会がありましてね。娘さんの写真などを見せてもらいました。もう高校生になられたとかで」
 確かに斎藤さんには娘の写真と手紙を出した。が、ますますわからない。これではまるでただの世間話ではないか。
「あの……なにか? その後、あの事件のことで進展があったとか……では?」
「まあ、なんというか、世の中にはご家族や配偶者が犯罪を起こしたことで、その後いろいろ苦労なされる方もいらっしゃいます。たとえば人間関係とか、あるいは生活の金銭面など……」
 電話の向こうの針村はそこまで話すと「らしくない」と感じたのか、ため息をひとつついて、物腰を変えた。
「不躾な話で申し訳ありません。単刀直入に言うとさっきも言った金銭面のことでお伺いしたく。今回、佐山さんがこのようなことになられて何かお困りになってるとか、そのようなことはありませんか? 正直に答えてもらって構わないんです。その、日本にはそういうケアもありますし、なんでしたら……」
 やはり「あのこと」だろうか、と、詩織は少し考えた。だがあのことに関して言い渋る必要があるのだろうか。おおっぴらに公言できることでもないが、あれは犯罪ではない。詩織は包み隠さず答えることにした。
「はい、お金のことに関しては当面困ることはないと思います。言いにくい話なのですが、あの事件が起こる少し前のことです。実は主人が──」

 あれは、犯行当日、佐山が警察に連行されていった夜のことだった。佐山が滝谷を殺害し、家に帰宅してシャワーを浴び、まさに──今思えばあれが「最後の晩餐」となった──夕飯をとった後のことである。佐山は深刻な顔つきで詩織の目を正面から見つめた。
「詩織。おいは、やってしもうた。おいは……とんでもなかことば……してしもうたかもしれん」
「なんね、どうしたと?」
「それがな……おいは……実は」
 どこか血の気の失せた佐山の顔色を見て詩織は咄嗟に嫌なものを感じたのを覚えている。「実はな……」佐山はもう一度そう言いかけたがそのままゆっくり口をつぐんだ。視線を横に落としてゆらりと首を振る。
「実は、こないだ競馬で……二百万使うた」
「えっ!」
「おまえに黙って、すまん!」
「二百万……て、あんた。全部スったとね? 全部無くなったとね?」
「そうじゃなく……逆じゃ。獲った。二百万が一億になった」
「……え!」
「確定申告したら税金で結構持ってかれると思う。そいでも八千万くらいは残ると思うけん」
「ちょ……一億とか……八千万て、何の話ね。冗談やろ? ね?」
「ここにカードがある。こん中に全額入っちゅうけん。こいで、もし、おいになんかあったとしても穂波が大学卒業するまで十分大丈夫やと思う。思うけん……」
 佐山は詩織に銀行のカードと通帳を手渡し、その上からもう一方の手のひらを乗せた。
「無くさんごとな。暗証番号は……」
「待って! ホントの話なん?」
「ホントさ。ホントの本当やけん」
「ちょっと待って! 怖か~、嬉しかけど怖か~!」
「穂波には何でも好きなことばさせてやれ。何でもな。自分が本当にしたかことのできる学校に入れてやって──」
「え~! こげんことのあるもんなん? 次はなんか逆に嫌なことのあるごたっで怖か~」
 そんなことを言いつつも笑っていたあの夜が懐かしくも思える。その直後、夫の身に何が起こるかも知らずに。
 電話の向こうで針村が息を飲む音が聞こえてきた。
「やはり……ですか」
「やはり……とは?」
「いえ」
「でもこれは、あの事件の起こる前の話です。競馬で大金を得るのは犯罪ではないですよね? あの事件とは全く何の関係もない話ですよね?」
「いやそれは、もちろんです。そうではなく……」
 針村は混乱してるようだった。


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