『シュレーディンガーの男』【第13話】
現在より三年前。二〇二二年一月二十五日(犯行から十二日前)
佐山は眠れなかった。この二〇二二年という時間に戻ってきて二日が過ぎた。確かに三日前までは──この「三日前までは」という日付け感覚が正しいのかすらわからず、また混乱してきた。佐山は枕もとのスタンドを点け、新聞を手に取るともう一度今日の日付けを確かめる。普通に考えて三日前というのは二〇二二年の一月二十三日のことだ。だが自分にとって三日前というのは二〇二五年。未来を指す。いまだ現実味がない。当然である。「そんなことが起こりえるはずがない」そう思う方が正常である。しかし……。
穂波が行方不明になった時もそうではなかったか。そんなことが起こるはずがない。「うちの穂波が失踪だなんて……事故? 自殺? まさか、いやいやあり得ない。ならば誘拐? なぜ? バカバカしい。推理小説じゃあるまいし。財閥どころか裕福なわけでもない、どこにでもあるような普通の一般家庭──うちにそんなこと起こるわけないじゃないか」と、そうは思わなかったか。佐山にしてみれば、どちらにせよ非現実的であることに違いないのだ。
「駄目だ……これはヤバい──」佐山は思った。
「三年前に時を戻せれば」と確かに何度もそう思ったのは確かだ。だがそれは単なる願望である。あるはずのない、起こりうることのない願望だ。俺はひょっとして、いや、本当に、狂い始めているのかもしれない。皮肉だが、それこそが最も現実的な解答なのだから仕方ないのである。佐山は時計を見た。七時半。ほとんど眠ることもできず夜が明けてしまった。店はしばらく休むことにしていた。とてもじゃないがそんな心境ではない。今日は土曜日。学校も休みなので穂波はまだ部屋で眠っているはずだ。
(──はず?)
佐山はむっくり起き上がると穂波の部屋まで行き、そっとドアを開けた。長い髪が枕を覆っているのが見える。寝息も立てず、ぐっすり眠っている娘の姿を確認しホッと息をつく。恐ろしいのだ。もともと佐山には不眠症の気があったが今回は少し違った。一晩眠って目覚めると、また穂波がいなくなってしまっているのでは──やっぱりこちらの方が夢であって、また「あちら側」の世界に戻ってしまうのではないか? そのことが何よりも恐ろしかった。しかし眠らぬわけにもいかない。「この現在」が本当に今の自分にとっての現実であるのなら、頭をハッキリさせ「やらねばならぬこと」に備える必要があった。
(午後は斎藤さんの心療内科にでも行ってみるか──)
「お久しぶりです」
佐山はそう言ってしまって後悔した。自分がついこの間までいた「あちら側」の世界。そこでは斎藤医師にはとてもよくしてもらった。娘が姿を消して以来、おかしくなった妻の精神状態も診てもらったり、また佐山自身も医師というよりは友人として、幾度となく励ましの言葉をかけてもらっていた。だが……
今は「あの世界」ではない。二〇二二年──あれから三年前の世界だ。よく覚えていないが「久しぶり」という挨拶がはたして合ってるのかどうかも定かでなかった。
「おや、また眠れなくなっちゃった? 佐山くん、また寝酒でもしてんじゃないの? 前も言ったけどね、眠れないから寝酒っての、ありゃ嘘だからね。眠りの質を落とすだけで悪循環だからね」
あっけらかんと話す斎藤医師のその口調で「ああ、やはり『こちら側』は何も起こらなかった世界なのだな、娘が無事で生きていて普通の暮らしをしている世界なのだな」と心が晴れ渡ってくる。が、直後、そんな浮足立った自分に対し、戒めのように訂正を入れた。
(「まだ」──な)
そう、「起こる」のは「これから」なのである。
しかし本当に? 本当に起こるのか? その未来は確約されたものなのか? だとしたらそれは変えることはできるものなのか?
眠れぬ頭でそんなことを考えてはみたが、やはりどこかボーっとしている。混乱が増すだけであった。
「じゃあいつものやつ出しとくから。あ、そうだ、今夜あたり店に顔を出すかも」と斎藤医師は猪口を掲げる素振りを見せる。
「あ、それなんですが……ちょっと今、店の方は」
「え、休んでんの? 珍しいんじゃない? 何かあったの?」
「いやぁ申し訳なかです。せっかくそう言うてもろうとるとに」
佐山は手まぜでもするように左の親指の爪を右の爪でカリカリと掻いた。「……」
「なになに、どうしたのさ。いいよ~言いにくいことでもなんでもさ、吐き出しちゃいなさいよ。ここ、そういうための場所。それが私の飯のタネ。で、佐山さんの店は僕がグチグチ吐き出すための場所、それがあなたの飯のタネ」と斎藤医師は笑った。
「適わねえなぁ、先生には。実は……ここんとこ悪夢のひどかとですよ」「ほう」
「ここんとこ……というか、もうずーっとですかね。そりゃあ長い年月というか──」
「悪夢……まあ、夢を覚えてるってこと自体、熟睡できてない証拠だよね。で、どんな夢なのかな」
「恥ずかしながら娘のことなんですけどね」
「ほうほう穂波ちゃん」
「誰か、顔もわからん真っ黒な男の来るとですよ。そいつが目の前で穂波ばさらっていくとです。おりゃあどうすることもできんで」
「穂波ちゃんは可愛いし、モテそうだからね~。年頃になって彼氏を連れてくるのが怖い──そんな暗喩じゃないかな。なに、父親ならよくあることなんだよ」
「そいならよかとですが、続きのあるとです。……いつまで経っても、待てど暮らせど穂波が帰って来んのですよ。だけん警察に届けを出すとですけど──」
「警察まで出てくるのかい? おだやかじゃないね」
「写真とかも拡散して必死に捜すとです。そいでも行方どころか生きとるかどうかすらわからんとですたい。そげん生活ば何年も何年も妻と過ごして、結局……」
佐山は声を潜め、絞り出すように呟いた。
「娘はそん男に何年も監禁されて、辱しめば受けて……」
斎藤医師の顔からは笑みが消えたものの、よくあることのようにうんうんと聞き入れていた。
「殺されとったとですよ──」
「うん──佐山くん、知っての通り夢ってのは冷酷でね。かえって悪い夢の方が良いことを暗示してるっていうよね? ほら、蛇の夢とか、体の一部を無くしちゃう夢とか。そういうのは殻を破ったり、ワンステップ上がるための通過儀礼だったりすることが多いんだよ。わかるよね?」
「はあ、まあ、そりゃ……」
まあそうだよな──佐山は思った。
こんな中途半端な言い方では誰でも、それがたとえ医師であろうと普通はそう応えるのが関の山だ。そう思いつつも、佐山は斎藤医師に対し、感謝こそすれど失望はなかった。しかしこれ以上説明のしようがなかった。また、「これから」のことを考えると──するわけにもいかなかった。人は時に考えを整理したり、より良い答えを模索するため他人に吐露する。その聞き手になってくれるだけで今はありがたかった。僅かながら重荷が軽くなった気がする。
「まあ、そんな感じでして。なんにせよちょっと精神的にやられとるなって思いまして、しばらく休もうかと」
「そうそう。気分転換も必要よ。明日はほら、日曜だしさ。お馬さんでも見に行ってきたらいいよ」
「ハハ……動物園じゃない方のお馬さんですな」と佐山は笑ったが『待てよ、その手があったか』と内心考えた。吐露はしてみるものである。また、その延長線上で佐山はふといくつか思い出したことがあり、去り際に佐山は斎藤医師にこう話した。
「そうだ、先生。ご自宅の方ですがね。先生は煙草ば吸いますよね? 煙草ば捨てる時は必ず消してから、しっかり水につけてから、ほいで捨てんばダメですけんね」
「なんだいそりゃ? まるで小学校の先生みたいだな」
「小学生は煙草吸わんでしょうに。よかですね。火の元に注意すること、ちゃんと覚えとってくださいよ」
「はいはい。わかりました」
あれも確か、穂波がいなくなる十日前くらいのことだった気がする。斎藤医師の自宅の台所でボヤ騒ぎがあったという話を思い出したのだ。大火には至らなかったものの、灰皿からゴミ袋に入れた煙草の吸殻が完全に消えてなかったのが原因だったと斎藤医師自身が後々語っていたのだ。
『起こる』のは『これから』──その未来は確約されたものなのか?
佐山は先ほど頭の中で考えていたことをそのまま反芻していた。
忠告はしてみた。だが、それによって──未来を変えることはできるのか?
佐山は目を細めたが斎藤医師がこちらを見ているのに気付き「ありがとうございました。では」と診察室のドアを閉めた。
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