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『シュレーディンガーの男』【第22話】

現在より三年前。二〇二二年 二月六日(犯行当日)

「会いたかったよ……嘘じゃない、本当に本当に会いたかったよ。滝谷英明くん」
 自転車のチェーン錠で手足を縛り付けシーツで猿ぐつわを噛ませた滝谷を見下ろしながらそう言った佐山の言葉に偽りはなかった。
 穂波を誘拐監禁した滝谷のアパートの場所は既にわかっていた。これから起こるはずであろう三年後の未来、娘の死体が発見され何度も報道された東中野にあるこの場所。妻の詩織と花束を手に実際にその現場に訪れたこともあったからだ。その時は自暴自棄となり本気でこのアパートに火を付けてやろうかとも思ったが場所に罪があるわけでもなければ、発散して娘が戻ってくるわけでもない。むしろこれ以上娘の魂を騒ぎに巻き込みたくなかったというのも大きい。佐山にできることは穂波を静かに眠らせてあげることだけだったからだ。
 まずは滝谷を穂波が殺害された時と同じ格好にしてやった。そして同じ痛みと絶望をこれから与えるのだ。その「まだ起こってないこと」に対する復讐に良心が痛まないわけではなかったが「三年後」は佐山にとっては未来ではない。過去だった。数え切れぬほどの屈辱と煮え湯を飲まされた記憶は佐山の頭の中に確実に存在している。この目の前にいる男、滝谷の顔を報道やテレビ、裁判で見て何度歯を食いしばったことかわからない。比喩でなく本当に奥歯が一本折れたことがあったこともあった。こちらだけがされるがままで滝谷自身は法に守られ佐山からは殴るどころか罵倒のひとつすら浴びせることができなかったのだ。
 佐山はわずかに残った良心の呵責を自らへし折るために、この男が娘を殺害し、捕まり、裁判の時にやった行動を無理やり思い出した。
 よりにもよってこの男、滝谷は「狂ってるふり」をしたのだ。裁判官に職業を問われた時に「職業は街の妖精です。好きな食べ物はフランクフルト、好き好き大好きいっぱい食べたいな~」とか「銀色のウサギに殺せと命令されたんです」などいったことを恥ずかしげもなく語っていた。そんな茶番をこの目で見せられ「こんなくだらない男に大事な一人娘を奪われたのか?」と妻の詩織はその場で泡を吹き卒倒してしまったほどだった。
 人の娘を三年も監禁したあげく殺害し、この期に及んで自分の罪を恥も外聞もなく減刑しようとしたこの身勝手な男を人間とは思えなかったはずではなかったか?
 その「狂った芝居」はあからさま過ぎてさすがに何の効力もなかったが、滝谷は懲役十五年の刑に処されただけだった。
 十五年……穂波がこの世に生きた年数の分だけ勤めれば「はいおしまい」なんて法があってたまるかと佐山は憤慨した。この国が情けなくなった。ならばやはり自分がこいつの存在を消し去り、代わりにその十五年を俺が誠心誠意刑務所に勤めてやるさ。そう佐山は決意していた。
(獣に裁きなどいるか! 容赦などいるものか!)
 佐山は出刃の先を滝谷の二の腕に押し付けるとゆっくりと手前に引いた。店で魚をおろしたり刺身を引くのとは違う感触がした。滝谷が猿ぐつわの下でもごもごと醜くわめいている。
 傷が一本の線となり血が流れだしてくる。佐山にはこの男から自分と同じ赤い血が流れ出てくることがどこか不思議だった。間違いではないかと、何度も何度も体のいたる場所に出刃を当てて試したが結果は同じだった。それが気に食わなかったのか佐山は右足の腿についに出刃を思い切り突き立てた。獣が咆哮する声が佐山の耳に届いたが、構わずもう一度突き立てた。いまやってることが、この男が穂波にしたのと同じことなのだというのは承知していた。この男が穂波に非人間的なことをしたのなら俺も同じだ。今、こいつに俺は非人間的なことをしているのだな。佐山はそう思った。ひとたび刺すごとに己の胸をえぐるような痛みを覚えた。
(構うものか、この痛みを穂波が受けるくらいなら代わりに俺が全部引き受けてやる。死ぬまで俺が全部背負ってやるからな、穂波……)
 佐山は涙が出てきた。そもそもなぜ”こんなこと”をしなければならないのか意味がわからなかった。自分の人生にこんな場面が用意されているなど誰が想像できよう。荒くなってくる息を押さえながら佐山は滝谷の猿ぐつわをずりおろして叫んだ。
「どうしてだ! なぜこんなことをしようとしたんだ。おまえさえいなきゃ……俺も穂波も普通に幸せに暮らしていけたはずのに……」
「オレはなにもしてない!」と滝谷が息継ぎをするように吐き出してくる。
「ああそうさ、”まだ”な。するんだよ、おまえは! 現に俺の娘を付け回してるだろう」
 佐山はこの部屋に侵入の際に滝谷の腹部を打ち付けたウイスキー・ボトルを手にしキャップをゴリっと開けた。そこらにあった薄い雑誌を丸め滝谷の口の中にそれを突っ込む。滝谷の前歯がほぼ折れてるので容易いことだった。
「俺はお喋りな男は嫌いなんだ。まあ、せっかく会えたんだ、仲良く一杯やろうや」
 佐山はそう吐き捨て、自らちびりと一口飲むと残りは”ろうと状”にした雑誌の真ん中にウイスキーを豪快に流し込んだ。まるで水中から酸素を求め顔を出したばかりの男の口に水を流し込む拷問のようだった。聞けば拷問の中でもこの水を使った拷問が最も苦しいというのを映画か何かで見たことがある。それは相手を苦しめながらも生かしておくには効果的かもしれないが佐山は滝谷を生かしておくことなどさらさら考えていなかった。苦しめて殺す。それだけであった。一瓶丸ごとウイスキーを胃に流し込んだ後、滝谷が
逆流した胃液とウイスキーを豪快に吐瀉する。顔が紅潮し、瞳孔が少し開きかけていた。急性アルコール中毒の初期症状である。
「わかった、しないよ、しないから! 何もしないから、あんたの娘には手は出さないから、誓うよ、助けてくれよ、頼む!」
 その言葉がさらに逆鱗に触れたのか、佐山は逆手で包丁の柄を滝谷の脳天を力任せに打ち付けた。容赦はなかった。
「どっから目線なんだ! てめえ!」
 脳震盪を起こしかけてるのか滝谷が白目を剥いた。しゃっくりが始まり、舌を出し死にかけの犬のような声を出している。
「やるんだよ。どうせおまえみたいに制御のできない獣は、野放しにしときゃ結局いつか誰かが不幸にするんだよ……俺の娘さえ無事ならいいとかそういう問題じゃねえんだよ!」
 こんな悪魔的な一面が自分にあることに佐山は自ら驚いていた。なぜ暴力的な奴らがそこまで人を痛めつけることができるのかと不思議に思っていたが、これぐらい酔わなければ遂行できないからなのではと思った。そういう意味での「覚悟」は今の佐山には確実にあったといえる。それでも限界は近かった。早く、早く、この男の息の根を止めねば自分の常識、良心が戻ってきそうな不安があった。
 すでに「もういい、早く楽にしてやろう」という焦燥感があった。佐山は猿ぐつわに使っていたシーツを滝谷の首に二周ほどさせると執行に入った。
「何か言い残すことはあるか?」
 形式だけの言葉だった。滝谷にはもう喋る力も残っていないようだった。
「俺はある。恨んでいいぞ。おまえにも両親がいるならきっと彼らも俺を恨むだろう。構わない。ただしそれは俺だけにしろ。来世ではもう人を苦しめないでくれ。それが俺の望みだ」
 そう一気にまくしたてると佐山は両腕に全ての力を込めた。
 断末魔は聞こえなかった。





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