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『シュレーディンガーの男』【第16話】

 現在より三年前。二〇二二年一月二十六日(犯行から十一日前)

 競馬場での当選払い戻しは機械でもできるが、その場合百万円までとなる。それ以上は全て高額当選とみなされ有人窓口まで行き整理券を渡され、しばし待機しなければならない。
 初めての体験だった。佐山の心臓は高鳴った。ひょっとすると向こうは全てお見通しで係に当選馬券を渡した瞬間、警察やガードマンに囲まれてしまうのではないかとドキドキしていた。決してインチキ行為をしたわけではないのだが、罪悪感がないわけでもなかった。
 やがて自分の番号が呼ばれると手慣れた感じで帯付きの札束が目の前に積まれていく。十、二十、三十……。レンガのように札束を積んでいく係員の手が一瞬止まった。佐山はドキリとした。「何か詰めるものはお持ちですか?」と聞かれたのでホッと胸を撫でおろす。「あ……はい」とスポーツバッグを掲げた。喉がカラカラで声がひっかかる。胃がキリキリと痛くなってきていた。
「よくお確かめください。駐車場まで警備をお付けしますか?」と聞かれたが「いえ、大丈夫です」と思わず答えていた。
(一億……)
 ごくりと喉を鳴らすと、佐山は札束を持参したスポーツバッグの中に次々としまっていった。冬だというのに手のひらは汗でびっしょりだった。もとより的中する──いや、「してしまうだろう」──という予感は大いにあった。なにしろ以前に一度見たことのあるレースなのである。だからこうして大きめのバッグをわざわざ事前に用意してきているのだ。しかしいざこうなってみると「まさか……」という驚愕しかなかった。急に自分が銀行強盗でもしているような気がしてきて、から恐ろしくなってきた。ともかく一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
 スポーツバッグを両手で胸に抱えると佐山は逃げるように駐車場に向かった。軽トラの鍵を開け運転席に乗り込む。助手席にスポーツバッグを置き内側から鍵をかけるとホッと一息ついた。その足ですぐ銀行へ向かおうとエンジンをスタートさせたがすでに陽は傾きかけており銀行窓口は閉まっていることに気づいた。いや、そもそもが今日は日曜で銀行は休みじゃないか──そんなことを思い出す。どうしたものかと考えながらしばらく車を走らせていたが結局佐山は上尾駅まで戻り構内のコインロッカーにバッグを一晩預けることにした。
 翌日の朝一番、再びスポーツバッグを取り出した佐山は、少し離れた銀行まで車を走らせた。深く考えたわけではないが知った顔にそんなところを見られるのはあまり気持ちいいものではない──そんな考えがどこかにあった。
 一億円という大金の預け入れなど通報されてしまうのではないかと戸惑ったがそんなことはなかった。行員にしてみれば億の金を見ることなど日常茶飯事なのかもしれない。それでも不安だったので佐山は念のため競馬場でもらった受け取りをそれとなく脇に提示していた。新しい口座を開くか迷ったが、少し考えやめた。店の売り上げや家計のカードとは別の、個人名義のカードを作っていた小さな銀行だった。何年もろくすっぽ使用していない、口座を開くときに手付けで数千円入金しただけのカードだった。入金手続きが済むと、通帳をサイドバッグに突っ込み、カードを財布にしまう。ようやく手持ちの現金が一万円ちょっとのいつもの薄っぺらい財布に戻ると佐山は安堵の息を吐いた。
 銀行の専用駐車場まで戻ると佐山は運転席でシートベルトを締めた。煙草をくわえ、火を付けようとすると手が震えてなかなかうまくいかなかった。佐山はライターをフロントガラスの方に放り投げじっと手を見つめた。もはやそれは大金を手に入れた興奮からくるものではなかった。「やはり迫りくる未来は変わらないのだ」という戦慄が急激にのしかかってくるのを佐山は感じていた。
 結局吸わずじまいのまっさらな煙草を灰皿に押し付けるとエンジンをかけた。自分と同じように向かいの銀行の方からこちら側の駐車場へ横断歩道を渡ってくる親子連れの姿が見える。まだ若い母親が小学校高学年くらいの娘とじゃれあいながら笑っている。夫らしき男は──こちらは小学校に上がったばかりくらいだろうか、やはり小さな娘を肩車していた。
「……」
 幸せそうな家庭だ。穂波もあれくらいの時期があり、やはりよく肩車をしてやったのを思い出す。
(そうか……!)
 佐山はふと、急に目の前が開けていくような感じを受けた。
(俺は何を恐れてるんだ。恐れることなどないじゃないか……)
 佐山は自分の馬鹿さ加減に呆れ笑い出した。
(逃げればいいじゃないか! 九州へ帰ってもいい。北海道でも、なんなら外国だっていい。今の俺には一億ある。一億あれば何でもできる、悠々自適──どこへだって行けるじゃないか。そこで待てばいい。嵐が遠ざかるのを待つように、起こるはずの未来が、「その時」が完全に過ぎ去るまで、じっと顔を伏せて待てばいい。いや顔を伏せる必要すらもない。なんでこんなことに気が付かなかったんだ……)
 目の前の女の子がこちらに気付いたのかあどけない笑顔で手を振ってきた。佐山もそれに笑顔で応え手を振り返した。母親が「すいません」というように会釈をしているのが見え、佐山は目を細めた。
(よし、帰ったらさっそく移転先を考えよう。そして一週間で荷物をまとめておさらばするんだ。こんなゴミゴミした町なんかじゃない。どこか遠い、もっと景色のいいところがいい。そこで静かに暮らすんだ──)

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