『シュレーディンガーの男』【第20話】 箱の中の猫
「ねえ、ほなみちゃん……こんなにも大切に可愛がってるのに、どうして僕を裏切るようなことをするのかな? 今日は本当にお仕置きが必要かもしれないね……」
穂波は”ほなみちゃん”と呼ばれたその女の子を見ている。女の子は怯えていた。
ほなみ……? 穂波は「私」じゃないか。だけどこの娘は私ではない。私とまったく同じ姿かたちをしているがこの娘は私ではない。けれど……。
(やはり私だ)
穂波は感覚的にそれを理解していた。夢の中ではよくこういった矛盾現象が起こる。私が見ている夢のはずなのに、まるで幽体離脱でもしているように自分の姿を他人事のように俯瞰で見ていることも少なくない。だからこれは夢なのだなと穂波は判断する。そもそも夢の中で「ああこれは夢なんだな」と気づいた時点で大抵それは夢だ。視点も曖昧で定まらずあちらこちらへと移動する。先ほどまでは外側からその女の子を眺めていたはずなのに、今度はその女の子の内側から見ている。まるで重なっているようだ。シュレーディンガーの猫のように。「生きている猫」と「死んでしまった猫」が重なっているように。そうだ私はそんな話を学校の図書室で漁火君としていたはずだ。だからきっとそんな夢を見ているに違いない。穂波はこの女の子と私は「もともと同じだった」はずだが、きっとどこかで分裂してしまった「片割れ」のようなものだと穂波は感じる。初めて会う人のようにどことなく遠く離れた存在のようでもあるが、生き別れになった双子の姉妹のように近しくもある。そして──どこか愛おしい。
「ほなみちゃん、今日この部屋の外に勝手に出たね?」
男がそう問うと視界が左右に揺れる。”ほなみちゃん”と呼ばれてるその娘が首を振っているのだ。けれどそれが嘘だということを穂波はなぜか知っていた。穂波は彼女が日中、外に出たことを知っていた。目の前で問い詰めてるこの男が今日はうっかり部屋の外鍵を閉めずに出かけていったのだ。いつもなら内側からは決して開けることができない外鍵をこの男は必ずかけていく。それでも一縷の望みを託し、男が外出した際にいつも私は……いや、”ほなみちゃん”は必ずドアノブを回してみるのをかかさない。そのことも私は知っていた。この三年の間、ずっとだ。だがこのドアが開かれることはこれまで一度もなかった
三年……? この”ほなみちゃん”は三年間もこんなところに閉じ込められているというのか。ここはどこなのだろう? いや私はこの部屋を知っている。初めて見るのはずなのに見覚えがある。またデジャヴだ。見覚えがあるどころか「思い出したくもない部屋」だ。頭が拒否反応を起こしていた。マンション? いやアパートの一室のようだ。
鋼鉄の箱のような四壁に囲まれ女の子は目の前に鎮座する男をびくびくと見ていた。穂波も“ほなみちゃん”の目を通してその男を見ていた。一見整った顔立ちではあるが静かな狂気を孕んでいるような目。逆鱗に触れるとすぐにでも爆発しそうな口元。漁火くん的に言えば彼こそが鋼鉄の箱の中、原子の放射線崩壊をガイガー計数管が検知すると電気によって猫を殺す装置なのだなとどこかで思った。どこか見覚えのある顔だった。
「こんばんは、二月六日のニュースをお伝えします」
テレビでキャスターがそう告げているのが聞こえる。やはり今日は二月六日なのだ。まるで二月六日がふたつ存在しているように思えた。福岡で高校に通い同級生と図書室で将来の夢を語る「浅野穂波」、そしてここで見知らぬ男と同居している、いや監禁されている「さやまほなみ」。その二つが同時に存在する二月六日という日。穂波はどちらが本当の自分なのかわからなくなってくるほど生々しさを覚えた。これは本当に夢なのだろうかということに少し疑問を感じ始めていた。
(この男の人に見覚えがあるかい?)
以前、誰かにそう言われてこの男の写真を見せられたことがあったのを穂波はようやく思い出した。あれはいつのことだったろう?
優しい笑顔の婦警さん、あの怖そうな針村という刑事さん……。そうだ、あの時だ。ということはこの男があの滝谷という男なのだろうか。滝谷って誰だっけ? ああ、そうだお父さんが殺した大学生じゃないか。
あの滝谷という男が化けて出てきてるのだろうか?
お父さんに殺された復讐をしようと黄泉から帰ってきたのだろうか?
いや、そうじゃない……逆だ。お父さんがこの男に復讐を?
でもそれだと時間軸が合わない。あれ? あれ?
「外で誰かに会ったのかい?」
”ほなみちゃん”はまた首を横に振ろうとしたが、そのとき頬に痛みが走った。私にも痛みが走る。頬に平手打ちを受けたのだ。
「まさか誰かに余計なことを話してないだろうね」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
ほなみちゃんは頬を押さえ必死に謝っている。そう、私は知ってる。この男の機嫌が悪い時はとりあえずこうして謝っておくのが一番なのだ。それが身体の奥まで沁みついている。そんな”ほなみちゃん”の記憶が私の中へと一気に流れ込んできた。
男は時折外食やコンビニなどに連れ出してもくれるが必ずそばにいて、その際大抵は手を握られていた。今日の昼間、一人きりで外へ出たのはまさに三年ぶりだった。早く逃げなければならないのに逃げてはならない気がした。ルールを──固い掟を破るような恐怖感を覚えた。
どうすればいいのかわからないまま、ほなみは近くの公園まで行くと子供連れの女の人におそるおそる声をかけた。
「あの、すみません。お聞きしたいことが……」
「は?」
「その……私、あの、」
「あ~ごめんごめんちょっとこの子トイレしたいって言うからさ急いでるのよね、ほら早く、すぐそこにコンビニあるから、行くよ!」
その母親は少しイライラしてるようなそぶりで子供にそういうと手を引いてさっさと行ってしまった。どうしようと思っていると公園の入り口にタクシーが停まっているのが見えたのでほなみはそちらに歩いていく。ジャージのポケットをさぐるが百六十円しか入っていない。社内で休憩している運転手と何度か目が合ったがおろおろしているうちに家出少女かと訝しがられたのかエンジンをかけ走り去ってしまった。
まるで世界中から拒絶されているような気持ちになった。そうこうしてるうちにあの男が戻ってきて自分を探しに来たらどうしようという絶望感が急に押し寄せてきた。逃げたことがわかったらきっとまたひどい目に合わされるに違いない。そう思うと足ががくがくと震え尿意までもよおしてきた。
(ほなみちゃん、キミはね、もう誰からも必要とされてないんだ。わかるね。み~んなキミを邪魔だと思ってる。ボクだけが君を助けようとしてるんだ)
あの男がこの三年間ずっと呪文のように”ほなみちゃん”に語りかけていた言葉が”穂波”にも伝わってくる。一番最初、学校帰りのほなみにあの男が話しかけてきた記憶も穂波にははっきり見て取れた。
(”さやまほなみ”ちゃんだよね。キミのお父さんが大変なことに巻き込まれてるんだ、とにかく……さあ車に乗って)
そんな言葉に不安が立ち込め、思わず気が動転して車に乗ってしまったほなみに男はこう続けた。
「キミのお父さん、競馬好きでしょ? それで莫大な借金を抱えててね、どうやらキミの臓器まで売ろうとしてるらしい。このままだとキミが危険なんだ。大丈夫、ぼくはその関係に詳しい弁護士さんの知り合いでね。ほなみちゃんの身の安全を確保するまで一緒にいるよう言われてるんだ」
穂波はまるで「自分のこと」のように思い出していく。「私は無事だから探さないでください」といった手紙も書かされたこともある。なのに”ほなみちゃん”はいままたあの部屋に戻ろうとしているのだ。他に行くところがない。戻るところがない。完全にあの男によってその思考を植え付けられているのを穂波は感じた。
(だめよ、せっかくこうして外に出れたのに……どうして逃げないの、ほなみちゃん、ねえ、だめ、あの部屋に戻っちゃだめ……)
穂波はまた頬に鈍い痛みを感じた。”ほなみちゃん”がまた殴られたのだ。
次にじゃらりと音がして腕を後ろ手に縛られた。自転車盗難防止用のチェーン錠だった。
「本当はこんなことなんてしたくないんだ。君が悪いんだ。せっかくキミを信用して部屋の中では自由にさせてあげてたのに……ボクがバカだった。こんなに可愛がって、こんなにいい娘にようやく育て上げたと思ってたのに」
腕に続き両足も幾重にチェーン錠で巻かれてロックされた。男の手がなまめかしく太ももを触り臀部へ移行する。
「ほなみちゃんは本当に温かくて柔らかいな。あとはフィギュアやドールたちみたいに動き回らなければ最高なのに」
(いやっ!)
そう声を上げたつもりが声にならなかった。男はウイスキーのボトルを握り”ほなみちゃん”の腹部に縦にめりこませたのだ。
「いい鳴き声だよ、ほなみちゃん。とても素敵だ」と言いながら男は細く絞ったシーツを”ほなみちゃん”の口に押し込み猿ぐつわを噛ませた。
「でもね、お喋りな女の子はボクは好きじゃないな……ねえ、ほなみちゃん、いつまで経ってもこんなやり取り、なんか、もう、飽きてきちゃったかも」
(助けて……お母さん……お父さん!)
声には出せてなかったが穂波にはそんな”ほなみ”の心の声がはっきり聞こえた。
違う……そうじゃない。
助けてくれたのだ。お父さんはもう私を一度「助けてくれて」いるのだ。救えなかった”ほなみちゃん”の無念を晴らすため、私を──”穂波”をすでに助けてくれていたのだ。どれだけ考えてもわからなかった父の不可解な行動、その答えがいまようやく繋がった気がして穂波は万力で胸が締め付けられているような気持ちになった。
「それが答えなの、お父さん?」
”ほなみ”と”穂波”は同時に天を仰いだ。
天井の隙間から──『蓋』の隙間から──巨大ななにかがこちらを覗き込んでいる。そんな気配を感じる。「悲しみ」と「感謝」二つの涙が同時に流れていた。
二人は開かれた天井に向かってゆっくりと両手を伸ばした。
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