『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』監督:ジョン・マルーフ &チャーリー・シスケル
'Finding Vivian Maier' dir. by John Maloof & Charlie Siskel, 2013
原題は「ヴィヴィアン・マイヤーを見つける」という感じの意味になるんだと思いますが、米国でナニー、要は家政婦兼子守として働いていた無名の女性ヴィヴィアン・マイヤー(1926-2009)が生前撮りためていた膨大な写真群が、たまたまネガの一部を入手した青年(この映画の共同監督でもあるジョン・マルーフ)によって「発見」され、インターネットを通じて世界的な話題となったその経緯に加え、更に彼女の足跡をたどる取材をした作品なので"Finding Vivian Maier"。
なぜ彼女はこれほど優れた写真を撮りながら発表しないままだったのか?という問いがこの映画を貫く一つの軸となってはいるのですが、生前のヴィヴィアン・マイヤーを知る人々の口からは彼女がそうした「写真家」として自己を確立する展開は想像できない、といった言葉が出てくる。プライヴェートな部分は殆ど他人に見せず、どうやら血縁からも早々に切れてしまっていた人のようでもあり、またヴィヴィアンに子守されていた子どもたちから語られるエピソードは時にそれは児童虐待だろう、というものもあり(彼らからは「変人」「変人以上」などと形容される)、そもそも「こんなの撮ったんだけど」とか言って他人に見せる事もなかったようなので、対人コミュニケーションという点からしても生前に「写真家」として名を成すといった可能性は無かったように思える。
「発見者」兼監督のジョン・マルーフは取材を進めるうちに訪れた、ヴィヴィアン・マイヤーの母親の出身地であるフランスの小さな村(マイヤーはここを何度か訪れている)にある写真館に宛てて現像とプリントをお願いしたい、と書かれたメモを発見して「やはり彼女は写真を発表したかったに違いない」と語るのですが、紙焼きを作りたい=発表したいではないし、マルーフも映画の中で「マイヤー自身によるプリントも存在するが、あまり出来が良くない」と言っているので、自分では作れない良い状態のプリントが欲しいと思っただけなのかもしれない。
頑なに自分の作品を表に出す事がなかったマイヤーの写真を、結果的に世界中に広めてしまった事について若干の後ろめたさをマルーフは感じているようで、彼のそうした逡巡が加わる事によってこの作品のドキュメンタリー映画としての面白さが増している。映画の導入部、マイヤーのネガを発見した経緯を語る時のマルーフは自身の「目利き」としての能力自慢を隠さないのですが、恐らくマイヤーの知人へのインタビューを重ねていくうちに彼女の抱えていたであろうダークな部分が次第に濃くなってきて、これは「不運にして埋もれていた天才の作品が間一髪で救出された」といった判りやすいサクセスストーリーにはならない…と気づいたのだと思う。インターネットで話題になり展覧会も盛況で写真集も売れたが、美術館のようなところは彼女の才能を認めようとしない、とマルーフは腹立たしげに言うのだが、それも「本来ならミュージアムピースとして評価されているべき作品であり、自分はそれを正当な位置に置き直そうとしているだけなのだ」と主張することで、その後ろめたさと折り合いをつけようとしているように見えた。
彼女の作品はジョン・マルーフが運営するこのサイトで観ることができる。最初に観た時に自分は岡上淑子のコラージュ作品を連想しましたが、被写体として生物と非生物との垣根が感じられない視線はちょっと異様なもので、これはそういう感じに撮ろうと思って撮れるものではないだろう。被写体とのコミュニケーションの過程では通常ある筈のものがない替わりに、特異な距離感がヴィヴィアン・マイヤーと撮られるモノとの間に存在し、そしてたまたま彼女が撮影者として稀有な能力を持っていたことで結晶した膨大な写真が陽の目を見た、ということなのだろう。作品は生まれた瞬間に作者の手を離れていく、という事が知られざる「作家」の人となりに迫ろうとする過程を通じて更に強くなる。なので生前の彼女がこの状況を喜ぶかどうか、という答えの出ない問いを続けるのは止めて、残された写真を眺め続ければいい。
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