4/9 【学生時代の栄光は、社会でほぼ通用しない。】
輝かしい栄光を持っている人が、このnoteの読者にどれだけいるだろうか。
栄光とひとまとめにしたが、栄誉とか名声とか、周囲の人間に羨ましがられるような体験を過去にしてきた人たちが少なからずいるだろう。特に学生時代なんかは、部活や勉学優秀だったとか、めちゃくちゃモテたとか、少なからず大人になった時よりも小さな栄光時代を体験している人がいる気がする。
恥ずかしながら、僕もそんな風に思っていた。中高と部活でキャプテンをやって、彼女もいて周りの友達にも恵まれて、正直何もかもが上手くいっていると鷹を括っていた。悩みが無いことが悩みだ!ハハハ!とかもしかしたら言っていたかもしれない。地獄だ。振り返ってみても、本当に恥ずかしい。
昨日、この過去の僕にそっくりな人と話した。案の定、同じようにうつを経験していた。今までうつとサウナとか色んなところでうつの経験をしている人と話してみて思ったんだが、自分の実力の過信と、その過信した実力が社会で全く通用しないことの絶望というギャップに苦しんでいる人が結構多い。
うつの症状の発症は人それぞれだとは思うけれど、「僕私はこんなもんじゃない。」という過去の栄光や経験からの過信が、どんどん発揮できなくなって、急に「全く世間で通用しない自分への絶望」に変わって病んでしまう。あるあるだと思う。僕もこれに近い要素があった。
特に高校くらいまでは、井の中の蛙なんだ。社会という大きな世界の中のたった小さな場所での栄光は、慢心と過信をもたらし、社会でもなんかこのままいけんじゃないか?みたいな気にさせる。大谷翔平のようにできた人間なんてこれっぽちで、大抵がずるずると過去を引きずり、あの時の自分とは変わっていない、とったのは歳だけだと言わんばかりに現在の実力を受け入れられないんだ。
僕のようにサッカー部でそこそこ上手く行っていたような人間は、プロになれなかった時点でちゃんとその時点での実力を受け止め、別の社会で活躍するためにどうやっていったらいいのかという新たな自分の模索を、人間性や物足りないところの把握を、ちゃんと過去から切り離してやることがとても大切になると思っている。
またうつの要因で、意外と負けず嫌いってのは多い。負けを認められない。ちゃんと自分のウィークポイントを受け止められない。それは裏を返せば、そこまで大きく負けるような経験がなかった、過去がそこそこ上手くいっていた証拠でもあると思うけれど、これは本当に自分で自分の首を絞める行為で、その絞める力はなかなか弱まることを知らない。大袈裟にいうなら自殺行為である。そもそも勝ちとか負けとかで人生を判断するのも間違ってるとは思うけれど、なんかうつになる人って周囲との勝ち負けにこだわるんだよね。
ちゃんと全ての自分に目を向けよう。基本、負け戦なのが人生だ。負けてさあどうしよう?何をすればいいんだろうと、現状の自分の実力と負けを認めてあげることから始めよう。僕もあなたも決して強くない。むしろ弱い。だからちゃんと負けよう。負けまくって、ちゃんと涙を流して、血も流そう。
そうすればきっと、傷だらけだけど少し強くなった、新しい自分に出会えている気がする。