盗作と残存性
2024.08.28
ぺぎんの日記#145
「盗作と残存性」
小学校の頃の作文の授業。私の担任だった先生は盗作をした。
私の作文好きの原点は、この先生にあると言っても過言ではないかも知れない。「初め・中・終わり」の典型的な構造をなぞった、特異性の無い作文よりも、個々人の思いが溢れ出たような、そんな活き活きとした文章の方を評価してくれる先生だった。
焦って書いて字がグチャグチャになった部分を見て「気持ちが先走ってるねぇ笑。ここ書いてて楽しかったでしょ」と、先生は笑ってくれた。実際そこは、溢れ出る感情が消えてしまう前にと、無意識ながら、思いつきと同時に急いで書いた部分だった。自分が思い描いていた理想、自分がやろうとしていたこと、そういうものが作文を通して先生に見透かされている感覚が気持ちよかった。
そんな先生は、小学6年生の夏休みの宿題でも作文の宿題を出した。
テーマは「小さな夏休みの思い出」
ディズニーに行きましたとか、高級な買い物をしましたとか、そういう大きな思い出ではなく、日常の中で見つけた、小さな嬉しかったことを書いてください。そんなお題だった気がする。
宿題の紙に書かれたそれを見て、面白いお題だと思った。そしてそんな面白いお題の下には、先生が書いたお手本の作文が載せられていた。
実際はこの文章にさらに、床屋の情景や美容師さんとの会話が盛り込まれていたが、元の内容となっていたのはこのネタだった。このネタは「面白い話」として世に出回っているものである。
そう、お題として「思い出」を要求しているのに、先生が書いた作文はまさかの盗作であった。当時の私はそれに気づかず、素直に「へぇ先生って面白い体験してるんだな」と感心した記憶がある。
盗作に気付いたのは私が中学生のときだった。私は懐古趣味が激しいので、定期的に昔の資料やら思い出の品やらを押し入れから引っ張り出して来るのだが、そのとき見つけたこの作文に妙な違和感を覚えて、検索にかけてみた。当時は気付かなかったのだが、どうも文章の雰囲気が、先生っぽくなかったのだ。
案の定というか、残念ながらというか、元ネタが見つかってしまった。しかも最悪なのが、「面白い話」と検索しただけで、それが出てきてしまったこと。
「面白い話」からの盗作。そう分かった瞬間、そこそこ好きだったその先生への評価は、一気に地に落ちた。生徒に見せるお手本の作文で、先生自身が頑張って書かないってどういうこと…。
先生という職業が、忙しいものだということは知っている。だが、作文のひとつくらい何とか書けたのではないか。そもそも自分の思い出を書いたのでないのなら、例として載せないでほしい。
文章において全くパクらないというのは不可能で、私たちが文章を書くときは必ず、誰かに影響されながら書いているのは認めざるを得ない。しかし悪質は「盗作」はやっぱり許せないと思う。許せないというか、盗作をした人は正直信用できない。その人だと思っていた部分が、実は他人のそれだったのだから。
人との会話において、あたかも自分のことのように、見聞きした話をすること。それは多少悪質だとしても、会話の面白さを担保するために必要なことなのではないかな…と思う。でも、文章に関して言えば、私は盗作を受け入れることはできない。一生残り続ける、ある意味自分の名刺やタトゥーとなり得る、残存性をもった作品に「盗作」という手法を用いること。匿名であれ実名であれ、そういうことをする人は、私は嫌いだ。
先生の盗作を見つけてしまったときの失望。その感覚を今でも思い出す。文章を書くときは盗作を決してしないこと。当たり前のことだけど、今までも、これからも、私は徹底していくつもりだ。