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目の前の景色を疑う
私の青と、あの人の青は同じだろうか、と時々かんがえる。
たとえば、ここに色のついた物体がある。
私はそれを「これは青だ」と言う。
隣にいる人も「うん、青いね」と同意する。
だけど、私とその人が同じように「青い」と表現した色は、果たして本当に同じ色だろうか。
その人にとっての「青」は、私にとっての「緑」だった、なんてことは起こり得ないのだろうか。
たとえば小さい頃、空を見上げて「これは青い空」と教わる。私はその色を「青」という名前で記憶する。
でも、ある人の目に映る空は、私にとっての「緑」かもしれない。
だけどその人はその色を「青」と教わり、「青」という名前で記憶している。
だから、お互いに違う色の空を見ながら、「今日は青空だね」「うんそうだね」と言い、同じものをみていると信じる。
「青」という、色につけた名前が一致しているだけで、
ほんとうは違う色を見ていることに、気がつかない。
ずっと気がつかない。
最初にそんな風に思ったのは、まだ10代のころ。
どうしてそんなことを考えたのか忘れてしまったけれど、このことに思い至ったときのぞっとした感覚は、今も忘れない。
自分が見ている世界は、本当は他の人にはぜんぜん違って見えているんじゃないか。自分だけ、色の違う世界で生きているんじゃないか。
いや、違う。
みんな少しずつズレているのかもしれない。だけど、誰もそのことに気がつかず、みんな同じ色の世界にいると信じ切って生きている。
どちらにせよそんな風に考えると、目の前の色彩は急速に不安定になり、私が世界と信じていたものがぐらつき始める。
あの時、ふたり並んで黙って夕陽を見ていたときに生まれた何かが、急に色褪せていく。
ほんとうは、誰とも分かり合えていないんじゃないか。
ちなみに、「共感覚」というものを持っている人は、文字や音に特定の色がついて見えるのだという。
そういう人たちにとって、たとえば「あ」はいつも赤い。
以前、旅先で知り合った人は「フォント(書体)に色を感じる」と言っていた。
疑いもせずに見ている目の前の景色が、本当にそうだという証拠は、どこにもないのだと思う。