キチジローの話
「あなたの言うことはいつもとても正しいと思うけど、そうではないこと、そうはいかないこともある、ということを、もうすこし理解できたらいいと思う」
私の信頼する人が、以前、そう教えてくれたことがある。
心当たりはあった。
今までいろんな人から、私は「それは正論だけど」とか「言っていることはもっともだけど」とか言われることがあったからだ。
その一方で、あまり自覚はなかった。というのも、私はいつだって「正論」を言っているつもりはないからだ。ただ自分の意見を言うと、なぜかいつも「正論」と見なされ、ときどき誰かをウンザリさせてしまう。
だから、彼女にそんな風に言われたとき、私はぼやいた。「理想通りにいかないこととか、思い通りにならないことがあることも、わかってるつもりなんだけどなぁ」
するとその人は、「キチジロー」の話をした。
キチジローというのは、遠藤周作の『沈黙』に出てくる登場人物だ。
『沈黙』は、キリスト教が弾圧されていた時代に、海をわたってきた外国人神父と、長崎の隠れキリシタンの物語だ。
キチジローも隠れキリシタンなのだが、金のために神父を裏切ったり、自分だけ踏み絵を踏んだりする。その度に泣いて許しを乞うのだが、再び目の前の誘惑に負けて人を裏切り、また性懲りもなく許しを乞う。
どうしようもなく弱く、醜く、情けない。それがキチジローだった。
彼女は、私が以前、キチジローが大嫌いだと言ったことを覚えていた。
私も覚えていた。彼女がその時「キチジローはとても人間らしい」と言ったことも、私がどうしてもそれに同意できなかったことも。
あなたは、なんでキチジローが嫌いなの?
「理由なんてないよ。ただただ自然と嫌悪感が湧きあがるんだ」
どうして嫌悪感がわくの?
「どうしてだろうね。もしキチジローがサイコパスとか、常人には理解不能な存在だったら、こんなに嫌悪感はわかないと思うんだけど・・・」
そう言いながら気付いた。理解不能なものに嫌悪感がわかないとするならば、逆に、嫌悪感がわくということは、理解できるということだ。
理解できるということは、私はそれを体験しているということであり、
おそらくその体験がとても嫌だったから、「嫌い」と言って目を背けようとしているのだ。
自分の中にキチジロー的な部分がある。それは少なからずショックだった。
1人になってから、私はじっと考えた。私の中のキチジローとは何だろう。
私が直視したくなかった、自分の弱さ、醜さ、卑怯さとは、何だろう。
ある日の記憶が蘇った。まだ新人看護師だった頃のことだ。
土曜日の夕方、緊急入院してきた女の子に、鼻から胃にチューブを入れる処置をすることになった。
本来なら胃にチューブを入れる前には、最後に飲食した時間を確認する。(食べたばかりだと、チューブを入れるときの刺激で吐いてしまうことがあるからだ。)
しかし私は、飲食時間の確認をすっかり忘れていた。そして、チューブを入れようとしたところ、女の子は大量に嘔吐した。その子は、緊急入院の直前に、ご飯を食べていたのだった。
不運なことに、その日のリーダーは阿修羅のような人だった。
「西尾!最後の飲食時間、確認したの?」厳しい口調で確認された私は、怒られる!と思い、とっさに「入院時に情報をとったのは、私ではなく◯◯さんです」と先輩の名を答えた。
私も確認しておくべき情報だったにもかかわらず、私は先輩のせいにして、責任を逃れた。大げさに言えば、そのとき私はその先輩を売ったのだ。
この新人看護師の卑怯さは、きっと阿修羅にもお見通しだっただろう。
10年経った今も、私はこの出来事を鮮明に覚えている。おそらく私にとって、あまりにも嫌な出来事だったからだと思う。
キチジローが幾ばくかの銀貨と引き換えに神父を売ったことと、私が阿修羅から怒られないように先輩を売ったこと。結果の重大性は違うとしても、本質的には同じだ。自分の利益のために、とっさに他人を売ったのだから。
思い出せることは、残念ながら、他にもいくつかあった。
自己の利益のために、他人を陥れる愚かな自分。見たくない、知りたくない、忘れたい自分。
キチジローは私の中に間違いなく存在している。
今もたぶん私は、自分の中のキチジローを恐れている。あまりに怖くて直視することもできず、キチジローへの嫌悪感とともに、自分の外に追い出してしまうほどに。
私は、正しく生きていきたかったのだ。
「あなたの言うことはいつもとても正しいと思うけど、そうではないこと、そうはいかないこともある、ということを、もうすこし理解できたらいいと思う」
これは、今の私にはまだすこし難しいのだと思う。
いつか私がもうすこし強くなって、自分の中のキチジロー的な部分を乗り越えられたら、きっと他人の弱さにも優しくなれるだろう。
キチジローに「そういうことってあるよね」と言えるようになったら、それが成長の証なのかもしれない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?