だから、それを恋と呼ぶだけ。(赤い林檎を認識するはなし)

清少納言じゃないけれど


新しい場所をドライブするとき。

いつもの通り道からのびる知らない道を見つけたとき。

事細かに魔法のかけ方が書いてある本を読んだとき。


わたしはそういうときの感情を「わくわく」だと思っている。


何でもない日にプレゼントをもらったとき。

苦手だと思ってた人が笑ってくれたとき。

わたしがいなくなったら捜しに行くと言ってもらえたとき。


わたしはそういうときの感情を「嬉しい」と呼んでいる。


そして、「嬉しい」が続いたときの感覚を「幸せ」だと思っている。


感情って言葉で伝えることができないのに、なんで人はみんなそれを同じ言葉で共有できるのかね?

「赤い色が青く見える目を持っている人がいたとしても、意思の疎通には何の不都合も生じない(※)」ってことを哲学の授業で聞いたとき、感情においてはどうなんだろうって疑問がわいた。

わたしが喜びだと思ってる感情が、
    怒りだと思ってる感情が、
    哀しみだと思ってる感情が、
    楽しさだと思ってる感情が、
    恋だと思ってる感情が、
他の人の心でどういう動きをするものなのか知ることはできない。

だから、それを恋と呼ぶだけ。

(※例えば赤い色が「赤く見える人間」と「青く見える人間」が同じ赤い林檎を見たとして、人はその色を「赤」と呼ぶのだから、頭の中でどんな色に見えているかは問題にならない。2人は「赤い林檎がある」と言うはずだから。)

(この記事は2007年に書いたものの再録+一部改修です。)

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