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「千利休」のデザイン
自分が好きなデザイナーを聞かれた時に、3番目以内に入るのが千利休だ。なんでかと言われると一言で言えないというか、自分でも理由がよくわからない。ただ、利休が残している長次郎に造らせた黒楽茶碗や待庵といった茶室、数々のエピソードを聞いていると、日本人の琴線に訴えてくるものがあるし、自分が持っている価値観の結構大きな部分は、利休というデザイナーが作っているのではないかという気がしている。
デザイナーとは
利休がデザイナーであるかどうかは、利休がデザインをしたかどうかが重要だ。
デザインとは課題を解決する事でも、課題を見つける事でも、問題を提起する事でもなく、価値を提示することだと思っていることは以前書いた。
デザイナーはデザインをする人なので、自分の定義で言えば価値を提示する人だ。もっと言えば視覚的、造形的なアウトプットを通じて価値を提示する人のことだ。
上記に照らし合わせると、利休は様々な視覚的、造形的なアウトプットを自身で、もしくはプロデューサーとして生み出しているのでデザイナーであることは間違い無いと思う。
なぜ好きなのか深ぼる
デザイナーとして好きであるからには、そのアウトプットが好きなことは間違いない。葛西薫さんや大原大次郎さんなど、手放しでその仕事が好きなデザイナーはたくさんいる。しかし、利休については、待庵のお越し絵を自分で作るぐらい手掛けた造形物にも興味があるし、黒楽茶碗の仕上がりなど、実際のものを見て素晴らしいとは思うものの、時間軸が遠いので物と利休とのつながりをそこまで強く感じない。作ったものだけではないところに他のデザイナーよりもまず名前が上がる理由があると思う。
好きなエピソード
利休は、作ったもので価値を提示しただけでなく、その言動によってより多くの価値を生み出していったのだと思う。黒楽茶碗を見た時、なんて美しい茶碗なんだろうと思い、長次郎の仕事の素晴らしさに感じ入るよりも、その素晴らしさに誰よりも早く気がつき、世に生み出そうとした利休の慧眼に感心してしまうのは、そこに本質があるからだろう。
自分が気に入ってる利休のエピソードに「木守」というものがある。
長次郎が焼いたいくつかの茶碗を並べ、弟子たちに好きなものを選ばせて残ったものに「木守」という銘をつけたというものだ。
「木守」という名は、秋に柿の実を収穫する際、来年の豊作を願って一つだけ取り残す風習があり、一つ取り残された柿を「木守」と呼んだことにちなんでいる。
好きなデザイナー
改めて、好きなデザイナーを考えると作ったものが素晴らしいかどうかは、あまり関係ないような気がしてくる。最近コテンラジオというポッドキャストをよく聴いているが、そこでメインパーソナリティの深井さんとヤンヤンさんがよく、「この偉人、自分はめちゃめちゃ好きなんだけど、欧米人には全く評価されてない」とコメントすることがある。欧米ではわかりやすく成果を出したユリウス・カエサルのようなスーパーマンが好まれるらしいが、自分も完璧な人間というよりもどこか不器用であり、でっこみ引っ込みがあるような人間に惹かれるのだ。つまりデザイナーというアウトプットを出す人という前提よりも、人間的に面白いことにとても惹かれるのだ。
利休と話したことがあるわけではないが、上記のようなエピソードや残された創作物が訴えてくる天邪鬼な気質にどうしようもなく惹かれてしまうのだろう。