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”とて”の話
ロックダウンの規制が少し緩和されたので、今日は会社の後輩と散歩に出掛けました。
一緒にオンラインゲームをよくしているので、会話はほぼ毎日しているのですが、直接会うのは久々でした。
直接会うと、やっぱり会話も弾みますね。
そんな中でふと思った、”とて”の話。
「今日もフォートナイトやります?」
「ん~どうしようかなあ。正直2日に1回くらいでいいんだよなあ。」
「いやあ、やっぱやりこまないと上手くならないっすよ。」
「まあねえ。でもさ、上手くなったとて、よ。」
「まあ、それ言ったらなんでもそうですけどねえ。」
今日の帰り際の会話です。
上手くなった”とて”、別にプロゲーマー目指してるわけでもないし。
もっと他の、スキルが身につくような、有用なことに時間使った方が、なんて思ってました。
でも、確かに彼の言う通り、”とて”って言い始めたら、キリがないかもしれない。
キリがないというより、無意識に色んな可能性を、潰してしまっているのでは?
YouTube観た”とて”、ユーチューバーを目指すわけでもない。
ギターの練習した”とて”、ギタリストになりたいわけでもない。
語学の勉強した”とて”、日本で生活してりゃ特に困らない。
と思って、何もしなくなるのは、勿体ないのでは?と気づきました。
YouTube観ていたら、なにか僕の価値観を大きく変えるような動画に出会うかもしれない。
ギターが上手くなれば、老後の趣味として楽しく余生を過ごせるかもしれない。
語学の勉強をしていれば、東京オリンピックのときに出会った外国人と、一生の仲になれるかもしれない。
それぞれを、今の僕に無駄だと判断できるだろうか?
”とて”の二文字で、自分には不要と合理的に説明できるだろうか?
”とて”は、自分の可能性を狭めてしまう。
「ごめん、いま”とて”って言ったけど、確かにそうだわ。全部そう。”とて”で片づけてたら何も始まらないわ。もう”とて”言うのやめる。あと今日は”とて”で文章書くわ。読んでよ!」
「いや、いいっす。」
「えー、なんでよ。」
「いやだって、読んだ”とて”でしょ。笑」
とて~~
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