パラリンピックと障がい
何に感動しているのだろう?
パリ2024オリンピック・パラリンピックが終わって2ヶ月近くが立ちました。
車椅子テニス男女共に決勝は、生中継ということもあり熱くなって観戦したのが、ついこの間のように感じます。
小田選手を毎日のようにCMで見ているということもあるかもしれませんが・・・。
上地結衣選手、小田凱人選手、あらためて金メダルおめでとうございます。
車椅子テニス決勝の生中継は当初予定されていなかったようですが、小田選手が発したメッセージを受けてのことなのかどうかですが、NHKが急遽生中継をすることになったようで、そのおかげで上地選手と小田選手の決勝での姿を見ることができました。
それにしても、小田選手のしっかりとした考えに基づいたメッセージには感銘を受けました。(興味のある方は、小田選手のメッセージを検索してみてください。)
パリ2024オリ・パラは、ちょうど日本テレビの24時間テレビもあった時期だったこともあり、「障がい」のとらえ方や考え方、報道のされ方など、様々考える時期でもありました。
パラリンピックの競技を見ていて、この競技だったら障がいのあるなしに関係ないよなあとふと思いながら見てしまうと、
「なぜ分ける必要があるの?」
「競技のルールの中でやっていて、それができているのであれば「障がい」って関係ある?」
などと、種目のルールや選手の想いに関係なく、不満や批判めいたものが湧き上がってきてなんだかスッキリしない気持ちになるときがありました。
競走にしても競泳にしても、私と比べてしまっては大変失礼ですが、とんでもなく速いタイムで走ったり泳いだりされていることを考えると、通常行われている大会への参加をされることはあるのかなと思ってしまいます。
例えば、陸上競技だったらその種目のルール内で競技ができればいいわけだろうから、知的障がいかどうかなんて関係ないよなあ。
水泳だったら、視覚障がいの選手へのサインである頭にポンと補助の方がタッチしてターンのサインを送る手立てだって他の選手の泳ぎを邪魔するわけではなだろうから、障がいの有無なんて関係ないのではないかなあ。
などと選手の意向もわからずに思ってしまいます。
私の友人は、伴奏者が必要な視覚障がい者のマラソンだって障がい関係なく一緒に走ってもいい状況は何かしら作れるのではないだろうか?と話をしていました。
こんなことを考えていると、最初の「障がいって何?」ということに戻ってしまいます。
ひたむきに競技をしている選手を見ていると、
何が障がいなのか、どこからが障がいなのか、誰かの線引きで決められたようなそんなことはどうでもよくなってきます。
ましてや、障がいがあっても頑張って乗り越えていますということなんかではなく、少なくとも私が魅了されているのは、自分のやりたいことに向かって人生を生き生きと楽しんでいる人の姿なのだと思います。
そう思うと、そんな人って身の回りに意外といるように思います。
また、自分もその一人でありたいと思います。
4年後はロサンゼルス大会です。
オリンピックがどうのこうの、パラリンピックがどうのこうのと難しく考えずに、オリ・パラを包含した視点で、選手のみなさん一人一人が競技を通して人生を楽しんでいる選手の姿を私自身4年ごとに楽しみ、選手のみなさんから強烈なエネルギーをもらいたいと思います。