偶像を崇拝してはならない
皆さん、おはようございます。今回は、モーセの掟にもある「偶像を崇拝してはならない」と言うことについてお話したいと思います。
毎度毎度のリマインドですが、ぼくがいつも書いていることは、個人的な解釈でしかなく、決してどこかの誰かや組織や教会やその他諸々の教えや思想に反対するとか、絶対普遍の真理を語るとかそういうものではないので、予めそのところを理解した上で、読んでくださいな。
ここに書かれている偶像という単語ですが、ヘブライ語ではペセルと言うらしく、このペセルと言う語は、切り取って作る、とかいう意味になるそうです。
モノを切り取って作る……。事象の解釈をし、歪ませてインプットし、バイアスを形成することも、ある意味ではペセルなのかもしれません。
もちろん情報を整理して、記録したり伝えたりするためには、事象を解釈して理解しやすい形に加工しなければならないのですが、恐らくその「知識」が「思想」に影響を及ぼした結果に、心の歪みが生じてしまうのかもしれません。
つまり、知識と思想を分けて考えなくてはならない、そういうことをモーセは言いたかったのではないか、と推測します。
そして真なる思想とは、結局のところ愛なのでしょう。
愛。まあ筆者もよくわかってません、ただ漠然とですが、それは絶対普遍の真理なんじゃないかという感じがします。まったく根拠も無い、論理性の欠片も無い話ですけどね。
知識と思想がごちゃ混ぜになることで、何かが狂うのではという感覚をおぼろげながら感じています。
創世記第2章、有名なアダムとエバの住んでいたというエデンのお話ですが、ここには「善悪の知識の木」なるものが登場します。最終的に、へびがエバを騙して善悪の知識の木の実を食べさせ、エバがアダムにも食べさせた結果、二人は裸で居るのが恥ずかしいと感じるようになりました。
まさに、事象を解釈して歪ませてインプットした結果に形成されたバイアスが、そこにはあるのです。
ヘブライ語では、エツ・ハ=ダアト・トーブ・ヴラと書かれているらしく、善と悪、即ち、相反する性質を持つモノの両極端を理解(あるいは誤解)するという意味になります。相対性と言っても良いかも知れません。
知識を得ること自体は悪くないのですが、その結果思想にバイアスが生じ、自分だけの価値基準を持ち、他人の価値観を認めないという精神が生じてしまうということなのでしょう。
自然の中にある相対性なモノを解釈して、科として体系化し、知識として伝承していく、これは当然大事なことですが、それは真実ではなく、「偶像(ペセル)」である、ということを忘れてはなりません。
科学は便利な道具であって、真実ではないということですね。
調理道具や食器は、自然にあるものを加工して作りますが、スプーンを大事に飾ってそれを崇拝する人はまず居ないと思います。いやまあ、そういう新興宗教やアミニズム信仰も、中にはあるかもしれませんけど。
スプーンを信仰しないのに科学を信仰するのは、よくよく考えればおかしいことですね。科学も所詮、自然にあるものを加工した情報に過ぎません。もちろん科学には、真実を追求するという面もあるのですが、自然の真実は心の真実とは別物です。
恐らくモーセが言いたかったことは、「偶像(ペセル)」と「真実の愛」を混同するな、ということではないでしょうか。
そして人間の真の精神とはやはり「愛」であり、「愛」以外のものは「偽」なのだと思います。ゆえに、情報によって形成されたバイアス(ペセル)を信仰せず、人が元来持つ「愛」を信仰せよ、ということをモーセは、文明レベルの低い時代の人々にわかりやすく伝えるため、このような物語形式で語って聞かせたのではないか、と思います。
ペセルの意味は、石や木からナニカを創るという意味らしいですが、モーセが言いたいことは、単純に像を創るな、像を拝むなという意味でないことは、創世記全体を読むと明らかになってくると思います。
像を創ってそれを基に夢想し、ましてやひれ伏してしまっては、人間が本来持つ心の根源である「愛」が喪失してしまう、ということなのでしょう。
それであれば、像だけに限らずありとあらゆる学問にも同じことが言えます。では文明を捨てろという意味なのか?そうではなく、知識は知識に過ぎず思想に反映するものではない、ということなのだと思います。知識と心がごちゃ混ぜになるからおかしくなるということです。
その証明として、人間の脳は、わざわざ右脳と左脳とに分け、役割が違っていることが脳科学でも判明しています。論理的な情報は左脳で処理し、曖昧な情報は右脳で処理するように出来ています。
この論理的な情報が「知識」、曖昧な情報が「愛」だと考えれば整合性が取れるように感じます。
昨今では、議論に必ず「エビデンス」を求める方が多くなってきましたが、それはまさにペセルが人を支配してしまっているということなのでしょう。即ち、左脳偏重主義であり、右脳を蔑ろにしがちだと言うことです。
論理的思考だけで良いなら、そもそも人は左脳だけで良いのです。しかし人間には右脳も存在する。まあ単純な話、生存しやすくするために、正確な情報処理を左脳で、スピード重視の情報処理を右脳でしているだけなのでしょうが、そうだとしてもやはり論理的思考だけあれば良いわけではないことに間違いはないでしょう。
生来、視覚情報として、血や肉片を見ると人間は嫌悪感を感じ、嗅覚情報では血の匂いを嗅ぐと凄い臭くて耐えれません。これは死生観を知識として獲得する前から備わっている感覚です。特に嗅覚はバイアスなんて関係なく、快不快を判断していますね。
自分の死のみならず、他者の死にも嫌悪感を抱くように、人は出来ているのです。であれば、人の根源が愛でなく何だと言うのでしょう。
とはいえこれに関しては、死体や血や肉片が病気を媒介しやすいので近付いて変な病気にならないように、という本能の役割もあるのでしょうけどね。遺体を埋葬したり火葬したりするのも、衛生問題が先にあったのでしょうけども。
感情に支配されてはならないけど、ペセルに支配されてもならないわけですね。逆に人間はこれらを支配しなくてはなりません。そのことについて、カインとアベルの物語にも書かれています。
大事なのは聖書そのものではなく、その著者が何を訴えたかったか、です。聖書そのものも所詮は像でしかなく、ペセルの一種なのです。曖昧な情報を右脳で処理し、愛で見なければ見えないものが多くあるのです。
以上、偶像を崇拝してはならないということは、知識によって形成されたバイアス(ペセル)に支配されるなという意味というお話でした。
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