整合性のチェック
人は往々にして、他人の欠点には気付きやすい反面、自分の欠点には気付きにくいという性質を持っています。
これは精神衛生の為の防衛本能によるもので、人は自分の持っている根っこ、価値観、アイデンティティ、エゴ、コギトを否定されると激しく拒絶し、客観性の高い事実を捻じ曲げてでも自分が正しいと主張しなければ気が済まなくなることがあります。
こうして客観性の高い事実を捻じ曲げて穿った主観で物事の判断をするようになることをバイアス(偏り、偏見、先入観)と言います。
尤も、客観性の高い事実が真実であるかというと、そうではなく、それは主観を可能な限り排除したつもりになった主観に過ぎません。
しかし、個人の脳内だけで作り出した主観と比較すれば、比較的信憑性が高いと言えるでしょう。
さて、聖書にはこのような言葉があります。
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。
木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。
善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
筆者も含めて、人間というのは言葉と行動、或いは思考と現実の整合性が取れていないことが多いです。
ぼくはnote最初の記事に書いたように、現実では40のおっさんなのに、ネットでは7歳の竜族の女の子などと意味不明なことを言っています。
口で言うことと現実に乖離があるということです。
この乖離性を自分自身で認知できなくなった場合、早めに医療機関を訪ねなくてはなりません。乖離性人格障害または自己同一性障害の可能性が高いからです。
尤も自分自身で認知できなくなった場合、第三者の介在が無くては自覚のしようがありませんが。
そういう意味でも、自分以外の存在に自分をチェックしてもらうことはとても重要です。
そういう病気の症状でなるのは脳の構造上、致し方ありませんが、健全な精神と健全な肉体を持った不自由無い人間であっても、整合性が取れていないことがままあります。
話は逸れましたが、このイエスの言葉は整合性のチェックをする場合に於いて有用と言えます。
少々意訳になりますが、この言葉の場合、良い木とは普通に食べられる果実を生む木で、悪い木は毒の果実を生む木とでも考えれば良いでしょう。実際に、生で食べると大変なことになる木の実や種が自然界には多く存在します。
ドクウツギからりんごの実が成ることはありませんし、ぶどうの木からヨウシュヤマゴボウの実が成ることはありません。
これを人間に置き換えるなら、口を開けば悪口や批判ばかりの人間が良い結果を生むことは少なく、他者を慮る言葉を使える人間は良い結果を生むことが多いです。必ずしもそうとは限りませんが。
また、言葉だけは綺麗な人間でも、行動が伴っていない人間も居ます。
その人の言っていることに整合性があるかをチェックするには、こういった聖書の言葉などを思い出すと良いかも知れません。
尤も、整合性のチェックをしたからといって完全に見分けられるかというとそれは不可能です。所詮人間は主観でしか物事の判断が出来ない存在だからです。それこそ神でもない限り完全に見分けることは不可能です。
このイエスの言葉は、自分自身の整合性をセルフチェックする際にも役立つと思います。
平和の重要性を説きながら、他人の批判ばかりしている人。
他人の欠点ばかり指摘しながら、自らの反省はしない人。
他人の忠告は受け入れないのに、他人への忠告ばかりする人。
こういった方を信用するのは少し難しいでしょうからね。