すべてが他力であり、自力は無い。

我々ヒトは、自力で生きることが出来ない。まず空気が無くては生きられない。そして水が無いと生きられない。自分以外の生物を殺して食べなくては生きられない。当然、これはヒトに限らない。すべての生物は、その生物以外の何かの力によって生かされている。

そしてそれは宇宙、銀河、星系、恒星、惑星すべて例外ではない。恒星が無くては惑星は維持されず、惑星が無くては星系が維持されない。星系が無ければ銀河は存在せず、銀河が存在しなければ宇宙は存在しない。

すごく当たり前の事なのに、何故か我々は時折そんなことすら忘れてしまう。

人が何かを成し遂げた時、何がそれを成し遂げさせたのか。まず一番に自然だ。自然がそれを成し遂げさせてくれた。次に環境だ、周囲の環境がそれを成し遂げさせてくれた。そして次に、自分以外の命だ。自分以外の命がそれを成し遂げさせてくれた。そして次に、自分が飲める水を管理してくれた人が、それを成し遂げさせてくれた。そして次に、食料のもととなる農作物や家畜を作ってくれた農家の方々が、それを成し遂げさせてくれた。農家の方と、水道やダムやポンプの施工や管理をしてくれた方というのは、これほどまでに偉大な存在であることを忘れてはならない。もちろん農業や工業を行うための電力や機具のメーカーや、その従業員、作業をした業者の方々も偉大な存在だ。

あれやこれやと色んな人や物の色んな助けによって、やっと自分は今成し遂げたことを、成し遂げさせていただいたというわけだ。自分の力で成し遂げたことなど何一つない。

指先一つ動かすのにも、水と食料が要る。飢えて乾けば身体も脳も動かず、意識も消え失せる。農家の方々や水道を管理されている方々には頭が上がらないというものだ。そして自身の命を我々に与えてくれた動物や植物、大自然が生んだ水。彼らが無くては、我々に明日は無い。

ということは、ニートや労働していない金持ちばかりを責めるというのもおかしな話になる。ニートや労働していない金持ちは確かに他人に自分の責任を押し付けていると言えるかもしれないが、そんなものは一般的な社会人であっても同じことだ。たとえ狩猟部族であっても、無人島で一人生活していても、同じことだ。

しかしヒトは、自分の事を棚に上げて人の文句を言う。とはいえニートや労働していない金持ちも、今の環境が自分の力だと思っているなら大間違いだが。

それゆえに、何に対してであっても「自己責任」という言葉はおかしい。自己の責任を取れている存在は一人としていない。もちろん、何かを他人の責任だと思うのもおかしい話である。当然だ。「自己責任」がおかしいなら、「他者責任」もおかしい。その「他者」にとっては自分が「自己」であるから、責任があろうはずがない。

とはいえ、どこかに責任を求めないことには社会は成り立たない。というわけで人間は、「法」によって「責任」を定めることとした。「契約」も言わば、お互いに話合って私はあなたに対してこういう責任を負います。その代わり、あなたは私に対してこういう責任を負ってください。という約束事のようなものだ。

逆に言えば「法」に依らない責任は無い。あってはならない。それを求めることはただの我が儘でしかなく、それを負うことはただの徒労である。即ち、相手から自由を奪う、自身の自由を放棄する、ということでしかない。そこに尊厳などない。

すべての存在は、おしなべて他力に依っている。自力で存在する者は無い。よって、徳などというものは無い。だから、別に他人に甘えても良いのである。だらけても構わないのである。常に肩肘張って正しく生きたところで、何か御利益があるわけでもないのだ。

とはいえ、何か目的があって他者からの承認を必要とするなら、普段は肩肘張って見目良くした方が良いのかもしれない。それも説得力の一つになるからだ。

いくらルッキズムな思想が間違っていると言ったところで、多くの人間がハロー効果やピグマリオン効果、メラビアンの法則などのバイアスに気付いて排除しない限りに於いて、それが説得力の一部であることは否定できない。(そもそも排除しなければならない理由もない。)そして、人を率いるということも、結局は誰かがやらなければ社会が維持できないのだから、それは必要な力と言える。

どのみち、すべてが他力であることは変わらない。威張ったり傲慢になれるような存在は居ない。もし居たとしたらそれはただの道化だ。相手にする必要もない。

食べることが出来るのも、飲むことが出来るのも、呼吸ができるのも、服を着れるのも、家に住めるのも、何かを楽しめるのも、何かを学ぶのも、思考するのも、note記事を書くのも、誰かと語らうのも、すべて一切例外なく他力であり、自力など無いのだ。

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