多数と権威と力
皆さんこんばんは。
今日は力こそ全てというお話をしたいと思います。
毎度毎度のリマインドですが、これはあくまで筆者の主観による解釈に過ぎませんので、どこかの誰かあるいは組織や教会の教えに反論するとか、絶対普遍で完全なる全知全能な真理というわけではありませんので、そのことを踏まえた上でご愛読頂くことをお願いします。
うまいこと言いましたねぼく。
・・・・・・。
毎度毎度のリマインド
↑ここですよここ!山田君、座布団100枚!
誰かこれを広めて来年の流行語大賞にノミネートさせてくださいね。
その時には是非このぼく、ぺどらの名前をリスペクトしてください。
冗談はここまでにしておきましょう。
さて今回は少し嫌な感じのすることをお話します。
それはずばり、この世は所詮、力こそ全てだという悲しいお話です。
正直ぼくもこんなの認めたくありません。力より想いだろ、優しさだよ、愛だよ、愛が全てなんだ!力なんて幻想だ!
本当ね、そう思いますよ。
皆さんはE = mc2ってご存知ですか?ぼくはよく知らないです。じゃあ使うなよ・・・・・・これも毎度毎度のリマインドですね。
何となく雰囲気で分かれば良いんですよ(逆ギレ)
物質の持つエネルギーは、その物質の質量に光速の二乗をかけたものに等しいってことです。
なんかようわからんですね、端折りましょう。
重いものほど強い!以上です。
うん、今物理学を猛勉強中の学生や、必死に研究されている学者さんの怒りのエネルギーを感じた気がしますよ。人間の質量が大体50kgくらいだとして、それに光速の二乗ってことは、嗚呼、その怒りのエネルギーでぼくは一瞬で蒸発してしまうでしょう。
そう、質量があるものほどパワーがあるのです。
そして物体を運動させるにも反応させるにも、パワーが必要です。自然界はパワーで出来ているのです。
自然界だけの話にしておいて欲しかったです。悲しい事ながら、人間関係もパワーで決まってしまいます。人々が定める正義も、パワーで決まってしまいます。なにもかも、パワーで決まってしまいます。
しかし、パワーで決めないと社会は維持できません。法が最もパワーを持つか、ラオウが最もパワーを持つか、それを誰かが決めているだけで、結局はパワーが最高権力者なんですね・・・・・・。
不確定性原理の法則とか、因果の盲点とか、神が絶対である定義が何故生まれたかとか、事象の責任(自然的なものも概念的なものも精神的なものもすべて含む)は誰にも無いとか、色々なことをぼくは記事で書き表しました。詳しくは過去記事をご参照ください。
そんで、ぼくの過去記事【嗚呼メビウスの輪から抜け出せなくて。】にて、結局戦争に繋がってしまう流れを書きました。
じゃあどうすれば良いんだよ、抜け出すのか、壊すのか?人類が滅亡すれば良いのか?アクシズを地球に堕とせば解決か?
それともすべての人類が覚醒してニュータイプになれば解決か?
アムロ「人間の知恵はそんなもんだって乗り越えられる!」
シャア「ならば、今すぐ愚民どもすべてに叡智をさすげてみせろ!」
クェス「そうだ・・・それができないから・・・。」
そうなのです、それが出来ないのです。
すべてが不確定性の上で成り立ち、絶対の真理を持つ者が居ない、そんな世界で生きていくには、すべてに妥協するしかない。
そしてそんな世界を支配するのは他でもない、力です。
そして、人間社会の中で最も強い力を誇るのが「数」と「権威」です。ジョン・レノンの歌でもありますよね。power to the people~♪ そういや昔、この歌を歌いながら出てきた奇人立候補者が、東京都知事選に現れましたね。
数は圧倒的な力を誇ります。
そして数の力によって承認を受けて成立するものが「権威」です。数と権威は一見すると権威の方が強そうに見えますが、そもそも権威を作り出すのは数の力であり、数の力なしには権威は生じません。その代わり、権威は数の力を支配することが可能です。ですが、その数を敵に回した場合、その権威は失墜してしまいます。
故に数と権威の力は必ず拮抗する関係にあり・・・・・・いや、まあ、権威が数を完全に支配してしまったら拮抗はしてないんだけどね。
やっぱちょっと権威の方が上かも知れないね・・・・・・。
何故、多くの採決で多数決が採用されるのか、何故、論文は学会という権威のもとで承認されなければ通らないのか。
単純です。そこにパワーがあるからです。
ですから我々が意見を通したい時にも、権威ある人に頭を下げるか、大勢の人を説得するかしかありません。あるいは、自分が人々から認められ、権威ある人になるか、ですね。
すべてはパワーが決めます。
で、ここからが肝心なのですが、人間が持つパワーの中で唯一すべての人に可能性が与えられているパワーがあります。
それはずばり、説得力です。
良く言えば弁が立つ、悪く言えば口先三寸です。
口さえ上手ければ、人はどんなことだって可能になってしまうのです。もちろんそのためには、大勢の人が口車に乗ってくれることが必要不可欠ですが。詐欺でお金が稼げるのも、口さえ上手くて人をその口車に乗せることが出来たからですね、そこにはパワーがあるのです。
しかしこれは何も詐欺のような悪のパワーだけの話ではありません。法を人々に順守させるのも口車と公権力のパワーによるものです。
そういうわけで、自分の意見を通したいなら権威か数に訴えましょう。どちらも説得力さえあれば可能です。問題はE = mc2です。これがまた恐ろしいことに、言葉でも文章でも、人に納得させるにはE = mc2と似たようなエネルギー関係が発生します。
どういうことかと言うと他人の心を動かすエネルギーは、説得する内容の質量に対して説得力の質量が上回らなければならないということです。
50円の商品と40円の商品を並べて、「実はこれ、40円の商品の方が価値が上なんです!」って説得するのは、さほど難しくないです。適当なことでっち上げれば、「へえ~なるほど、確かにそう言われるとこちらの40円の商品の方が価値が高そうだ。」となります。
しかし、ロレックスの金とダイヤの腕時計と、980円の腕時計を並べて、「実はこれ、980円の腕時計の方が価値が上なんです!」って説得するには、それこそ膨大な量の論文と、大勢の人の同意と、権威のもとに承認でも受けて・・・・・・いや、それでも無理がありますね。はい。
「何故ならこの980円の腕時計には聖霊が宿っているからです!神の力が備わっているのです!だからロレックスの腕時計など、この980円の腕時計の足元にも及ばないのです!さあ皆さん、この980円の腕時計を買い、来たる裁きの時に備えましょう!」
これで説得可能かもしれません。やめてくださいね、それは詐欺ですので。
というわけで、説得力が説得する内容を上回らなければ説得不能です。
結局最後にモノを言うのはパワーなんですね。
何が言いたいかと言うと、言葉や文にも、人の心を動かすパワーがあるということです。言霊なんてワードを使う人も居ますけど。
だから、言葉は解釈する方だけでなく、発する方も相手を気遣う必要があるのです。パワーがあるということは、相手を苦しめることも傷つけることも、逆に励ますことも喜ばせることもできるからです。
そして、権威論証、多数論証は否定することが難しいということでもあります。「皆が正しいって言ってるから」「あの有名な大学教授が言っていたから」これは論理的とは到底言えませんが、パワーがあるから仕方が無いんです。そして、パワーによる支配が無くては、人を統率して社会を維持することが難しくなってしまうのです。
何が悪いって不確定性の世界が悪いです。だから、人は正しさと清さと絶対を求め、神を召喚したのです。
ファイナルファンタジー14の蛮神は正にその発想ですね。アレ誰が考えたんだろ、結構知識ある人だわ絶対。
というわけで、世界を何とかしたければ、皆さんパワーを手に入れましょう。大勢を説得して味方にし、権威のある人を味方にするか、自ら権威を手にしましょう。あるいは無想転生を修得して、邪魔する奴は指先一つでダウンさせれるようになりましょう。
多数論証乙!権威論証乙!というのは結局、パワーが無い者のルサンチマンでしかないんですね。悲しい事ですけどね。
以上、数と権威には圧倒的なパワーがあるという話でした。