短篇小説 眼窩
眼窩の死体は、最前列の長机のうえに横たわっていた。死体はこちらに足をむけて黒板と平行に寝ていたから、前の扉から入った僕はまだ死体の顔をみていない。しかし足にまとう筋肉の質や、かすかにのぞく胸のふくらみなど、やはり統合的に成人女性の死体であることを示していた。
採光よりもデザインを優先したような窓からは、傾きはじめた陽のひかりが複雑なかたちで流れこんでくる。ふわふわと漂うチョークの粉と教室の埃とが窓のあたりであらわになり、視認した僕はそれらが右目に入りこんでしまったような感覚におちいる。十分に汚れがとれておらずところどころ白っぽいままの黒板のまえで横たわる死体は、大学の階段教室にはいたく不釣りあいだった。
反射しててらてらと鈍くひかる彼女の臍のあたりをながめていると、研ぎだされたコンクリート製のすべり台を思いだす。アイボリーのセメントに淡い色の種石をまぜてあり、晴天のひざしをあいまいに反射させる。その手ざわりを想起して、僕は右手の親指と人差指をしきりに擦りあわせていた。股のあいだにはささやかな陰毛が茂っている。
粉っぽい匂いのする教室のなかに入り、死体の右にまわりこんで顔がみえるような位置にまで移動する。そのようにすることが僕のなかでは、ある種の儀礼のようなものになっていたことは間違いないけれど、おそらくいつ見ても変化のない彼女の顔をわざわざ確かめてどうこうしたいといった気持ちも、これといってとくにない。ただ眼窩の死体が僕の目のまえにあらわれたら必ず、僕は必ず、彼女の顔を見さだめなければ気が済まないだけだ。
足の側から右にまわりこむと必然的に彼女の左手が正面にあらわれるわけだが、その腕はやはり女性的というか、特殊な気圧によって白く腫れた風船をほそく中身のつまったものへと変形する、そんな冗長な工程をへて造りあげられたような腕だった。爪は奇麗に整えられており(いったい誰が、死体の爪なんかを整えるのだろう)、しなやかという形容は彼女の左人差指のためだけにあるような気がしてくる。
それから僕は、彼女の顔に向きなおる。彼女は眼球をもっていなかった。眼球がそなわっている状態から後天的に取りのぞかれたのか、あるいはあらかじめ眼球をもたないでこの世に生じたのか、そのどちらが彼女をより正しく記述しているのか判別できないほどに、彼女の眼球は美しく、無いという状態をたもっていた。本来は眼球をおさめる窪みであるはずの眼窩が、はじめから露出されるために生成されたような姿でむきだしになっていた。眼窩の側壁には赤みのある襞がびっしりと刻まれていて、ほそい影を底におとしている。
襞をながめていると凹凸のパターンが徐々に文脈をおびはじめ、しだいに見知らぬ言語へと変貌をとげる。彼女の発するなんらかの意図をくみとろうと躍起になるが、その全容を把握するには彼女の眼窩を奇麗に摘出したのち、机のうえにピンセットでひろげてノートに書き写しでもしなければならないだろう。とても僕にはできそうにない。気だるい食虫植物みたいな瞼と睫毛をみて、僕はそう思う。
僕は無性に、彼女にふれてみたかった。襞の言語を解読できないかわりに、彼女の女性的なかたちをこの手で記憶しておきたいという欲求が、突如として腹の底から湧いてでた。しなだれた両の脚をなで、黒くめだつ陰毛を指でとかし、しなやかな左の人差指を優しく包み、赤らんだ眼窩をそっとなぞってその奇妙な起伏を指の腹でかんじてみたかった。
しかし不思議にも、彼女にふれてはいけないという一種の禁戒めいたものが僕を縛りつけている感覚を、僕は同時にもちあわせていた。彼女にふれることは、すなわち彼女の存在の根拠となる一つの均衡を破ることになる。
第一に彼女の腹はあきらかに停止していて、生命としての活動は確実に終えられているようにみえる。眼窩の死体が死体たるゆえんであり、彼女は物体そのものに他ならなかった。いっぽう彼女のいたるところには生命力が瑞々しく顔をのぞかせており、爪先から旋毛まで、あるいは細胞の一端にいたるまで、退廃の雰囲気をまったくといっていいほどまとっていなかった。彼女はもしかしたら、耽美な脈拍のリズムを皮膚の奥底で刻みつづけているかもしれない。物体性が彼女を覆いつくしているけれど、勇敢な心臓が彼女の全身に血をめぐらせ、おそろしい腐敗を堰きとめているのかもしれない。
生命と物体はなだらかに推移する程度問題であって、大きな峡谷が両者を分断するというよりも、さらさらとしたこまかい砂粒があちらの丘とこちらの丘とのあいだを風に運ばれて往来している、そんな直感的イメージを僕はその瞬間に得た。あるいは綱引きのあいだに立って左右にゆれながら勝利の判定をくだす小ぶりな旗でもいい。彼女は生命と物体のあいだでゆれうごいていた。もし僕が彼女にふれてしまえば、途端に彼女がそのどちらであるのかほとんど確定してしまう。たった指の先端で肌や脈の張りをかんじとってしまうだけで、砂の丘も屈強な縄も消えさってしまうだろう。
だから僕は、丘と丘のあいだにある緩やかなくぼみのなかでただ単に立ちつくし、彼女を仔細にながめる行為のみに没頭した。彼女のあらゆる細部を熟視し、さまざまなアングルから彼女の情報を取得することにより、フォトグラメトリの要領で等身大の彼女を僕の脳内に立ちあげる。彼女にたいして遂行可能な演算は観察それのみであり、彼女にかんする要素の集合は観察という演算について閉じているといっていい。すなわち彼女を観察することによって生みだされるのは彼女のみであり、そこからは派生も創出もない。ただ彼女の中から限りない彼女を見出しつづけ、生命や物体といったそれらの確定をひたすら先送りにする作業に専心する。
扉があく音がして目を移すと、そこには次の講義のために教室へやってきた男性がいぶかしむ目でこちらを見ていた。
「虫ですか?」彼が顔を突きだしながら訊いてきた。
「気持ち悪いですよね」
僕は眼前の虫を払いのけるように何度か掌を机上でふって、それから教室のうしろへと移動した。
講義がはじまると僕は、正面の壁に広々と掛かった黒板の、その右上で控えめな主張をしている禁煙の文字のふちを目でなぞっていた。その姿はちらりと気をひくように赤字でかたどられていて、意味の主体であるはずの煙よりもやや大きく禁の文字が躍りでていた。均一な矩形で構成されたその文字は、単純であるがゆえに僕の心象を掻きむしった。あらゆる文字のまえに付随して、すべてを否定し制する文字。禁は圧倒的に他者であった。僕はその他者を、ただ眺めつづけていた。
教授は、長机のうえにプリントをならべはじめる。そこにはもう、彼女の姿はなかった。
講義が終わった受講生らが、二三人のちいさな集団を作りながらぞろぞろと建物から吐きだされる。各団のなかで取りかわされているささやかな噂話や世間話、はては睦言などに、彼らのきざむ不揃いな足音が覆いかぶさってあまく乾いた空気を醸成していた。僕はそれから逃れるため、大学の近くにある個人経営のちいさな本屋に寄る。大学からほど近い距離にあるにもかかわらず、当局から隠れるようにひっそりと建っているこの本屋は、大学がつくりだす陰にその身をねじ込み、うずくまって一部の人間だけを選りごのんでいた。
店内はよどんだ空気が立ちこめており、やけに埃っぽい。立ち読みをする人間特有の、なにかに追われているように急いでページをめくる紙の音がせまい店内で響くだけで、あとはまったくの無音だった。音と音のあいだを埋める空白は、しずかな圧力となってこの本屋の重力をよりいっそう強めていた。店の奥では白髪混じりの店主が老眼鏡をかけ直している。額には深い皺を何本もつくっており、まるでその溝にこれまで見聞きしてきた数多くのできごとを雑多につめこんだような皺だった。きつく縛られたように目をほそく尖らせて分厚い文庫本を読んでいる。あるいはその文字列の先にみえる雄大な外国の景色を見透かしているのかもしれない。そんな焦点のあわせかたをしていた。
奥にすすんで、日本人作家がならぶ棚の前でタイトルを斜め読みする。作家の名前を基準に昇順で整理されているその棚は、文庫本も単行本も関係なく収めているために背の高さが揃っておらず、なにか重大なことを吹きこんだ音声波形のように見えた。僕はその音声の一部を丁寧にクリップするように、知らない作家の、知らない作品をゆっくりと取りだして冒頭を読んだ。
戦災孤児がひろった木の棒で地面になにやら絵を描いていて、それを岩に腰かけた主人公が遠巻きにながめている。喉元に貼りつくような、やけにもたつく文章で、数行に目を通してすぐにやめてしまった。ゆらめく蛍光灯を照りかえす表紙は生焼け肉のような色をしていて、僕は視覚的な胸焼けをきたしてしまった。鬱屈とした僕は、外国人作家がならぶ棚の前に移動する。このあたりの背表紙はみな寒色であるものが多く、胸の不快感をさますにはうってつけだった。グレッグ・イーガンの「しあわせの理由」を手にとったあたりで、同じ棚の前で文庫本の束を抱きかかえている女性の存在に気がついた。肩の上あたりですぼむ髪は丹念に手入れがされていて、すべすべとした陶磁器をおもわせた。身をふるたびにその陶磁器は縦にこまかく裁断され、やがてまた一つに同化する。眼鏡はしていなかったが、眼鏡をしていないことがかえってその存在に言及するような、不思議な顔立ちをしていた。
「アズミさんが紙の本なんて珍しいですね」
あくまで彼女の吟味を邪魔しないように、彼女の思考の波にあわせるようにつとめて話しかける。
僕の存在を認識した彼女はとくに驚く様子もなく「ちょっと脚本につまっちゃって、視座をかえるためにね」と答え、それから新たな文庫本を腕のなかに加える。「私のだした課題はどんな調子?」
「可もなく不可もなく、ですね。少し漠然としたモチーフで、僕の手にはあまる印象です」
「不可じゃなければいいのよ、映画なんて」彼女は自分の抱えた文庫本群の背表紙を一瞥し、なにかの調子が整ったかのようにうなずいて僕に向きなおった。「暇ならちょっと付き合わない?」
書店の袋をさげて、アズミさんは軽い足どりでコンクリート製の山道をすすんでゆく。逆さのコップを押しつけたみたいな滑り止め細工のある道路の、その溝のなかにはまだ本格的な季節の暑さが残留していた。背のたかい広葉樹林が頭のあたりにだけ葉をのこしてならんでいる。通行の妨げにならないように剪定された枝の断面が赤く滲んでこちらをにらんでいた。見ているとなんだか膝のあたりに擦過傷のようなするどい痛みをかんじ、それが見渡すかぎり広がっていたから、僕は人体の切断面を連想してしまってさらに痛ましい気持ちになる。この木はアカガシというらしいことをアズミさんが教えてくれた。山道に入ってから立ちならぶ樹木は数を増やし、それにしたがって蝉の鳴き声もワントーン上がる。それらは両耳のあたりでむずがゆく反響するので自分の今いる正確な位置を認識できなくなる。
アズミさんは黒の半袖をオレンジのテーパードパンツにタックインするという単純な格好をしていた。そのボトムスは腰のあたりでプリーツができるデザインで、折りかさなった橙がアカガシの断面と連関する。彼女が足をふるたびに繊維のあいだで縮こまっていた芳香があたりに蒔かれ、力強い夏の匂いとまざって胎児の生命力を予感させる。顔をのぞく彼女のくるぶしは鼻頭に似てなめらかに輝いていた。
「私のいま書いている物語はね、自然を限りなく人工的なものに置換する試みをしているの。たとえば造花なんかは、限りなく人工的という要請にはあたらない、あくまで自然を模した人工物に他ならないから。私なら造花の代わりにナットを置く」アズミさんはあいている手でレンチを回す動作をしてみせる。
「なんだか冷たいイメージですね」
「たしかにそうね、人工的なものは非常に他律的だから。他者的と表現してもいい。構成物のすべてが他人の要求からなっていて、自発的な意識はひとつもない、そうでしょう。自然はみんな自分や種が生きのこらなくちゃならないから、どうしても自立的にならざるをえない。使う人がいないと手持ち無沙汰になる人工物が愛おしくてしかたないのね」
思慮深くうなずきはしたが、本当にそうだろうかと僕は疑った。確かにSFに登場するような、廃墟と化したビルディングのなかで徘徊する案内ロボットなどの姿は愛らしい。しかし部屋の隅に設置された、ほとんど使用されていないゴミ箱なんかには、いったい誰が愛情を感じるというのだろう。
それよりももっと、自然と人工物の調和を求めたいと僕は頭のなかで想像した。自然と人工物の境目が限りなくゼロに近づき、お互いの領域を侵しあうような状態。たとえばこの神社のように。
目の前の巨大な鳥居は、自然物や人工物といった分類をするのもおこがましいと感じさせるような存在感を放っていた。全体を黒でデザインされているのは、この鳥居が神社からみて玄武の方角に位置するからだという。木々が生い茂るなかにくすんだ黒がよく映え、走る日射しをうまく吸収していた。宮大工がこの神社に鳥居を奉納したといわれても、風に飛ばされた鳥居の種子がこの土地で萌芽したといわれても納得してしまうほど、それはほとんど人工物であり、同時にほとんど自然的なものでもあった。柱に手を掛けてみるとなんだか僕の手まで吸収してしまいそうで、おもわず手を引いてしまう。
「ここは祖母によく連れてきてもらった神社でね、私がなにか悩んでいたり、心配そうな顔をするたびに私の手を引いてここまでくる。祖母が亡くなってからは、ひとりで。自分のなかに不安の種を見つけるとここにきて、その種をゆっくり、とかしてゆく、なんだか安らぐ気持ちになる」
境内に入ってから体感温度が数度さがっていた。蝉は控えめに鳴き、日光もいくらか力を弱めている。この空間にはなんらかのエネルギーが満たされていて、外部からの力にたいして明確な抵抗力を示しているようだった。敷地のなかには大きな杉の木と、その幹の太さに匹敵するほどの大きさをした一つの岩がならんでいて、それらを単独の注連縄が八の字にむすんでいる。岩は真ん中あたりで横にくぼみが走るように加工されていて、そのくびれに沿うように注連縄がまかれてあった。両者のあいだを媒介する縄は中央が垂れていて、紙垂が三枚吊ってある。僕らはそれらを横目に、かなり緩慢な足どりで境内の奥へとすすむ。
鳥居とはうってかわってかなり小ぶりな拝殿の前までゆき、アズミさんは賽銭をいれる動作をそらでした。それから二拝二拍手一拝という定められた手順を踏み、押しだまった表情でこちらに振り返る。僕はそれを斜め後ろからただ眺めていた。
「お賽銭は投げないんですね」
「お金をいれると、なんだか対価を要求しているみたいじゃない。私は神様になにも渡さない代わりに、神様になにも要求しない、お願いごとなんてもってのほか。私はあくまでも神様と対等でいたいのね」
彼女は僕をまっすぐ見つめてきたが、僕はその目にあまり良い印象を抱かなかった。彼女の目は腐敗の色をおびていて、長い時間見つめ返してしまえば最後、体の中から水分が絞めあげられてしまいそうな気配があった。より正確にいうと、瞳じたいは瑞々しさに溢れているのだが、その横溢する生命力はまなざしとなって周りの生けるものを食い荒らし、肥大に成長しているようだった。まるで養分を吸いとりすぎる樹木が周囲の土地を荒原に変え果てしまうように、彼女の瞳はただ一対だけがそこに屹立していた。
拝殿のなかには、やはり眼窩の死体が横たわっていた。がらんとした畳の上で彼女はくうを見つめている。眼窩からはなんらの放出もなく、それは同時にあらゆるものの放出を意味していた。僕にたいして少し頭を傾けており、軽くあいている口がのぞく。その口腔の奥にひろがる暗闇は、先の見えないトンネルに似ていた。途中で曲がっているために先を見通せず、あるいは袋小路にでもなってしまっているのではないかと感じさせるような、そんなトンネルに。いま周りの三方や真榊などの神具やら吊りさげられた特殊な照明器具やらがそのトンネルのなかに入りこんでしまう様子を肌でかんじた。その口腔は、眼窩と同質の存在として彼女の顔面を占拠していた。両の眼窩から飛びだした鳥居や注連縄は、やがて口腔のトンネルへと収縮してゆく。その過程の、つかのまの休息に我々は位置しているのではないだろうか。
僕はその大きな潮流に逆らって、彼女の眼窩にもういちど入りなおしたいと思った。この身を眼窩のなかにねじ込んであらゆる物事をはじめからやり直したいと思った。そうすればすべてが上手くゆく気がしたし、そうすることは彼女が僕に求めている一つの対価であるように思われた。僕はおもわず土足で畳にあがりこみ、彼女のもとまで駆けてしまいそうになる。駆けだしたはずみで雪洞がたおれ、張った和紙に火が燃えうつってしまう。畳はなかなか燃えないけれど、神具にはすぐ火がうつるだろうな。僕が彼女の眼窩に入りこめないのであれば、今すぐすべてを燃やしてしまえばいいのではないか。そんな破滅的な衝動が波うつように訪れて、それらが静まるまで僕はその場を動かないでいた。アズミさんは踵を返して神社をあとにしようとしている。
深呼吸をして、それからアズミさんを追いかけると、入るときは気がつかなかった鳥居の裏面に刻まれている朱色が気になった。草書体で書かれていて、文字とも模様とも区別のつかない朱。意味を読みとることが難しかったが、僕は気がつけばその草書体と大学の階段教室の禁の文字をかさねていた。ゴシック体で印刷されたその禁の字は、眼窩の死体にかかわるあらゆる行為を修飾して明示的に禁じていた、もちろん先ほどまで僕をつつみこんでいた衝動も。
同時に、僕のなかで育ちつつあった、ある一つの不健全な接続についても修飾の触手はのびていた。それは深雪の中から首をもたげる春の子葉のように、無自覚から自覚の領域へと成長している思想である。禁の手はそれをも手厳しく非難しているような気がして、おもわず僕は赤字から目をそらすしかなかった。
「あなたのいま書いている物語は面白い?」アズミさんは神社からの帰り道で、台本を読むみたいに僕に尋ねた。
彼女の体躯の輪郭が、暮れかかった太陽の光にすけて二重にみえる。皆既食のように眩しい色が彼女をふちどって、ぼんやりとした棘が放射状にのびている。体の内側はほとんど真暗で、にじみや凹凸がすべて平滑化された面のなかにひときわ瞳だけが夾雑物としてめだっていた。硝子玉のようなその目はどこまでも濁っていて、彼女から眼球が取りのぞかれればどれだけいいだろうかと想像してしまう。彼女の両の眼球がもつ剣呑な雰囲気は、陽の放射にまぎれて体の闇をゆっくりと侵蝕している。
「正直、映画になってみるまでは分かりません。脚本を書いているあいだは、完璧なショットが脳内に浮かんでいるんです。これを撮ればぜったい面白い画になるというフレームが。でもそれはあくまで僕の脳がつくりだした理想的映画であって、現実にもちだした瞬間に色あせてしまうような感覚におちいるんですよ。作品が腐っていくみたいに、だんだん」僕は彼女の目をあらためて見つめ返した。
「おそらく、あなたはあなた自身を理想化しすぎているんだわ。良いものが作れるかもという感覚は大事だけど、それが作品になった時点で作品は作品の自我をもつ。あなたは作品から子離れしないといけないんだわ。いつまでも子供に自分の理想を投影しては駄目よ」
「アズミさんは、どうやって作品に自信をもっているんですか、どうやってあれだけ面白いものを書いているんですか」
「面白いものは書けないと思っている。誰にとっても絶対的に面白いなんてありえないから」アズミさんは十二分に間をとって「絶対的に面白いものを書けないのなら、絶対的に面白くないものを書いてやればいいのよ、そういうものって要は心のもちようで、自分でさえも騙してしまえばいいのよ」
焦点のあわない目を静止させたまま、単にそれだけつぶやくと「それじゃあ、私はこっちだから」とアズミさんは三叉路の一方を指さす。「また明日の放課後、部室にいらっしゃい。次はもっと、テクニカルな話をしましょう」
そういってひらひらと手を数回ふって背をむける。彼女のボトムスのオレンジは、沈んだ太陽とともに暗く見えなくなってしまった。ふられたアズミさんの手の幻影を、彼女がいなくなったあとでもしばらく見つづけていた。
ほとんど獣道のような帰路には、明滅する街灯がぽつぽつと立っている。あまり手入れがされていないようで、すでにフィラメントが焼ききれて灯りのつかないものまである。じめじめと粘ついた空気が顔のあたりにまとわりついて、土に鼻を埋めたような匂いがする。自分の踏みだす行為にたいする単純な応答は、コンクリートとのあいだで取りかわされる乾いた足音だけで、僕はひどく孤立した気分に陥っていた。アズミさんのこしらえる印のついた領域をこれから独りで越えようとしていて、それ以降はもう後戻りできなくなってしまうのではないか。ひぐらしの声にまぎれて水のながれる音を認め、遠くの方に川があるのかもしれないと思った。かろうじて立ちつづけている金属製の柵は地面にほど近い部分に苔が群生していて、いったい彼らはどこから栄養を得ているのだろう?
幅も高さもてんでバラバラな階段を十段ほどあがれば、トンネルは見えてくる。入り口はアーチ上にひらいており、壁面は奇妙なまでに平らにならされていた。コンクリートと山との境目はツタ類の植物が茂っているために認識することができない。内部はほのかな暖色の蛍光灯があるだけでほとんど先が見通せず、僕はおそるおそる足を踏みいれる。恐怖という感情を旧弊な義務感が飲み込んでしまっているようで、ほとんど知覚できない奥深くのちいさな部分がぶるぶると震えているにもかかわらず歩みをとめようとは不思議と思わない。筋肉の繊維にしみこんで体を動かしつづけている義務感とは、このトンネルをくぐらなければ家に帰れないという事実もおそらく含むだろうが、それよりももっと強大な、このトンネルのもつ引力のようなものに従わなければならないという摂理的な事象に由来するものが大きい。入り口の淵にならべられた迫石の部分が近くの街灯に照らされて、その影がトンネルの内部と外部をちょうど境界のようにひき裂いている。僕はその敷居を踏まないように気をつけながら、なかへと入りこむ。
かすかに照らされた内部のコンクリート壁には融けだした金属の液体らしきものがこびりついている。それぞれの蛍光灯には夜の灯りに群がる蛾からその身をまもる格子状の金属キャップのようなものが取りつけられているのだが、その格子が不規則な影となって壁に映しだされるから、本来は凹凸のないはずのトンネルの壁面に溝をうみだしているようにみえる。暖色の襞をもった空間のなかで僕は、ただひたすらにねじれた奥へとすすんでいく以外の選択肢を失ってしまった。
入り口が壁に隠れて見えなくなり、まだ出口も見えていない地点、トンネルのどちらの側からも視認することのできない、ちょうど凪のような地点に、眼窩の死体は転がっていた。僕はおもわず短い声をあげてしまった。その声はさほど大きくはなかったにもかかわらず、トンネルの壁へ複雑に反響して不自然なまでに鳴りやまなかった。
腕を乱雑に投げだし、軽く折りまがった右足は左足の上に重なっている。僕はこれまで何度も眼窩の死体をみてきたが、それらはどれも自らの意志で床に伏せているような、自立的な仰臥の姿勢をしていた。ところがこのトンネルの彼女は、とつぜん事故にでも遭ったかような不意の倒れかたをかんじさせた。僕にみられることを決して想定していないような姿勢。かすかな灯りのなかで、彼女の体のなかには多くの影がうまれていた。眼窩や口腔はもちろんのこと、足のあいだや掌の内側、頬と地面のあいだにも影はあった。その影は壁に映しだされた襞をもす影と絡まりあって現実にぶらさがり、そのことが彼女にかんする一つのおそろしい可能性を示唆しはじめていた。
彼女はこの世界に存在しないのかもしれない。彼女にふれることは決して叶わず、僕の脳内が恣意的な意味づけをしたにすぎない存在である可能性。
僕はこの可能性について、これまで無意識的に検討を避けてきたのかもしれない。おそらく一番はじめに考えられる単純で現実的な彼女の解釈を、僕はもっとも遠くの届かない位置に大事にしまっていたのだろうか。リアリティのある白昼夢をみつづけ、彼女が自然物あるいは人工物であるといった結論以上に、彼女の存在じたいにかかわる確定を留保しておきたいと、僕は心からねがっているのだろうか。
もしそうであるならば、ふれたい欲求とふれてはならない禁戒とのあいだを僕は往来していることになり、それは彼女のはらむ往来と対応づけられる。しかし彼女の往来にむすびつく砂丘の綱引きというイメージにたいして、いっぽう僕のゆれうごきについての明確なイメージだけはなぜか僕の内側にひとかけらも生まれず、消化不良の煙だけが無限に生成される始末だった。しろんだ粗い煙がきのこ雲となって膨大し、つかもうとしても指のあいだを器用にすりぬけられる。その情景さえもアトーンの古い型で撮影された十六ミリフィルムみたいにグレインがまざってしまって、うまく記憶として保存できない。
そうしたわずらわしい過程をへるうちに、二重化された眼窩の襞と、その対角に位置していたはずの性的欲求とが、奇怪に絡みあって接続されてしまった。僕のなかで徐々に育ちつつあった不健全な接続が実をむすんでしまったのだった。消化不良の煙は性的欲求の煙へとたちかわり、腫れたきのこ雲をひたすら掌で打ちはらうことしかできなくなる。瞼のすきまからのぞく凹凸が、しばらくしびれて動けなくなるほどに僕の脳髄を射る。襞と色情の複雑な結び目を丁寧にほどこうと試みても、すっかり固結びされてしまって手におえないらしい。
僕は走って彼女の横を通りぬける。出口のツタ類植物は、入り口のものよりも難解にもつれて壁から垂れさがっていた。
部室の鍵を受付に取りにゆくと、すでに鍵は別の会員に渡していると突きかえされた。アズミさんは五限も講義があるといっていたから、今日は僕が一番乗りだと思っていたのだが、他の会員が忘れ物でも取りにきたのだろうか。僕はその足で三階にある部室にむかう。コの字をした部室棟の廊下は不思議なぐらい閑散としていて、中庭をはさんで向かいのどの階の廊下にも人は歩いていなかった。それでも息をひそめる気配や他人のうなじから発せられるかすかな人の痕跡はこの棟全体を取りまいていて、まだ誰も目覚めていない早朝の住宅街をおもわせた。清掃されたキャンパスを歩きなれた靴は紊乱した部室棟のざらざらとした床に違和感をおぼえるらしく、一歩一歩の足どりがもたつく。
扉を開けると部屋の奥に設置された窓から差しこむ日の光がやけに眩しかった。部屋の電気はつけられておらず、僕は別の会員をさがして見通しのわるい部屋のなかを眺める。部屋を二分するように左手からのびているカメラやら小道具やらが収められているスチール製のラックの反対側に、誰かいるようだった。僕は風で散らばってしまったであろう脚本の束を拾いあげて机の上にまとめつつ、窓に歩みよって半端にひらいたそのすきまを閉じた。左に向きなおり人影の正体を確認する。
アズミさんは三つのパイプ椅子をならべて、その上で仰向けになりながら午睡していた。
放り出された左手が重力により溜まった血液のせいで紅潮していて、起きたときにしびれてしまいそうだった。腕を椅子の上に載せなおそうかと逡巡しながら彼女の顔に目をやった瞬間、大量の砂煙が僕のイメージを凌駕した。僕のなかでなんらかのシナプスが弾ける音を耳できき、この部屋に存在するすべての感覚の逆位相が短いあいだ干渉してなにもかんじなくなる。無限小の時間をへて感覚が復旧しはじめると、目の前の彼女はアズミさんと眼窩の死体の重ねあわせであったことがわかる。足の膨らみからつつましい胸、顔のパーツまですべては両の彼女が間違いなく共有する部位であり、僕はその矛盾を完全に容認していた。
唯一、彼女が普段と異なる点は目をとじていることで、そのことが二人の彼女の境界を融かしあっているのだと気づいた。アズミさんと眼窩の死体を識別するコードは目元のみであり、ノイズであった負の瞳が一時的にも消失している今、彼女はまさに、かの眼窩の死体とほとんどおなじ様相をなしていた。
僕は彼女にふれないように、彼女の着ている白い薄手のロングシャツの、その首元のボタンにゆっくりと手をかける。絹のすべる触感の中からプラスチックの人工的な硬さをみつけて、穴の裏側から片手でボタンを通す。首元はふっと力を抜いたように軽くなり、一つ外すごとに青い筋のした鎖骨とレモン色のブラウスがあらわれてくる。臍の上あたりでボタンがうまく外れず、煩わしくなった僕はそばに置いてあったハサミを手にとり、裾の方からブラウスごと切ってしまおうとした。裾の折りかえされている部分でつまってしまったから、布を引っぱっていた左手も使って、ハサミに全体重をかける。繊維を裁断してゆくにぶい音がして、それからするどい金属同士のこすれる音が部室内にひびいた。ボタンをあけていた部分にまで一気にハサミが通り、白いシャツはめくれる形で椅子からずり落ちてしまう。半分ほど切られたブラウスの切れ目からは臍のまわりをてらてらとした皮膚が囲っていた。
僕はそれから彼女のまとう衣服のあらゆる箇所にハサミを入れ、ブラウスと下着をまったく裁ちきった。途中で勢いあまって自分の左人差指に刃がかすめてしまい、ベルベット生地のパンツの溝に数滴の血を垂らしてしまった。僕は彼女の肌についてしまわないよう膨らんだ血をベルベットでしっかりとぬぐう。
衣服をすべてとりのぞくと、僕は自分がかなり汗ばんでいたことに気がつく。脇のしたが湿って、冷えた水滴が右の肋骨をくだってゆく。彼女はより眼窩の死体に近づき、あと一歩のところまで来ていた。僕はハサミを元あった場所にもどして、彼女の横に立った。ちょうど左手が目の前にくる形で、爪は奇麗に手入れがされていた。しなやかという形容が発酵して、僕は飛躍的に幻という字を惹起した。僕は幻という字の不完全性について考えていた。幻の旁は単独で存在しない。勺にも刀にもたりないその旁は、おそらく幻の重心にあたるのだろう。図と地の関係が逆転している、つまり空白の部分こそが幻の本髄であり、窩であった。
僕は最後の一歩を踏みだすことに決めた。彼女のとじられたその瞼の奥で息をひそめる二つの眼球が、彼女の肌のところどころにしみを植えつけはじめるのではないかというおそれが僕のなかで立ちのぼったのだ。
僕はゆっくりと左手の人差指を彼女の瞼にのばす。部屋の空気は生ぬるく、指先の凝固した血液はまだ人肌の熱をもっていた。鉄のにおいがする。
瞼は気味のわるいほど冷たかった。彼女の肌が僕の熱をずんずん奪ってしまい、奪われた先から僕の体は朽ちていく。熱を吸収した彼女の肌はこげるようにどんどん黒ずみ、ほとんど昨日の鳥居と同じ色をしていた。指先の朱はもうなにも禁じていなかった。
僕は人差指で彼女の瞼を押してみる。
そこに手応えはなかった。気体のかたまりを薄皮で包んだみたいな感触が、固まった血を媒介して僕の指の腹につたわる。もっと力を込めたら瞼が反対に曲がってしまいそうな、そんな手応えのなさだった。
僕は彼女の顔の近くにかがんで、親指で瞼をめくる。
部室の窓から差しこむ沈みかけた陽が、タイムカプセルを開けるときのように端から順番に中身を照らしてゆく。なかには赤く滲んだ襞が密集し、光の当たる場所からほそい影をうみだしはじめていた。
扉のあく音がして振りかえると、アズミさんはそこに立っていた。
「ごめん、邪魔したかな」とアズミさんはいって、早いとも遅いともつかない速度で扉をしめた。
部室には、僕一人だった。
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