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私は手を洗う。念入りに。

 よく手を洗う。手汗をかくほうではないけれどちょっとした手のべたつきに気付くと洗う。指と指との間が引っかかりなく滑るように動かないと気になるのだ。
 最近のハンドソープは「潤い成分」みたいなものが入っているので、洗ったあとも微かにべたついた(よく言えばしっとりした)感じが残る。気になる。ある時、ふと思いついて食器洗い洗剤で洗ったらサラサラになったので、それ以来、よく食器洗い洗剤で手を洗っていた。

 ここ数年、念入りに手を洗っているときに思い出すイメージがある。洗面台で手を洗う細身の男性。洗面台には消毒液がある。丹念に手を洗い洗い終えるとスーツを着て白い手袋をする。彼は潔癖症(モノや人に触れることに強く抵抗を感じる心因性の症状)なのだ。人はもちろんドアノブやつり革、店に並ぶ商品、他人が触れた(かもしれない)ものすべてに触れることができない。トーンは暗く思い詰めたイメージ。
 そこまで憶えているのだが何の作品だったか思い出せない。小説なのかマンガなのか。記憶はコマ割りなのでマンガなのだろう。絵柄の雰囲気から多分BL。前にWEBサイトの運営を請け負っていた某出版社のBLレーベルの作品だったか。送られてきた見本データを読んだのか。そう思って古いデータを調べてみたがそれらしき作品はない。ネットであれこれ検索していたら見つかった。『テンカウント』という作品だった。作者は宝井理人さん。BL作品としてはかなりの人気作品であることを知った。

 潔癖症の青年がとあるきっかけでカウンセラーの男性と出会う。カウンセラーは彼の手袋とそこに滲んだわずかな血(手を洗いすぎてあかぎれて切れてくる)から潔癖症であることに気づき早めの治療を勧める。悩んだ末に青年は彼のカウンセリングと治療を受けることを決心する…… 紆余曲折あって最終的に青年の潔癖症は寛解し、青年はカウンセラーのことを身も心も受け入れる(BL的に)。

 ざっくり書くとこんなストーリーで全6巻。全巻読んでしまった。多分無料試し読みで最初だけ読んだのだろう。二巻以降は初見だった。主人公が潔癖症という設定は女×女、男×女、女×男、どの組み合わせでも成立すると思うが、心は繋がっても体は繋がれないというのがBL的にそそる設定か。

 この『テンカウント』と潔癖症について個人的エピソードがある。去年の夏、知り合いのカウンセラー(臨床心理士)に雑談で「主人公が潔癖症のBLマンガがある」と話したら興味を持ったので『テンカウント』の話をした。その流れで自分が食器洗い洗剤で手を洗っていることを話したら、それまでリラックスした雰囲気で笑いながら話を聞いていた彼女の顔に微かに緊張が走ったのがわかった。

 「ヨネヅさん、それ止めた方がいいよ」

 彼女は椅子から身を乗り出して私の目をまっすぐ見て言う。

 「ヨネヅさんのそれはべたつきが気になるという体感が動機だから大丈夫だと思うけど、それでも繰り返していると深入りする可能性がある。潔癖症は認知行動療法で治療していくんだけど(『テンカウント』でもそう描かれている)すごく時間がかかるし、直ったと思っても元に戻ってしまったり、本当に治療が難しいんですよ。それに……」

 と一呼吸おくと、彼女はゆったりと座り直し元のリラックスした感じで

 「あんまりそれやってると手が荒れちゃいますよ。だから止めてくださいね」

 と笑顔で言った。

 彼女は優秀なカウンセラーなのだと思う。適切な言葉の選び方、淀みない緩急のある話しぶり。彼女の言葉は私の中にある警告灯のスイッチを軽く押す。頭の中に灯った警告灯を見て、これは素直に忠告に従ったほうがいいヤツだと私は気がつく。
 普通の石けんで洗えばいいんですよ、と重ねて諭された。おかげで私は食器洗い洗剤で手を洗うことから足を洗った。


(さらに後日談)
 数日前に「劇場アニメ『テンカウント』制作中止」というニュースを見て驚いた。このセンシティブな作品をアニメ化しようという動きがあったのか。よく企画通したな。一度、テレビアニメとして企画されて中止→劇場アニメとして再度企画されたもののやはり中止とのこと。内容的に(治療プロセスの表現など)いろいろとハードルがあったことは想像に難くない。アニメ化されていたらちょっと観てみたかった。

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