自分の美の足るを知る2
美肌計画における重大な勘違いに気づいた。何かというと、私は、肌を適切に扱いさえすれば、いつかは自分も“美肌”になると思っていたのだ。
しかし、私は我が子を産んで知ってしまった。骨格も体型も髪質も、そして肌質も、同列に生まれた時から決まっているのだ。つまり、人間のパーツは全部先天的に決まっている。鼻が高い人は赤ちゃんの時から高いし、美肌で肌理が細かい人は赤ちゃんの時から美肌で肌理が細かい。自分が子供を産んで、同じくらいの月齢の赤ちゃんが集まる場に脚繁く通っているからよく分かる。赤ちゃんの時点で既に、骨格も体型も髪質も肌質も、本当にそれぞれ千差万別なのだ。
一方、後天的な努力について我々はどう捉えているだろう?
「努力すれば脚が細く長くなってモデル体型になる!」と言われても、「ありえない」と一蹴するのではなかろうか?たしかにダイエットで痩せることはできるだろうが、脚の長さは変えられない。
一方、「努力すれば美肌は手に入る!」はどうだろう?割と納得感があるのではなかろうか?だが、この認識こそ、不幸の始まりだと私は思う。
脚で例えるなら、肌断食も所詮「骨折した脚は安静にしていれば治る!」ということでしかない。スキンケアをやめろ、は、骨折してるのに運動するなってことだ。いくら安静にしても、脚が今以上に長く伸びることはない。傷が癒え、健康な状態に回復するだけだ。肌も同じで、肌断食をして回復したって、持って生まれた初期設定以上に、肌理が細かくなったり、色白になったり、丈夫になったりはしない。
いわゆる“攻めのスキンケア”は、極端に言えば脚を長くする外科手術のようなものなのだ。お金もかかるし、健康へのリスクも生じてくる。でも、対価として持って生まれた以上の美を手に入れることができる。
私は、そこまでして美を手に入れたいかと言われるとノーだ。
肌断食を続けても、CMの綾瀬はるかみたいな美肌にならない!何かやり方に問題があるんじゃなかろうか、まだ足りてない部分があるんじゃないかとカッカしていたが、これ以上の素質を待っていないだけの話だ。母曰く、私が赤ちゃんの時、背中が常にざらざらしていたらしい。姉の産んだすべすべの赤ちゃんと比べて「何でこんなに違うんだろう?」と不思議に思ったそうな。つまり、私が生来持っている肌質は、肌理も荒く、外部刺激に敏感なんだろう。はっきり言って、“美肌の才能”がないのだ。
才能がない、芽が出ないと分かっていることに盲目的に夢中になるのは不幸なことだ。50m走るのに9秒かかる私が、人生をかけて短距離走でオリンピックを目指すように。
生きていくのに不便じゃない機能(保湿剤も洗浄剤もほとんどいらない、慢性的に痛い、痒いところがない)があるだけで、充分と思うしかない。そう思っと、スッと楽になれた。
努力で叶う後天的なことは、
・生まれ持った独自の健康状態を保つこと
・姿勢や仕草、立ち振舞いなど、社会的所作を洗練させること
・自分に似合う服を着ること
せいぜいこのくらいじゃなかろうか。
正直、“美肌”への憧れを完全に捨てられるか?と問われると自信がない。だけど、はじめの一歩は知ることから。自分の持って生まれたものに折り合いをつけながら自己ベストを目指していけたらな、と思っている。