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「竜とそばかすの姫」高知出身の私がどうしても許せない点【大ネタバレ有】


公開2日目に「竜とそばかすの姫」を観た。

よっぽど同時上映中の「アフリカン・カンフー・ナチス」の方を観ようかと思ったが、どうも「竜とそばかすの姫」の舞台のモデルは我が故郷・高知県高知市ならびに隣町・いの町らしいということが分かり、泣く泣く(ガーナをカラテで支配するヒトラーと東條英機を横目に)大衆型クソデカスクリーンに向かった。悔しい。

ついでに言えば、高知の田舎を出て京都で大学生生活を送っていた頃、売れる前の中村佳穂を見たことがある。たしか場所は京都MUSEで、本日休演(こちらも当時からいえば大活躍している)とかと対バンで、ゲストに奇妙礼太郎も来てたような。
その中村佳穂が、今やアーティストとして成功するにとどまらず細田守作品の主演声優である。確かにスクリーンで見たい、という所は多分にあった。


断っておくと、ふだん映画はほとんど見ないし、増して評論するような目など全く無い。このシーンのこの構図がどうやとか、あのセリフはあれの比喩やとか、どの描写がどの伏線の回収やとか分かる人、素直にすごいと思う。こっちはただボケーっと観て、綺麗な絵やなーとか思いながら筋書きを追うだけやのに。
こんな素人はくだらん逆張りなどせずに大人しく、一番でっかいスクリーンでやってる映画を、大勢の客と一緒に見るのが筋というものである。

これからある一点に関して悪口を言う前に、言っておかないとフェアではないので申し上げる。
映画全体として、そもそも好きではなかった。観終わって、「あーー何も得られへんかった」という不快感がこの文章を書かせているのかもしれない。
しかし少なくとも意識の上では、全体としてのおもんなさを差し引いても、大衆向けの映画としてここだけは許せないと思う点が一点だけあるので述べたい。もうどうしても述べたい。そうでなければそもそもこんな所で映画の話などしない。


※以下ネタバレ大アリです。ご留意を。


・高知の描写はどうだったか

主人公は仁淀川沿いの山あいから伊野(いの町)にバスで降りてきて、そこから汽車(JR)で高知市内に通学している。かなりの通学時間がかかると思われるが、こういう高校生もいないではない。絵になるはずの路面電車より現実的なJRを選択しているのも好感が持てる。

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(雑な画像で恐縮だがご参考まで。)

私自身は高知市内の出身であるが、高知市内の描写は各場面ごとに見どころがあった。特に鏡川のシーン(カヌー部の奴がカヌー持って上がってきたりするとこ)は、あの対岸を毎日チャリで通っていた。私の中高時代は常に鏡川と共にあり、あの胸を掻き立てられる景観が全国に知らしめられて少し嬉しい。

また、特に県出身者のリアクションが大きいポイントがJR伊野駅前のローソンである。狙ってかどうかはともかくあのローソンは、市外にある割には特定方面に向かう時の動線上にあることもあり、またずっと昔からあることもあり、多くの県民に鋭く刺さるポイントではある。よくあそこを取り上げたものである。
ストーリー上重要な装置の一つになったのが、その駅前の通り(国道33号線)の車通りの多さであることも個人的にはツボだった。車社会というのは本当にコレなのである。

というわけで、それぞれの場面描写は想像以上に現実の風景に忠実で、高知県民としても大きく論うポイントはないと感じた。楽しかった。


・但し、場面と場面のつながりはややおかしい

先述の鏡川沿いのポイントであるが、どの高校に通っていたとしても、夕方にあの場所を右から左へ歩いて帰ることは、汽車通では考えづらい。
考えづらいが、そこまで街に忠実である必要はなかろう。街の正確なつながりより、綺麗さを優先してよいと思う。許せないというほどではない。


・市内の栄え方がおかしい

一瞬、高知市中心部のアーケード商店街が登場する。いくつかの商店街をまとめて広く「帯屋町」と呼ばれている箇所であるが、もう明らかに人が多すぎる。
他の多くの地方都市と同様に、中心部の商店街で買い物をする人などほぼいない。平時、市内中心部にあのような賑わいが創出されることなど決してない。地方都市において賑わいの存在は、イオンモール、そうでなければ大きなバイパスのロードサイドにのみ許されるのである。

であるが、伊野、あるいは主人公すずの家(モデルは伊野からさらに仁淀川を遡上した越知町にあるらしいが、本当に家の所在地も越知に設定されていたかどうかは恐らく不明)のような決定的「田舎」との対比として、ここでの帯屋町=高知市内中心部が「都会」として機能する必要があったんだろうと思うので、許容範囲ではないかと思っている。

余談だが実は高知市というのは、約33万人も住んでいる。人口県2位の南国市が4万人台であることからも分かる通り、絶対首位の超プライメート・シティである。「市内」といえば当然高知市内、市内中心部のことが単に「お街」と呼ばれるほどである。


「街」に「お」が付いている。街であるというだけで有難がられている。


ともあれ高知市中心部は、県内では押しも押されぬ「都会」なのである。深刻なドーナツ化現象を忠実に再現するより、人間をいっぱい描いて、賑わいを創出させてあげたらよいのだ。やはりこれも許せないというほどではない。


・方言を喋っていない

高知市・いの町・越知町、いずれにしても土佐弁地域であるが、映画では全編標準語である。
土佐弁というのは、私の体感では津軽弁や薩摩弁ほど濃くはなく、高校生が話すレベルであれば他県民の方にも言葉の意味程度は汲んでもらえる程度だと思っている。しかしそうは言ってもこのマイナー方言がストーリーの進行を邪魔することは間違いない。
大河ドラマ「龍馬伝」は、あれは相当実際の土佐弁に近かった。民放で高知が舞台のドラマの土佐弁などは大抵聞けたものではない。ヘタに土佐弁まがいのヘンな言語を喋らせることを避けるという意味でも、むしろ標準語でよかったと思う。許せないなどということは決してない。


■では何が許せないのか

以上書き連ねてきた通り、高知出身者の視点からは、言いたいことは多少あれど許せないというレベルでは決してなかった。

ここまで高知のどこがどうこうと長々やってきておいて大変申し訳ないが、許せない箇所というのは私が高知出身である等はあまり関係なく、単純に”地方出身者一般”の観点から申し上げたい点である。


「君の名は」はご覧になっただろうか。あの公開当時、私は国外をプラプラしていたので当時の熱狂を肌で感じておらず、半年後に帰国し、社会勉強のために一応観に来たと思しき大勢のご老人方と一緒に観た記憶がある。確か三条のMOVIX。

同作のネタバレを今更忌避する方もいないと思うが一応導入だけに絞って述べると、岐阜県飛騨地方の中山間地域に暮らし、東京に憧れる女子高生が登場する。この女子高生が、東京都心で暮らす男子高生と中身が「入れ替わってる!?」…、という筋書きである。

「君の名は」の主人公の女子高生は都会に憧れ、そして中身の入れ替わりという古典的ファンタジー極まりない手段でではあるが、都会の男子高校生としての時間を過ごすことになる。都会進出を果たす。ここまで全て導入部であるが、まず映画の入り口で都会を夢見る/夢見た全ての田舎者の心をツカみにかかっていたと思うのだ。昼は冴えないサラリーマンが夜はヤクザのドンであるというストーリーに、全ての冴えないサラリーマンが心惹かれるのと同じ構造である。(※「静かなるドン」)

対して「竜とそばかすの姫」では、高知の中山間地域に住む主人公の女子高生・すずは、冒頭で既に現実にほぼほぼ絶望している。都会に憧れるとか田舎を恨むとかそういう次元ではなく、ひたすら厭世である。

分かっている。田舎が悪いわけではない。ここで主人公が厭になっているのは田舎だけではなく、現実全部である。ただはっきりと意識せずとも、主人公の周り全ての現実=地方での暮らしである。

しかしそんな現実=地方での暮らしから、ひとたび仮想空間「U」に入れば、実は歌姫・ベルとして大活躍していて…という筋書きになっており、やはりこちらも恵まれない田舎者の心に刺さるイントロである。


しかし。


終盤、クライマックスに差し掛かったあたりの場面。

地域のコーラス隊のみなさん(余談だが声は森山良子、坂本冬美など錚々たる面々)たちが、すず=ベルであることを実は知っていたという描写がある。


伺いたい。

それ展開上、要る?



実はすべて知っていたおばさま方はこのあと、すずの元に駆けつけ、そしてすずを中山間地域の学校からJR伊野駅まで車で送ってあげている。

素人考えだが、このDVを受けている子供との交渉の場面に、おばさま方が居合わせ、見守り、理解し、駅まで送迎してあげる必要があったならば、「おばさま方がたまたま通りかかった」とかで良かったのではないか?最初から全部知られてた必要ある?

しのぶくんがあの伊野駅前の国道を挟み、すずに向かって「すず=ベル」と言い放った場面の方は多様な解釈の余地があろうからまだともかくとして、地域のおばさま方に全てを知られているのは極端に残酷である。

地域コミュニティの狭さを理解しているだろうか。

おばさま5人に知られているということは、地域の全員に知られていると言っても過言ではない。地域とは、すずにとっての現実世界そのものである。すずが現実世界の人々に知られたくない、知られまいとした「すず=ベル」の事実は、しかし最初っから現実の全員に知れ渡っていたのである。知られていないと思っていたのは当のすず本人だけ、「滑稽やね」と言わんばかりですらある。

劇中ではコーラス隊は必ずしも否定的に描かれていないし、「(母親がわりに)すずを見守っている」という解釈も見られるし、私個人としても小さな地域コミュニティを悪く言うつもりは毛頭ない。ただ、見守っているつもりか知らないが、「本人が知られたくない、知られていると思っていないことが実は全員に知られている」、こんな残酷な描写をわざわざ入れることの必然性が、本筋とは別に必要である。


つまり。


これは、地方のコミュニティと隔絶された仮想世界に光を見出そうとしたところで、結局みんな見てるよ、とこちらに明確に伝えているのである。

タチが悪いのは、序盤では「君の名は」さながらに「(地方での)現実」から抜け出す希望の光を与えているのである。「君の名は」の女子高生・三葉が科学を超越した作用によって「都会での暮らし」をひととき得たように、本作の主人公・すずは、肉体は田舎に置き従来通りの社会生活をこなしながら、仮想世界「U」の中に従来社会とのほどよい隔絶をひととき得て(得たように思わせて)、その中でスター歌姫としての地位を確立させているのである。


地方の現実がどれだけ苦しくとも、ひとたび仮想世界へと移れば、現実で叶えようのない夢を叶え得る。世界中の人と繋がり、評価されるべき才は正当に評価され、どこまでも行ける。行き得る。
一見、ネット空間に対し肯定的に見えるこの世界観に私たちを一旦いざない、いや、誘い込んでおいたところを、終盤にボコボコのタコ殴りにする。現実の制裁を浴びせる。現実世界との隔絶など最初から存在しなかったのだと。地域コミュニティから逃げ出せるなんて思ったら大間違いだと。

ついでにそのあと、DV家庭が東急多摩川駅周辺に存在することが判明する。田園調布である。「大都会での、物質的に豊かな生活」、こちらも極めてネガティブに描かれている。

ネット上の仮想世界で地域社会との隔絶を達成することなどあり得ず、また「君の名は」序盤のように大都会での生活を手に入れた先にも、幸せは待っていない。
現実たる地方に根を下ろし、地域コミュニティを受け入れ、育み、次の世代に受け継ぐ。その先に真の幸せがある。


理想論である。


ネットに対するネガティブな姿勢も、地方の地域コミュニティの暖かさや家族の絆を訴えることも結構だが、ネット社会が地域間格差の是正に一役買っている現実も、ネットに活路が見出せるからこそ地方に留まれる若者の存在も無視している。

地域とのほどよい隔絶をも否定した先に、地域社会と若者との調和、持続的な地域社会の実現が待っていると思ったら大間違いである。

せっかくネット上に活路を見出し、地域に留まることができた若者に、ネットもいけませんと絶望を与えれば、肉体ごと地方から脱出するほかはない。細田守の理想論は、過疎化著しい地方の存続をむしろ害していると思えてならない。


地域社会を受け入れ、生き、心から愛せている層には刺さっているのだろうか。それすら疑問だが、少なくとも地方を拒絶して都会に出てきている私にとっては、キレイな絵の説教に他ならなかった。

ネット上仮想空間を描き出す独特の世界観、「美女と野獣」の徹底したオマージュ、胸のすくような夏の雲の絵、そして中村佳穂の素晴らしい歌。これら全てが、アンチ-ネット・アンチ-大都会のポジションを取った細田守サイドによる渾身のお説教のために使役されているように感じられて、ムカついてきて収まらなくなり、こんな長文を書いてしまった。ここまで読み進めてきていただいたのに最後が感情論になってしまって大変申し訳ない。田舎の権威然としたお説教にムカつきを禁じ得なかっただけである。許して。


余談


末尾に、こんな映画を選択するくらいなら「アフリカン・カンフー・ナチス」の方がまだマシである、と書きたかった。

この一週間後に観た「アフリカン・カンフー・ナチス」。期待をさらに大きく下回る、想像を絶するD級ぶり。圧巻。

A級映画を期待してC級説教されるか、B級映画を期待してD級カンフーを観させられるか。期待値との差分だけで見れば、この選択は難しいトコロのような気がする。

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退職散歩ぺち
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