熱意の行き先
私は物心ついた頃からバレーボールが好きだったという話。
両親は野球部と卓球部なので、バレーなど教えてもらったことはない。母がママさんバレーに連れていってたみたいなこともないし、親戚もそうだ。
私のバレー好きは自発的に生まれた。というか多分だけど「アタックNo.1」なんだろうな。裏は取れていない。
その頃の私がよくそのアニメを見ていて影響されてた、みたいなエピソードはひとつもない。そんな時代だったのだろう。
幼稚園のころには、手のひらサイズのビニールボールを壁にぶつけて自主練をしていたし。小学校、中学校、高校と部活で迷ったこともない。
考えてみれば、それがバレーボールという一般的なスポーツでよかったよね、ちゃんとクラブがあったから。私は迷わず入部することができた。
サッカーなど今でこそメジャーだが、中学校では3年になるまでできなかったし。アメフトやラグビーだって高校まではなかった。また最近は男子バレーボールも人気がないのと少子化が重なって試合ができないくらいの人数らしい。
それに、勉強が遅れる、習い事かできなくなる、疲れるなどの理由で部活の時間も大幅に少ない場合もあるらしい。団体スポーツなのに、練習がA班とB班に分かれているらしい。レギュラーも分断されてるとか。なんじゃそれ。
まぁいい。
そんな中でも、私のバレーボールに対する熱意は場所的にはくじけることなく高校まで進んだ。
しかし顧問には高校まで恵まれず、日傘を差したような音楽の先生が監督をしていたり、生活指導の先生が本を片手に指導したりした。
私は真面目だったが体が細く、背も低く、気が弱かったこともあってコートで練習出来るようになったのは中3になってからだった。それでも何ら疑問も不平も持つこともなく、ほけほけ淡々と練習に通った。
何らかの感情が欠落してたのだろうか。ただ、小学校のような変な圧力もなく、先輩後輩の仕組みにさえ従っていれば、そのコミュニティに居ることができたから。そこでこうやっていることでバレーボールとつながっていれる、そんな思いだったかもそれない。
高校に入学すると、当たり前のようにバレー部に入った。そこでは基礎からみっちり教えてもらうことができた。国際審判員の資格を持つベテランの顧問に、外部からのコーチ2名、さらに一般的には憧れやら癒しとなるはずの養護教員が鬼コーチとして君臨していた。
今、一生懸命やりたいのに、顧問に恵まれない部活動のみんなからすれば夢のような話だろう。
先輩は背は低いけどまぁまぁ強く、県大会に行けるくらいだった。私たちはBチームに入っていつも練習相手をした。強く頼もしい先輩で、とてもかっこよかった。あぁなりたかった。
後輩が入ってくると、いよいよ私たちの出番。普通はそうなるが、今回はそうはいかなかった。別にバレーの強豪高でもない、県立の普通科なにの、東西対抗に出た選手が2名も入ってきたのだ。さらに170cm以上はあるセンター、背の高いセッターなど、後輩だけでほとんど1チームできるではないか。
最初の公式戦ではかろうじて、同級生が2,3名でたものの、その後は1名を残して後輩に取って代わられたのである。
ずっとずっとそれは続き。私たちは終始後輩からレギュラーを勝ち取るために、内緒で朝練をやっていたりした。
顧問とコーチのおかげで、基礎も体力も身に付き、バレーボールという形になったものを見てきて、勝つことの喜びも知ってしまったのである。私たちは試合にでることを日々渇望していた。とても練習をがんばった。精神論だけは立派になっていき、ペアの後輩をいつも励ました。
後輩たちは苦しかったかもしれない。どんくさい熱意だらけ欲望だらけの先輩に日々とやかくいわれながら試合を戦わなければならないのだ。そして負けると先輩たちがめっちゃ泣くのだ。(残念ながら勝った試合もあったはずだが全く覚えていない)
3年生になると、私たちはもう練習に出なくていいと顧問に言われた。どうせ試合には出せないのだから、試験勉強を優先させよと言ったのだ。私たちはまた泣いた。練習くらいさせてください。そう抗議した。
試験で全員が偏差値50越えないとだめと言われた。危なかったのは私ともう1人、放課後に勉強会を開いてしのいだ。
引退試合も後輩が戦って負けて終わった。後輩たちは多分がんばったけれど、楽しそうではなかった。それは仕方ない。楽しくなかったのだろう。
一方私たちはすごかった。レギュラーを目指すだけの私たちの青春が終わったんだな、みんなともお別れなんだな、これから試験勉強するのだな。色々な思いがごちゃ混ぜになって、私たちはしゃくりあげて一室に籠って泣いた。私はしゃくりあげすぎて死ぬかと思うくらい泣いた。多分、今までの人生で一番だ。
あぁ長くなった...
そんな熱意。ぽっと出のテレビアニメからもらっただけの熱意。それが一時閉じ止められて圧縮されてさらに濃くなって。その謎の濃い熱意に導かれ私はここまで生きてきた。
1人暮らしで彼氏の浮気でくじけそうな時に社会人バレーに誘われ、第2のバレー人生が始まった。チームを作り人脈を作りバレー雑誌に載り、キャプテンになるまでになった。
はたまた全て捨てなければ生けて行けなくなったこもとあった。全てを捨てて転職で引っ越しをし、新天地で誰も知らない土地に来て、翌日には近所のバレーチームの門を叩き、あっという間にコミュニティに入り込んだりもした。
はたまた、結婚出産で、新天地に加え体力も気力も弱っている時に、地域のママさんチームにも出会うことができた。気さくな良い人ばかりで、私の行動範囲と可能性をまた広げてくれたのだ。
先輩で、後輩で、バレーを続けている人はおらず、私たちの代だけ、バレーをやってる人の多いことよ。
熱意は圧縮すると変異をおこして別物質になるのかもしれない。
熱意ってやっかいだけどすごい。
時に盲目に、何を考える猶予も与えず、没頭し、感情を根こそぎ揺るがされ、しかし命綱として働き、将来まで左右する。
これに出会ってなかったら私は何をしていたのだろう。
人生はこの熱意に出会うためのものではないのか。
年もいき、そうバレーバレーとも言ってられなくなり。その熱意はもう水面下で静かに流れるレベルとなってはいるが。
ふとチームに地域の中学一年生が参加し、バレーボールが上手くなりたいと聞くと。その静かな脈がぴくりとするのである。
膝に水がたまって安静にしなくてはいけない私が、かつて習った基礎を伝授しようとするのである。
そんな厄介なもの。
しかし、出会えるものならみなに出会わせてあげたくなる。暑苦しい私である。
今日はここまで。
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