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約150年の前に撮られた江戸城を同じ場所で撮影してみた

江戸時代当時の江戸城を写真で見たい場合、有名な写真といえば、イギリス人写真家フェリーチェ・ベアト(Felice Beato)が、慶応2年、3年(1866、1867年)に撮影した写真と、明治元年~17年(1869~1884年)の間に撮影されたライムント・フォン・シュティルフリートの写真が有名です(すでに江戸じゃないですね笑)。日本人自らの記録としましては、1871年には新政府の命令で横山松三郎が旧江戸城写真帖(https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp)を作成しています。しかし、横山の写真帖と比べて、ベアトとシュティルフリートが撮影した写真は非常に良い状態で当時の姿を記録しています。

この記事ではベアトとシュティルフリートの写真がどこで撮られ、当時と比べて江戸の地がどのくらい変貌したのかを見ていきます。なお、写真はすべてAIで着色しています。

まずはこちらのベアトの写真から。現在の姿が下の写真です。


こちらは江戸城の堀の外から見た様子です。この堀は正確には桜田濠といいます。ロードバイクで走っている方やランナーの方にはお馴染みかもしれませんが、半蔵門から下っていき最高裁判所の近くで撮影しています。この付近は江戸時代には田原藩三宅家上屋敷や井伊直弼の彦根藩上屋敷がありました。このまま右のほうに行くと桜田門があります。当時と比べて堀がやや埋め立てられていますね。


次はシュティルフリートが撮影した二重橋です。こちらは二重橋がまだ木製の頃の写真です。


二重橋は正確には手前の目立つ橋が正門石橋、奥に重なって見える橋が正門鉄橋とと呼ばれています。1887年(明治20年)12月8日に木製から現在の姿へ改修されました、江戸時代の写真と比べ、多くのやぐらが失われていますが、奥に佇む伏見やぐらだけは現存しています(関東大震災時に崩壊。その後修復)。

次は坂下門の前らへんから蓮池巽三重櫓を撮影したシュティルフリートの写真です。

現在の写真だと何も残っていませんが、石垣の模様は今も昔も変わっていませんね。ちなみにこちらの立派なやぐらは、明治3年(1870)10月7日の蓮池門爆薬庫火災により類焼したと言われています。シュティルフリートの写真ですと、カメラアングルが低くて堀が見えませんが、いまの写真でみるとしっかり堀が見えます。右側の奥の方に桔梗門と大番所が見えます。

次はほとんど同じ場所で撮影しているベアトの写真です。

蓮池巽三重櫓があり、その手前から玉葉多聞、弓矢多聞、寺沢やぐらが確認することができます。現在になると大手町のビル群がみますね。

こちらはシュティルフリートの写真で先ほどの写真の奥側にあった桔梗門です。こちらも現在の写真を確認すると、ほとんどの建物が消失していることがわかります。

ここまでは比較的簡単に見つけることができましたが、問題なのが次の写真です。

奥に見えるのが富士見やぐら、左側にある門が坂下門であることはわかるのですが、どこから撮ったのかがわかりません。写真の角度としてはこちらです。

それで、このまま後ろの方へさがって行くと、立ち入り禁止の箇所になります。おそらくそこで撮影されていますね。ここで違う写真に登場してもらいます。

こちらは1914年(大正3年)にアメリカで刊行された『The Spell of JAPAN』で紹介された写真です(カラー化してます)。刊行までの時間的なロスがありますので、実際には刊行年よりだいぶ前に撮られていると思います。こちらの写真は立ち入り禁止の箇所がよくわかりますので、こちらで確認すると次の箇所で撮影したことがわかります。

以上で約150年前の江戸城と現在の様子を確認することができました。

もっと、ベアトとシュティルフリートの写真をカラーで見たい方は次の書籍をkindleで確認してみてください。

ベアトの写真。『江戸の風景と人びと AI Color Series』


シュティルフリートの写真、『幕末日本の風景 AI Color Series』



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