
フレッシュ!ビタミンカラー -1980年アイドルに寄せて-
【はじめに】
皆さま、こんにちは!まはるです。
今日は、大好きな昭和アイドルのお話です。
書き進めながら、幼かった頃の土曜日の記憶を辿ることが出来ました。
お若い方も、私と同年代の方も楽しんで読んで頂ける内容になっていると思います。
それぞれの推しについて語らうきっかけになれば嬉しく思います。
最後までお楽しみください。
(1)懐かしき「半ドン」
土曜日は、半ドン。
学校では給食もない。
午後12時を少し回った頃に授業が終わると、あとは掃除をして帰りだ。
「半ドン」
その昔、土曜日の正午にドラの音が街に響き渡り、それを合図に人々は仕事を終えた。
「半日で鳴るドラ」、転じて、「半ドン」。
何気なく使っていた言葉の由来を、泣く子も黙る少女漫画の金字塔「はいからさんが通る」が教えてくれた。
現代とは違って、「休む」ことの意義より「頑張る」ことの意義が断然重要視されていた昭和。
サラリーマンは猛烈に働いて、学生はしこたま勉強をさせられた。
だから、土曜日の「半ドン」はとてつもなく貴重で嬉しい週末のご褒美だった。
土曜日は小学校が終わると脇目も振らず、家まっしぐら。
ラジオを聴く為であった。
私の場合、ラジオを聴く習慣は、母が我が家に持ち込んだ。
私が幼稚園に通っていた頃から、パート三昧だった母は、数年に一度、新たな職場を探す為と疲れた体を癒す為に、専業主婦をする時期があった。
そんな時、母はラジオを聴いていた。
私は決して口には出さなかったが、「ひとりぼっち」で過ごす家がたまらなく嫌で、母と一緒にラジオを聴ける日は幸せな魔法に掛かったような心地で過ごしていたのである。
それが土曜日ともなると、その幸せな心地といったら格別のものだった。
聴いていたラジオは、歌謡曲の大型ランキング番組。
今回のエッセイ執筆に当たって番組名を調べたのだが、辿り着けなかった。残念だ。
今や、懐かしのワードに出て来そうだが、電話によるリクエスト、略して「電リク」と「レコードの売上」など、様々な要素が合わさって、その週の「ヒットランキング」が構成されていた。
当時はテレビでも「ランキング形式」の番組が数多く放送されていたが、テレビより一足早く「新曲」が聴けて、時にはその歌を歌っている本人が番組に「電話出演」してくれるこの土曜日の午後の大型ラジオ番組は、芸能業界を生業にする人々にとっても、一般聴取者にとっても、外せない要の番組だったのだ。
(2)セピア色のアイドル
「AKB48」、「乃木坂46」、「ガールズK-pop グループ」。
2025年のアイドルグループも華やかだが、私が小学生、中学生時代に活躍をしたアイドル達も煌めいていた。
特に1980年代前半に活躍をしたアイドル達は、現代の「音楽」の礎を作ったと言っても過言ではない。
「昭和レトロ」「シティポップ」が持てはやされている現代、カバーも含めればこの時代のスター達の曲を聴いたことがある若者もきっと多いことだろう。
幼い頃から思っていたことなのだが、当時は自身の「語彙力」が追い付かず、何ともモヤモヤして、人に伝えられずにいたことがある。
とにかく「歌」が大好きで、「歌うこと」はもっと好きで、誰にも明かせなかったが「アイドルになりたい!」との夢を胸の中で密かに温めていた私は、1970年代と1980年代の明確な違いを肌で感じ取っていた。
でも、それが上手く言い表せられない。最近、その違いを言い当てる「表現」を知った。
それは「色」だった。
70年代、流行りの歌には、どことなく「哀愁」が感じられた。
トップアイドルと言えば、山口百恵さんだろう。
ピンクレディーやキャンディーズといった、一大ムーブメントを起こしたグループは勿論居たが、後々まで伝説となる程の偉大な存在と言えば、好き嫌いは一旦横に置いておいて、やはり圧倒的に山口百恵さんの顔が浮かぶ。
「秋桜」、「いい日旅立ち」、「プレイバックPart2」、「横須賀ストーリー」。
名曲には事欠かない。
しかし、これらの曲達は、バラード調だろうがロックテイストであろうが、全体的に「セピア色」の雰囲気をまとっている。
どこか憂いを秘めたところが魅力のひとつになっていた山口百恵さんが歌うからこそ完成された「世界」。
しかし、この稀代のアイドル歌手だけでなく、当時の「歌謡界」は、80年代に比べて、華やかさが足りないのだ。
そこにこそ、決定的な違いがある。
(3)鮮やかな新しさ
1979年が明け、1980年に入った途端、「アイドル」「歌謡界」と呼ばれる世界に一気に色が加わった。それはそれは、華やいだ眩しさだった。
「セピア色」の70年代から「ビタミンカラー」の80年代への鮮やかな展開だ。
あちらこちらで花開く、「ビタミンブルー」や、「ビタミンイエロー」。
それは幼かった私にも、大いなるワクワク感をもたらし、「何だかよく解らないけれど、凄いことが起こっているぞ!」と期待感を持って、テレビやラジオに噛り付いたのだ。
山口百恵さんの潔い引退劇から入れ替わるように飛び出して来た、松田聖子さん。
とにかく「声」が良かった。
一切の憂いなく、スパーン!と伸びる高音で「青春の淡い恋心」を歌うその歌唱は、紛れもなく新しい「時代」を予感させた。
もはや、80年代には無駄に纏う「憂い」は必要ないのだった。
松田聖子さんを追うように、「トップアイドル」の座を狙ってレコードを発売する他の女性アイドル達も、粒ぞろいだった。
河合奈保子さん、柏原芳恵さん、岩崎良美さん、今や国会議員として活躍をしている三原じゅん子さん。
こうして書いていても、嬉しくなるような一流の顔ぶれだ。
私は取り分け、柏原芳恵さんのファンで、小学生当時はお小遣いが足りず沢山買えずにいたレコードを、大人になった今、「CD-BOX」という形で買い揃えて、当時の枯渇感を埋めたりしている。
大きな「時代」の変わり目を体感した私は、より一層「アイドル」に夢中になった。
芸能雑誌として世のティーンエージャーを沸かせた「平凡」や「明星」を買うようになったのもこの頃のことだし、左手をマイクの形に握り締め、やたらと響く声で、松田聖子さんの最新曲や柏原芳恵さんのヒット曲を歌って遊んでいたのもこの頃だ。
おそらく、「歌謡界」が60年代、70年代の試行錯誤の時期を越え、完成をした時期だったのだろう。
(4)40年の歳月を経て
松田聖子さんの「青い珊瑚礁」。
今聴いても、素晴らしい完成度である。
「歌詞」、「メロディー」、「リズムの刻み方」、「歌唱力」。
現代でも評価を受けている要因は多々あるように感じる。
2024年末、私は体調を大きく崩し、年末の掃除がまるで出来ずに閉口していた。
加えて、既に住んでから10年が経過している水回りの至る所の汚れは、素人の私の手には負える筈もなかった。
悩みに悩んだ末に、プロの清掃業者に来てもらうことにした。
お風呂場、トイレ、洗面台、台所。
丸1日掛けて、プロの業者さんは念入りに綺麗にしてくれた。
その間、私は冴沢(さえざわ)鐘己(しょうき)さんというシンガーソングライターのYouTube動画を観て過ごした。
偶然見つけた動画なのだが、恐らく、私と同年代かやや上と思われる彼が、音楽のプロとしての「視点」で、80年デビューのアイドルの曲を一曲一曲丁寧に流して、DJ風に語ってくれていたのだ。
丸一日聴いていても決して飽きることが無かった。
それどころか、彼の解説を聴いていたお陰で、松田聖子さんを始めとする80年代アイドルとその時代に、艶やかな「色」が付いたのだということを、まざまざと感じ取った。
(あぁ、これか!私が当時感じていた、今までとは明らかに違う“ワクワク感”の正体は!)
トイレが使えない冷や冷や感は拭えなかったが、10年間分蓄積していた汚れと40年間言語化出来ないまま過ごしていた、「アイドル」の魅力を取り巻くモヤモヤ。
二つの霞が晴れていく年末に、思いのほか胸が躍った。
冴沢さんが当時の「曲」を流してくれる度に、ランドセルを揺らしながら走って帰った土曜日を思い出した。
母にせがんでラジオ局に掛けてもらった電話。
「河合奈保子さんの“ヤングボーイ”と柏原芳恵さんの“毎日がバレンタイン”に一票を入れてください!」
たどたどしい声でお願いした「リクエスト」を受けてくれたお姉さんの声は優しかった。
半ドンの嬉しさの中で食べた、母の得意料理の「チャーハン」の味は生涯忘れない幸せの味だった。
2024年の私と1980年の私がピタリと重なった年末。
80年代アイドルは、私の心の中で永遠に輝き続ける。
2025年初頭、先述の冴沢さんが、YouTubeで、「レトロソング」のDJ番組を生配信していることを知った。早速、チャットに参加をさせて貰っている。
冴沢さんが新たな曲を流す度に、リスナー達が「曲名」や「歌手名」を言い当てて、わいわいと盛り上がる。
さながら、歌謡曲黄金期に流行った「イントロドン!」が名物だったテレビ番組「ドレミファドン!」のような楽しさだ。
体調も気分も優れない日が続いても、こんな素敵な今年の楽しみを見つけられたことはラッキーだ。
今年も、懐かしき「レトロソング」、「アイドルソング」達に元気を貰う一年になりそうだ。