【FF14】7.1途中までの感想 ネガ 主に倫理観について【黄金のレガシー】
王道 武道 人道的 勉学の道へ進む
街路樹 水路 三十路 二日路
その「みち」、適切な漢字は 道 路 どちら?
FF11プレイヤーでもあったのでコラボは楽しみだった。
音楽でずっと鳥肌が立ちっぱなしだった。
高解像度化されやたらと広くなったジュノ、龍のねぐら
嬉しくて写真を撮りまくった。
何度も通いたいと思えるレイドだった。
7.0を経た分、メインシナリオが私に合わないのは分かっている。
精神的に削られなければそれでいいくらいのスタンスで挑んだ。
削られた。
以下ネタバレあり。
「路」
「厭」はしっかり彼のキャラ付けとして定着しているのに対し、7.0でやたらと目立つ「路」。
トラル出身のキャラ付けだと思うようにしていた。
なのに7.1でのFF11コラボのヴァナ出身(?)新キャラまで使い始めた。
正直うんざりしている。
7.0で暁メンも使うようになってはいたけど。感染性?
精神的な意味合いを含んだ「みち」、
上記熟語ならともかく、俺の「みち」だとか 変化の「みち」だとか
日常会話でそうそう出てこない。
創作物だからこそ度々出てくるワードだろうが、6.xまで気になっていない。
どっかで使っていそうだけど覚えていないくらい馴染んでる。
7.xでやたらと目に付くようになった。
勿論「路」を使っているからというのが一番の理由だろう。
だが日常を装いつつも、現実の日常とかけ離れたやり取りが頻出しているというのも一つの要因だと感じた。
「厭」は実に自然なタイミングで使われていた。
日常とかけ離れた体験を求めて冒険をしてはいるが、イキった中学生のような言葉(漢字)選びをした、常態から離れたコミュニケーションが常識の様に、短期間で何度も繰り返されるのはストレスになる。
リアルにおけるそのコミュニケーションは相手を考えていない。
本人だけが気持ちがいいものでしかない。
そして14に於いては、シナリオがプレイヤーを見ていないということに繋がってしまうのではないか。
倫理観
常識と離れたコミュニケーションといえばスフェーンの葬儀。
ヒカセンは敵として命を奪ったので辞退したが、当事者の一人が、一番ダメージを与えた者が、あまり深い考えも示さず賓客として参列する。
(むしろヒカセンが首謀者みたいな扱いされてなんだかなぁ)
まぁシナリオ上一旦置いておく部分だなと思うことにした。
国交的な意味では招待、出席は必要だろう。
が、その後の、大好きなスフェーンを失って、失った記憶が辛くて苦しんでいる子どもとのやり取り。
ここでどうしてヨカフイ族の死生観を説いたのか。
命を奪った当事者が言うか?というのは一旦置いておいて(置いてばかり)。
「覚えている限りスフェーンの命は続いていく」
これは普通の死生観を持っている人たちには慰めになるだろう。
だが亡くなった人のことを忘れるシステムで生きてきた人にこれを説くのは、
「亡くなった人のことを徹底的に忘れることで、死者に二度目の死を与えていた」と伝えるのと同義である。
せめて受容、承認期であるならまだしも、否認、混乱期にいる新生アレクサンドリア人にこれをワザワザ説くのは私の倫理観と合わない。
ましてや子どもにである。
こんなコミュニケーションは私の常識には、無い。
その後シナリオを進めての新IDユウェヤーワータ。
ここにグルージャを連れて行く。
突入して初めて人体実験施設であることが判明する。
そして人体実験の成れ果てがバンバン出てくる。
が、子どもを連れたままどんどん進む。
制限時間もなく、閉じ込められてもいない。
ホラーゲームと違って引き返す選択肢もあるのに、だ。
普通のモンスターと違うのだ。
手足はねじ曲がり、眼球は抉れ、皮膚にはボコボコと腫瘍が浮き、呻きながら血みどろで動く人体。
それを ”子供の眼前” で、斧でぶった切り、魔法で焼き、叩きのめしていく一行。
あの場にいた暁を含め、大人であればグルージャを説得し、一度撤退すべき場面ではないのだろうか?
これがインタビュー等で「7.xでは人を導く立場にいる」とされたヒカセンのすることなのか?
「導く」はただのガイドのつもりではなかっただろうに。
1ボス後から2ボス後まで、PT不参加のNPCと共に建物の外で一旦待機する指示など出せなかったのか?
せめて目を塞がせるなどできなかったのか?
それこそ後見人のウクラマトが説得し、親代わりとしてしっかりしたところを見せてくれてもいい。
そしてID攻略後
グルージャ「僕のワガママに付き合って、ここまで連れてきてくれて、本当にありがとう!」
ウクラマト「気にすんなって。アタシもゾラージャ兄さんのことが知りたかったし、お互いに、いい冒険になったと思うぜ」
人体実験施設の踏破が??子どもにとっていい冒険に???こいつに人の保護者役は無理だ!!!
あんな施設を踏破した後に明るくお礼を言えるグルージャ
彼の情緒は適切に育っているのか?
今のままの接し方で大丈夫なのか?
グルージャが気にしていない、平気にしているからいい?
それはグルージャの健康的な精神の成長を見捨てるのと引き換えである。
ゼノスならまだしも、グルージャはまだ子どもである。
グルージャがそう育ったから、普通の子とは違うから対応も変わる?
何故今からでも普通の子と同じように接する選択肢は無いのか。
普通の子どもに与えられる普通の対応を、何故 "誰も" グルージャに与えようとしない?
何故皆が皆横並びの行動を取るのか?
この対応を普通として経験したグルージャは、後進に、自分の子に、同じことをしてしまうかもしれない。
もしくはグルージャの父、ゾラージャのように、経験していない "普通" がわからず苦しむかもしれない。
グルージャは実験体の成れ果てを見て、ニンゲンと理解しても、凄惨さに顔を顰める感情を持っていなかった。
死生観にアレクサンドリアと原初で差はあれど、人の尊厳に差はないはずだ。なのにグルージャの反応はあまりにもフラットであった。
彼の情動は一般的なそれとは既に離れいている可能性が高い。
経験がそうしてしまったのであれば、改めて経験するか知識で埋めていくしかない。
まずは土台として "普通" を与ねば、その子に適応した "特別" を与えても "普通" がわからない。
なのに誰一人として "普通" を与えない。
皆が皆 "強い子" "大人びた子" の名のもとに "特別" を与えてしまう。
"奇跡の子" の名のもとに "普通" を与えられなかったゾラージャと同じ扱いを繰り返してしまっている。
ヨツユは記憶を失い幼児退行した際、ゴウセツに大人から与えられる "普通" の愛情を与えられた。
孤独を孤独と気づけず周りを振り回すだけだったゼノスは、アリゼーに人との "普通" の関わり方を説教された。
彼女、彼にすら "普通" を与える人はいたのである。7.xはそんなゴウセツがもし出てきても、きっとグルージャの強さをヒエンに例えて褒め称えるのだろうな。
子どもに見せることに大人が何の逡巡もなく、人としての尊厳を毀損されたあの実験体の成れ果てを、今までのモンスターと同じように斧でなぶっていたら常識がそれになる。
同等の場面における感受性は育たない。当たり前である。
安全を請け負い、連れて行った先が想定外の物(今回はスプラッタハウス)であったら、大人相手でも「ごめん、ちょっとしんどいとこだったね」や「大丈夫だった?」くらいの声掛けをしないだろうか?
グルージャはそんな言葉すら貰えていない。
本来であれば心配されるような場所だったのだと考える機会すら与えられない。
なのにいい冒険だったと大人が肯定までしてしまった。
その肯定を他の大人が誰も否定しないのだ。
黄金より前であれば強い嫌悪を示しただろうアリゼーが、今回は何故か”ちょっと不気味な施設”程度の扱いをしている。
アリゼーの他者に寄り添うたおやかな感受性は過酷な体験で失われつつあるのだろうか……
黒薔薇の犠牲者達に顔を歪めた、いつまでも犠牲に慣れない心優しいアルフィノも今はいない。
ご両親に顔向けができない……
倫理観が終わったキャラ、世界観がエッセンスとして出てくる分には全く問題ない。
幼子への容赦が無いメイドインアビスはその世界観設定も評価につながっている。
ウェルリトは倫理観の無い物、者に対して批判的な視点も描けており、きちんと一線を引けていた。
だが今回、暁を含む『アーテリスで生きる大人の、幼子への "一般的で常識的な振る舞い"』としてこれらが描かれ、チェックを通っていることは、今後開発が出してくる物の品質への信頼が揺らぐ一因となる。
開発の倫理観のラインを信用できなくなる。
踏み越えてはいけない一線があやふやな今の開発には、プレイヤーが大切にしているものを、その価値に気づくことなく、なんとなくで破壊してしまうような危うさがある。
伏線も救いもなにもないままプレイヤーの宝物をソイレントシステムで処理しそうな雰囲気がある。
(実際、7.0時点でFF9のファンにはソイレントシステム食らった人もいたのではなかろうか……)
命の扱いが軽いこの世界において、両親を亡くしたガ・ブに、ガレマルドの雪に倒れた姉妹に、心を痛め苦しみ寄り添った双子は、黄金では居なくなってしまった。
子どもが絡む分、大人として、子どもを育てる立場として途方に暮れて手がココで止まってしまった。
クリアするまで進めるつもりではいるのだが
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