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花をいけることは、自分と対話すること

いけばなをここ4年習っている。
レッスンは月1~2回で、
こつこつ地道に、楽しく思える範囲で続けている。

いけばなは、花のいのちに向き合う行為だけれど、
不思議なことに、自分を発見することにつながってきたと思う。
発見したことを2つ書いていきたい。


①自由な人


私が習っているのは、池坊のいけばなだ。
池坊のいけばなで、入門者がいける花の形は「生花」「自由花」の2つ。
違いを簡単にいうと、「生花」には型があり、「自由花」には型がない。

生花。
本数や花材による違いはあるけれど、この形から大きく外れることはない。
自由花。
定まった形はない。

私がいけばなを習った理由は、「日本人なのだから、日本文化を知る習い事は1度はやっておきたい!( ー`дー´)キリッ」という、なんともクソマジメなものだった。そのため、いけばなの源流たる池坊特有の型「生花」をメインに自分はやっていくのかなと思っていた。

ところが、今私が好きなのは「自由花」だ。
定まった形が無く、自分で構成を全部決められるところが楽しい。
その日出会った花材と、花器と、自分の気分を融合させてつくるため、レッスン前には想像もしなかった作品ができあがる。そのアドリブ感がたまらない。

習い始めた当初は、私はそんな発想力とか無いし、決められたことをするほうが向いているのだと思っていたので、自分が自由につくることに喜びを見いだせる人間だなんて知らなかった。
そしてこの特徴はきっと、花をいけるときのみではなく、私そのものにも当てはまると感じている。
私は思ったより、自由な人だったのだ。

②感性の芽吹き

秋をイメージした自由花


最近、「花と目を合わせる」ということが分かってきた気がする。
花は、無条件に、世界に微笑みかけている。
そこに、そっと目を合わせて、「綺麗だね」と念を送ってみる(ヤバい人)。
こうすることで、世界がより美しくなるような気がするのだ。
こんなメルヘンなことをする感性が、自分の中にずっと潜んでいたのだろう。それが、花をいけることにより芽吹いたのだと思われる。
ほかにも、同じ種類の花でも表情の違いがわかったり、枝の個性を見出したりするなど、植物を見る目が育ってきた。自分がそういう目を持っていたことがうれしい。

さいごに いけることは、自分との対話

自宅で自由にいけたときの写真
テーマはPINK♡

創作物には、その人のひととなりが現れるというのはよく聞く話で、いけばなもその例に漏れないと思う。
いける過程で嫌でも自分と向き合うし、完成した作品はある意味自分の写し鏡だ。
先生がおっしゃっていたが、学生さんの作品は、心が純粋だからか、とても綺麗なのだそう。
自分でも、寂しい気持ちの時はどこか寂しい花が、楽しい気持ちのときは楽しげな花ができる実感がある。
何かを表現しているようで、実は、ひたすらに自分との対話を重ねているのかもしれない。

私が年を重ねていくにつれて、作品も変わっていくのだろうか。続けていけば、もっと多面的な自己を発見できる気がする。
楽しいだけではなく、難しくて苦しいときもあるけれど、熱しすぎず冷めすぎず、ちょうどいい温度感でいけばなを継続していきたいと思っている。


(未熟な作品画像を晒しスミマセンでした…。)






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