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塩谷風月「月は見ている」を読む

 塩谷風月さんに初めてお会いしたのは、千原こはぎさん主催の歌会「鳥歌会」でのことだった。リアルな場で人の短歌を評すこと・自分の短歌を評されることは初めてだったんだけど、それまでTwitterで壁打ちのようにやってたのとは違って、「短歌を読む」ことの世界が広がった気がした。歌会初参加の人が多かった中で、塩谷さんは結社に所属され、歌会の雰囲気に慣れておられた印象だった。評の言葉遣いも洗練されていて、歌会終了後しばらくは作歌のたびに塩谷さんの声で的確な批評が聞こえる現象が起きた(歌会の後ってそういう感覚がある。楽しい)。
 その後も文フリなどで何度かお会いしてご挨拶させていただいていた。ある日Twitterで「歌集を出す」とお知らせされているのを見て、これは何としても入手しなければ……!!と意気込んでいたんだけど、なんとご本人から進呈していただいた(その節は本当にありがとうございました)。遅くなってしまったけど、お礼も兼ねて好きな歌と感想を挙げていきたい。



いにしえはそれは美しい石でした靴底の砂がささやいている
 連作「ヒチコックの横顔」より。日常を違う目線で切り取るのが短歌の詠み方の一つであることに気づかされる。さまざまな力に削り取られたかつての「美しい石」は、靴底で自分が美しかったことをどう思っているのだろう。懐かしんでいるのか悔やんでいるのか、どちらにしてももう美しかったころには戻れない。


大粒の苺をつまむ指先の味を知り合うわたしたちである
 連作「消して、名前を」より。「指先の味を知り合う」という関係は、とても親しいものだろう。大粒の苺は一口では食べきれないだろうから噛み切らなきゃいけなくて、瑞々しい果汁が指に伝う画を想像する。苺の花言葉には「幸福な家庭」というのがあって、恋人か夫婦かもしくは親子かもしれない。


自由とはつめたい蛹 背広というやわらかき定型に抱かれて
 連作「つめたい蛹」より。高校倫理にも出てくるフロムの「自由からの逃走」を思い出した。自由は責任が重く孤独なものだから、現代人は力強く自分を導くものを求めてしまう。「背広」は自分を守ってくれるもので、それを手放さなければならなくなるかもしれない恐怖が「つめたい蛹」に凝縮されている。


寒椿咲き初めたるを千切り取る幼児の手に鮮やかな死は
 連作「閉鎖病棟」より。こどもの残酷さがはっきりと描き出されている。ほっとけば花ごと落ちるはずの椿を、やっと咲いたばかりの椿を、千切り取るっていうことをやっちゃうんだよなあ、こどもってやつは。きっとこの椿は赤い花びらで、小さな手のひらに誇らしげに死を乗せてこちらに見せてくる。きれいなものを大切な人に見せたいという、こどもにとっては大正義のもとで残酷なことをしてしまうから。


海は空とひとつになりたいむき出しの心臓をその色に染めても
 連作「月読の夜」より。海と空の関係はとても詩的で短歌にもよく詠まれるしわたしもよくセットで詠むけど、後半の展開がこの歌のオリジナリティだろう。後半本当にものすごく好き。「海と空は」じゃなくて海が主語になってるのがいいし、海の心臓ってどこだろう、むき出しの心臓って何だろうって想像が止まらない。今すぐ海に行きたくなるね。


日溜りのかたまりだったてのひらが春風に少し醒めて 離れた
 連作「入学式」より。この連作は父と子がテーマで、その最後の歌になっている。「日溜りのかたまり」のリズム感がいいし、こどもの高い体温のあたたかさがダイレクトに伝わってくる。これから新しい社会に飛び込んでいく子への頼もしさとさみしさが最後の一字空けから感じられる。泣いちゃう。


核の傘さしてさみしい夏の雨くろぐろと児の柔らかな髪に
 連作「じゃあもう帰る、かえるねと云う」より。「核」「夏」「雨」「くろぐろ」というともう原爆の話を思い浮かべてしまう広島出身者の性。こどものふわふわの髪の毛は生命力の証と思う。それを容赦なく奪っていく核に守られているということ。それの良し悪しはさておいても、夏になると何とも言えない気持ちになる。

そのひとの灯す吐息を掬い取るいまくちづけを終えたばかりで
 あーーーっすっごいすき、めっちゃいい。キスの後の小さなためいきが「吐息を掬い取る」という表現になるのしびれる……「そのひとの灯す吐息」も、ものすごい愛を感じる。他の誰のでもない愛しい人の吐息が、自分にとっての光になってるみたい。


パイ生地をサクサクと割りゆくようにいま父はとても柔らかである
 連作「父への挽歌」より。タイトル通り、父の死に向き合う連作になっている。遺骨って確かにパイ生地のようで、箸で拾うときにうっかり力を込めてしまうとほろほろと崩れてしまう。それを「柔らか」だと言うのは、生前の父は「固かった/堅かった」からだろうか。死してやっと柔らかくなった父に、子は何を思うのだろう。同じ連作の歌の中で「何を思えばいい」とあるように、主体もまだそこまで実感が湧いてないのかもしれない。


冬の月 幾億と降る恋歌のたったひとつの雪だあなたは
 連作「月と雪」より。この連作の歌ぜんぶ好き。自分がしんどい時に他人を大切に思うのってとても大変で、結局人を愛するには自分に余裕がないと無理なのか、余裕がない自分には人を愛することはできないのかって思ってしまうんだけど、この主体には「あなた」を希望にしてほしいと思う。物語のような連作。


梨の香の含むかすかな土の匂い果汁はかつて地下水だった
 連作「距離(distance)」より。これも日常の気づきの歌だと思う。梨に土の匂いがあるなんて思ったことなかったし、果汁がかつては地下水だったのも言われなければ一生気づかなかった。作者の視点の鋭さに驚かされる。

空の色映して碧い海と聞きなんてやさしい鏡なんだろう
 空に侵食された海、とかではなくてそれを「やさしい鏡」って言える主体がやさしいと思った。「碧」は強い青緑色のことで、どちらかというと水深の深い部分の水の色という印象がある。深いところまで空の光を含んだようなイメージ。空をより美しく見せているみたいだから「やさしい鏡」なのかなあ。


 どのページを開いてもすこしの冷たさがある歌集だった。それは厳しい冷たさではなく、ひんやりとさびしい気持ちだと思う。親として、子として、人としてのさびしさが、ひとつひとつ歌にされているような。それでいて、そのさびしさとつかず離れずいながら生きていこうとしているような、そんな雰囲気の歌が並んでいる気がした。

注いだら私のなかをめぐる水 地下深く古代魚の骨がある



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