あなたが虚しく過ごした今日
Death exists, not as the opposite but as a part of life.
---"Norwegian Wood" by Haruki Murakami
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」
---「ノルウェイの森」村上春樹
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ふと考える…もし仮に今、自分がこの世から消えてしまったら…。
ブログやX:旧ツイッター・facebookに残されたそれまでの自分自身の言葉やメッセージはすべて遺書代わりになるってことなのか…。
それはインターネットがある限り残され続けるんだろうか…。
あの世から投稿や書き込みは当然できないんだけど…。
たまたまニュースで紹介されていた山岳事故で亡くなられたある方のウォールをfacebookで見ていた。
もう亡くなられた彼のウォールには、彼の訃報をニュースで知った彼のお友だちからのいくつかのメッセージが書き込まれていた。
その前日まで明るく元気な笑顔で振舞っていたはずの人がなぜ…?
誰しもそう思うに決まっている。
だが、あまりにも現実は残酷である。
何だかやるせない気持ちになった。
必死で生きていかないと命がもったいない…そんな風にも思わされた。
これは、決して他人事(ひとごと)ではない。
自分にも起こり得たことだろうし、この先、旅を続けていて地球のどこかで必ず起こり得ることだ。
どこで、どれだけの確率で、起こるかは分からない。
その時が来なければ分からないのだから…。
人生そのものがまるでギャンブルのようなものなのかも知れない。
勝つか負けるか…生きるか死ぬか…。
旅のさなか常々思わされたのは「今日も生きていてよかった…」ということ。
そして「明日も生き延びられますように…」
そう思うのが自分にできるすべてだった。
さらには、その翌日も与えられた命を使って、必死で生きて走って旅をするのが自分自身の務めだった。
今日死ぬか、明日死ぬのか、明後日か…。
戦争を経験した人たちからそんな言葉を聞いたことがある。
村上春樹が言った言葉「死は生の対極ではなくその一部…」は、あながち嘘ではなさそうだ。
生まれた時から、死は僕たちの中にオプションとして組み込まれているということか。
だとしたら、仮にこの生が終わったとしても、この魂は来世でもきちんとその役割を果たしてくれることを願うばかり…。
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生きているうちはたらけるうち日のくれぬうち
---相田みつを
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人生の中間地点はとうに過ぎてしまっているんだろうけれど、まだまだ先はあると思っている。
でも、そんなことを言ってる場合でもないのかも知れない。
今できることを必死でやっておかないと、後悔ばかりが先に立つ。
過去にできなかったことが、今の後悔になり、未来の失敗につながっている…そういったことも頭に叩き込んでおかないといけないんだろうな…。
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あなたが虚しく過ごした
今日という日は、
昨日死んでいった人が、
あれほど生きたいと願った明日。
---趙 昌仁(チョ・チャンイン)『カシコギ』より
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臓器の移植は現代の医学で可能かも知れないが、命の移植はできない。
失われた命を誰かに譲ることもできないし、誰かから命をもらうこともできないのだ。
自殺しても、事故に遭っても、誰かに殺められたとしても、すべてこの世から消えたが最後、命は元の肉体には戻らない。
自分自身に与えられたひとつの尊い命…生きるということは、その命のありがたさや価値を、一生懸けて味わい尽くすということなのだ。
あと何年、何日生きるとしても、死ぬまでは自由に使えるこの命…大切にしよう。
魂が悦ぶ人生を送ろう…。