2020年春のきもち〜農耕接触と自祝生活
あっという間に新緑が眩しく輝く季節。ダウンを着込んでいた頃から始まった、新型コロナウィルスの感染拡大による影響は、今も続く。
今年ほど密度の濃い春はこれまでにあっただろうかと思う。
この3ヶ月、まさか、このような現象が世界中を取り巻くとは。
そして、今もなお、私たちはパンデミックの最中で見えない未来を遠くに感じながら、日々を生きている。
一人一人の生きている環境や立場で今回のパンデミックの体験は全く異なっているのだろうと思う。
私は3月に企画していたハワイでのプログラムから戻り、14日間の自宅隔離の後、そのまま緊急事態宣言に従い、対面を伴うセッションやイベントの活動は休止。自宅と国立の街の中で、この春を過ごした。
実際は、経済活動がぱったり止まったので、個人的にも、社会的にも大変なことは確かにあるのだけれど、感覚的にはそれ以上に大事なことを体験しているように思う。 見事にあらゆるところが「止まり」、「距離」を置き、自分の周りには「安全」なエリアを確保する日々。このことで当然ながら、より、自分の内側に意識が向いていく。予定もなくって時間で動く必要もなくなり、「今、感じていること」に止まる時間が圧倒的に増えた。
朝、目覚めてすぐに太陽を浴びに散歩に出かけるのが日課となり、ご近所の庭先の花がどんどん開き、「のびる」や「よもぎ」が美味しそうに生えているのを発見しては、摘んできて食卓に添えたり、街路樹の枝に出てきた新しい葉っぱが朝陽に照らさ れて輝く瞬間に心が震えたり・・・
こんなに自分が住んでいる環境に意識を向けたことはなかったな〜と感じる。また、家に長くいる分、お掃除も行届き、住み始めて3年目のこの家にこんなにも滞在し、手をかけたこともなかった と、反省しつつ床を磨く。
自転車で15分ほどのところにあるコミュニティ農園のグループに収穫専門で参加していて、これまでは主に夫の領域だったのを、この間は、度々一緒に訪れては野生のルッコラを収穫したり、お弁当を広げたり。
シンプルに、土に触れると体がほ っとするのを感じてる。
そして、今年もこんな中でもお米作りはデフォルトで、千葉の田んぼにいけない今、自宅の駐車場のスペースで擬似田んぼを作り、そこで今年の種を播き、育苗し始めた。
さらに、やってみたかった
EM生活も遂に始めることができ、生ゴミの発酵肥料づくりで小さな循環が生まれつつあることに
ふつふつと喜びが湧いてきている。
農耕接触と自祝生活。
これは友人から教えてもらった当て字だけれど、まさに我が意を得たり!
生きるために、必要なことってとてもシンプルなんだと改めて体感中。
それは、活きた「繋がり」を取り戻すこと、特に私たちと大地との直接的な繋がりを。
農園や田んぼでなくとも、どんなに小さなスペー スでも良いし、街の中にある公園にも十分ある「土」に触れることは、そこにある見えない菌たちとも触れ合い、ウィルスとの共生という意味でも大切なのではないかなと思ってる。
危機に面した時、私たちの中にある生き物としての「野生=命の種」が動き出し、生きる本能を突き動かすのだと、聞いたことがある。
大地との繋がりを通して、その種が発芽することが、私たちの身体を十全に調えてくれるように感じる。
それは、本来に戻るという感覚で。
そして、それが、何よ りこの地上で肉体を持って生きる自分を祝福することなのかもしれない。
しばらく前から変容の時を迎えているといろんな場面で言われてきたけれど、このような形で、また、こんなスピード感でやってくるとは夢にも思わなかった。
また、ウィルスという目に見えない小さな存在を相手に、世界中の人々が同時にそれと対峙する体験をするとは。
そして、これほど多くの命が召されるとも。
私たちが体験しているこの変容のプロセスは、きっと、私たちの人類としてよりよくこの地球に暮らす豊かさへと向かうものになると信頼している。
少なくとも私は、そう歩めるように選択していきたい。
それが、この春、パンデミックにより、次の世代に命のバトンを渡した年配者達や、若くして命を落とされた方への敬いを手向けることになると祈りながら。
この変容の先にある「新しい物語」は、実は、新しいというよりは、そんな本来の私たちの力を「思い出す」物語なのかもしれない。
安心して、かつてのように触れ合えるまでには、少し時間がかかりそうだけど、農耕(土壌)接触と自祝生活の中で引き続き、その物語を少しずつ綴り始めていこうと思う。