「つくね小隊、応答せよ、」(八)
「久や、久、これ、久蔵、こっちよ」
「え、ここ人んちじゃないの?」
「うん、人様のお店じゃよ」
「え?入ってもいいの?」
「ここはね、わしが奉公に来とったからね、みいんな顔見知りなんよ」
「ふうん。あれ、お庭に神社がある。このお社、なに?」
「このお社はね、わしが奉公しとる時、毎日欠かさずお参りしとってね、お守り頂いとったんよ。こうやって年取っても、健康で歩けるのは、ここの神様のおかげだと思っとるんよ。だからね、久、おまえも、お守り頂こうと思ってね、さ、久蔵、おまえも手を合わせない、ご挨拶しない」
6才の久蔵は、祖母のマツの横にならび、お社に向かって手を合わせ、小声で挨拶をする。
「こんにちわ。昨日、東京から来ました。僕は、しばらくこっちでマツばあと一緒に暮らすそうです。海がきれいなとこで、すごいなと思いました」
マツは、横目で久蔵をちらりと見下ろして「ちゃあんと自分の名前ば言いなんさい」と注意する。久蔵は名前を言っていなかったことを思い出して、改めて挨拶をした。
「こんにちわ。昨日、東京から来ました。しばらくマツばあと一緒に暮らします。海がきれいで嬉しかったです。僕は、東京の、仲村久蔵です」
久蔵は深くお辞儀をした。
小さなお社が、一瞬きらりと光ったように見えた。
マツは、店の者に声をかけて、しばらく世間話をしている。
その間久蔵は、この屋敷の障子や戸の隙間から見える店の中を覗いて時間をつぶした。
地面にいくつか、黒い水溜まりのようなものがある。そこに大人が白い布を浸け、引き上げて絞り、藍色の布にして乾かしている。そうやって職人たちが何人も、熱心に作業をしている。
久蔵は、大人たちが働く様子をどきどきしながら見つめていた。
世間話が終わり、マツが店の敷地を出た。久蔵はマツの手を握り、家路をゆく。
夏の夕。
山際に夕日が沈んでゆく。
青田の田中の小道、ふたりで歩く。
ひぐらしが鳴き、村の人々が、挨拶をして過ぎ去ってゆく。
どこかの家が風呂を沸かす薪の匂い。
どこかの家の夕餉の香り。
「ねえ、さっきのお店はなにするとこなの?」
大人たちの真剣な眼差しを思い出しながら、久蔵がマツに訊く。
「藍染、染め物をしよるんよ」
「あそこでマツばあも働いてたの?」
「掃除やら、片付けやら、あとは荷物を運んだり、お客さんの取り次ぎをしたりしとったよ」
「ふぅん、あ、さっきね、あのお社がね、光ったように見えたよ」
「あら、そうね、わしも久ぐらいの年にあそこにお参りした時にね、あのお社がきらりと光ったように見えたことがあったよ、久蔵、あんた、金長さんに気に入られたんかもねえ」
「金長さんって、誰?」
仲村の顔に冷たい水が当たる。
目を開けると、顔の前には密林の隙間の白い空。
顔にぽたぽたと水が落ちてくる。
ああ、俺は、今、日本にはいねえんだった。戦争しに来てるんだった。
仲村は起き上がる。
他のふたりも、目覚めたようだ。
強い雨が、降っている。
南国の密林は広葉樹林。傘のような大きな葉が沢山連なり、森を覆う。大粒の雨が、その上にまんべんなく降り注いで、数万の小さな太鼓を叩くような音をたてている。
ぼたばたたたぼたたたぼぶぶばぼたたたぶたたぽた
ぽんぽたぽたぽたぷたぽたぷんぽたたたぷんぽた
3人は、国防色の帽子や軍服、そして茶色の靴を脱いで、裸だ。無言で空を見上げ、気持ち良さそうに体を洗う。
川や池や海は、森の開けた見通しの良い場所に位置しているので、おいそれと水に入り、体を洗うことはできない。それは、敵に「ころしてください」とお願いしているのと同じ事だ。
そしてこの島の水辺には、ワニが多く生息している。敵兵が見当たらないからと、水辺にうっかり足を踏み入れようものなら、静かな水面が突然大きくうねり、4、5メートルほどのワニたちが食らいついてくる。運が良ければ、手足を失い、運が悪いと、命を失う。
3人は、苔むした岩影で、雨水を飲み、雨を浴び、呆然と、気持ち良さそうに水を浴びる。
屋根、布団、風呂、ちゃぶ台、畳、清潔な服、酒、家族。
それらの心地よいものから切り離され、ほとんど動物のような暮らしを、数ヵ月も続けている。服を脱ぎ、銃を置き、肉食動物や敵兵がいない場所で雨を浴びるだけで、とんでもない贅沢をしているように、3人は感じている。
「東京の生まれた家の近くにさ、銭湯があって、よく、女風呂、覗きに行ってたんだよなぁ、懐かしいなぁ」
仲村が空を見上げながら、しみじみと懐かしい顔をしている。体を洗いながら、銭湯での記憶を思い出したようだ。すると眼鏡をはずしている清水も、なにかを思い出したようだ。
「いいな、そういう、子供のころの思い出は。俺はさ、小さい頃、ありゃ8才ぐらいで、親戚が泊まりに来た時かな。親戚の姉さんに風呂にいれてもらったことがあったんだよ。その姉さんの家族は大家族だから、弟や妹と風呂に入るなんて普通のことだったんだろうけど、一人っ子の俺にとっては衝撃でさ。いやぁ、あれは、いい思い出だなぁ…」
清水がにやにやしながら、空を見上げて回想している。渡邉は無口に微笑みながら、ふたりの話を聞いている。
「学徒よ、いいよなぁ、そういう少年ならではの思い出」
仲村がまたしみじみと言う。清水が体を拭き、服を着ながらさらに訊く。
「で、子供のころ、その銭湯覗いてて、なんか面白い事でもあったのか?」
「え?子供のころ?」仲村がきょとんとする。
「え?銭湯、子供のころに覗いてたんだろ?」清水もきょとんとする。
仲村が首を振って、当然のことのように言う。
「いや、子供の頃は銭湯なんて覗いてないぜ?覗いてたのは、大人になってからだよ」
「…いや、仲村おまえな、大人になって覗いてんならただの犯罪だろうが。なにしみじみ犯罪を自白してんだよ…。あれ、そういえば、仲村は東京なのか?満州じゃねえのか?」
「あ、うん。生まれは東京。で、育ちは阿波。それで、12でまた東京へ戻って、そして20で満州に渡って働き始めた。で、あっちでちょっと体壊してさ、東京戻って入院してて。で、完治したころに赤紙が来て。で、ここに来たってわけ」
服を着終わって、岩影の雨の当たらないところに腰かけていた渡邉が仲村の話に興味を持った。「ほう、仲村、満州にいたのか。あっちでは何やってた?」
清水は着替え終わり、渡邉のとなりに腰かける。仲村はまだ裸のまま雨を浴びている。
「あ、俺の、軍服の胸の隠しのとこによ、写真が入ってる。それ見てみろよ」仲村は自分の軍服のポケットを指差す。
渡邉がそばにあった仲村の軍服のポケットから、一枚の写真を取り出した。
セピア色の写真には、今よりも少し若い仲村が写っている。そしてその背後には、濃紺に光る流線型の蒸気機関車。仲村は、油で所々黒く汚れた灰色の作業着を着てレンチを握って腕を組み、にんまりと機関車の前に立っている。
「おい、あじあ号じゃねえか…満鉄にいたのか、おまえ」
渡邉が少し興奮し、嬉しそうに言う。清水も目を丸くして、渡邉と同じ嬉しそうな顔をしている。
日本が中国北東部に興した国、満州国にある南満州鉄道。
その満州鉄道を走る濃紺の「あじあ号」は食堂車や豪華客室、エアコンを備えた近代的な機関車である。
あじあ号は、新京から大連間、約700キロの区間を、最高時速120キロという速度で走り、その距離を8時間半で結んだ。一般的な機関車の平均時速が、30キロから、70キロだったのに比べると、「あじあ号」がいかに時代を先取りしたすばらしい列車であったのかがわかる。
「まあね。機械いじりが好きで、東京で満鉄の募集があったからさ、技術面接を受けたんだよ。そしたら運よく合格して、満州に渡り、整備士になったと、そういうわけなのよ」
「ほぉ、すげえなぁ、じゃあ、もしこの戦争が終わったら、おまえが帰りたい場所はどこになるんだ?」渡邉が柔らかい笑顔で仲村に訊く。仲村はかなり悩んで答える。
「え?あ、そうだよな。戦争は、そうだよな、…終わるんだよな、いつか。そうだなぁ、まあ、帰りたいっていうか、俺はあじあ号の整備してる時が、一番誇らしかったな。ネジ一本が、お客の命を支えてるって思うと、気の抜けない仕事だったけど、まあ、あじあ号に触れたことがない奴らに言ってもしょうがないんだけどさ、あじあ号はさ、すごくべっぴんなのよ。ほら、見てみろよこの曲線。まるでほら、お椀型の女の乳みてえな、丸みのあるこの車体。これがよ、空気をやんわり押し開いて超特急で進んで行くのよ。そしてよ、食堂車のロシア娘さまのウエイトレスさまもべっぴんでよ」
「いやもうそれぜんっぜん車体関係ねえじゃねえか。ただのロシア娘じゃねえかよ」清水がすばやく抗議する。
「じゃあ、満州か?帰る場所」と、渡邉。
「満州に帰りたいってより、あじあ号を整備していたいっていう方が気持ち的には近いかな。帰りたいのは、阿波だな。おれ、6才から12才まで、ばあさんに育てられたんだよ。阿波のばあさん。マツって言う名だから、マツばあって呼んでた。今朝さ、俺、夢を見てたんだよ、6才の時の阿波の思い出。ああいう夢をさ、見ちまうとさ、あれだよな、さみ、しいよ、な」
仲村は黙って、そっぽの岩肌を向き、眺めた。
清水も、渡邉も、うつむいた。
ふたりも、同じような経験がある。
内地での夢を見てしまって、幸せな気持ちで目覚める。けれど、現実は悲惨な戦争の真っ只中。とてつもなく寂しく、悲しくなる、そんな目覚め。
「あ、そうそうそう、それでよ、俺、阿波ではよそ者だからさ、よくいじめられたんだよ。とうきょうもん、とうきょうもんって。で、ばあさんが子供のころにお参りしてたお社があってさ、俺もいつしかそこに行ってお参りするようになったんだよ、いじめられると、そこに行って、たくさん泣いて、そして、けろっとして家に帰る」
「子供がお社って、やけに信心深いなぁ、で、なんだよ、そのお社って」渡邉が自分の髭をさわりながら質問した。
「俺もさ、マツばあに聞いたんだよ、このお社なんなの、って。そしたら、ばあさんが話してくれた話があるんだよ。聞きてえか?」
清水が足を組みながら、是非聞きたい、と前のめりで答え、渡邉は仲村を見ながら何度も頷いた。
現実が重く、硬く、苦しすぎる時ほど、人は別の世界のことを話したがる。人は、うまく作られている。暗闇のなかに、埋没しすぎないように、明かりの灯る方へ目がいくように、うまく作られている。
仲村が、語り出す。