「つくね小隊、応答せよ、」(最終話)
東京から汽車に乗り継いで、駅で降りる。
ここから渡邉の食堂へは、路面電車だと20分ほどだが、電車は国の燃料不足で稼働していないらしい。1時間以上歩いて街へと向かい、3人は城下町へ到着した。
懐かしい城下町は、空襲を受けていなかった。
戦前ほど活気があるわけではなかったが、各家の庭には、野菜が実り、そして軒先で芋や野菜を干している。懐かしい故郷の景色だった。
その景色を眺めていると、思いの外、ほっとしている自分がいることに、渡邉は気づいた。
「ありゃ、道雄ちゃん、無事やったんかね?」
食堂「子狸屋」も無事だった。
店の前に立つと、となりの道具屋のおばちゃんが話しかけてきた。道雄は帽子を脱いで、頭を下げて挨拶をする。
「はい、恥ずかしながら、戻ってきました」
「なあに言ってんだよ、せっかく戻って来れたんだ、いいことじゃないか、ありゃ、そちらの方は?」
「石橋摩理さんと、寿郎です。引揚船で一緒だったんです」
「一緒って、夫婦になったってことかい?」
「え、いや、その、違いますよ。その、引揚船で、その一緒に帰ってきて、そして、彼女は日本には身寄りがなくて、住むとこもなかったので、その、もしうちがまだ無事なら、住むところだけは提供できると思って、はい、その」
道雄がしどろもどろにそう答えると、摩理が、はきはきと丁寧に説明した。
「石橋摩理と申します。南方に家族で居たのですが、引き揚げてきました。東京の実家も焼けていたので、こちらに少しの間居候させていただきます。どうぞなにとぞよろしくお願い致します」
「まあ、そうかね、疎開みたいなもんじゃね。石橋さん、よろしくね、あ、そうそう二階も一階も、道雄ちゃんが居ない間、ちゃんと掃除したり、風通したりしといたよ。うちのサキばあちゃんがねぇ、子狸屋は守らんといかん、ってうるさく言うもんでねぇ、自分はしないくせにねぇ、ったくもう、あ、でも布団は、干したりしてないよ。もう、3年くらい前のもんだから、使えないかもだわ。あ、うちの、座布団でよかったら、使うかね?あ、はい、これ、裏口の鍵」
となりのおばちゃんは、渡邉に鍵を手渡した。渡邉は鍵を握りしめ、頭をさげる。
「おばちゃん、いろいろしてくださって、本当にありがとうございます。お礼はいつか必ずしますので」
隣のおばちゃんは、にこにことして頭を下げ、手をひらひらさせて自分の家に入っていった。渡邉は、裏口の鍵をあけ、表から店に摩理と寿郎を通した。数年ぶりに、子狸屋の戸が開く。
摩理と寿郎は、店に入り、店を見渡した。
渡邉は家中の窓を開ける。
懐かしい匂い。
懐かしい窓からの景色。
懐かしい食堂の卓。
懐かしいものだらけだった。
自分は、この懐かしい家にたどり着いた。
死ぬつもりで家を出たけれど、生きたままここにまた、たどり着いた。
二階の窓から、城下町の通りを眺める。
秋の日差しの、柿色に柔らかく照らされる通りが、とても美しかった。
人々が挨拶をして、そこかしこから話し声が聞こえる。
みな、粗末な身なりをしていて、全員が一様に貧しかったが、遠く離れたこの窓からでも、人々の笑顔を見ることができた。
その通り沿い。窓の右奥の遠く離れた場所に、立派な門構えの家が見える。
花石甚の家だ。
おそらく、潜水艦 翠龍が沈んでも、誰もそれを記録するものはいないだろう。そうなれば、両親は、ずっと花石の帰りを待ち続けることになる。
渡邉は、雑嚢の中の拳銃に、雑嚢の上から触れた。息子が、死んでいるのか、生きているのかわからずに、ただ毎日その知らせを待ちながら暮らす。そのことがどれだけつらいことなのか、渡邉には想像ができなかった。
押し入れを開き、中をあさる。そして、きれいに畳まれた、紫色の風呂敷を見つけ、取り出した。そして雑嚢の中の、十四年式拳銃を丁寧につつむ。
渡邉は、階段を下りた。
「石橋さん、俺、ちょっと外に出てきます。
裏に井戸があります。飲み水はそこです。2階はここの階段から上がってください。布団の確認を、お願いします」
「あ、承知しました。使えるお布団があったら干しておきます。お気をつけて」
渡邉は、食堂で佇んでいた摩理に会釈をして、店を出た。
けれど、店を出たとたんに足が動かなかった。
摩理が心配そうに渡邉のそばに来る。
「どうされました?気分でも、悪いんですか?」
渡邉はうつむいたまま、風呂敷を握りしめる。
「いえ、ちょっと、怖いだけです。でも、なんでもないです…いってきます」
「なにをしに行くんですか?」
「戦場で子どもが亡くなったことを、その両親に伝えに行きます。これは、俺の幼なじみの、遺品、なんです」
摩理は小さく息をのんで、五ミリほど後ずさった。
もし自分が、息子の死を人に伝えられれば、どれほど取り乱すのか容易に想像ができた。渡邉は、その重荷を背負っている。
「あ…はい…あの、渡邉さん…気を付けて、行ってらっしゃい…」
「はい、いってきます」
渡邉は振り向かずに店をあとにした。
門の前に立ち、息を整えてから、一歩踏み出した。
そして、玄関でも、息を整える。
どんな顔で挨拶すればいいのだろう。
どんな喋りだしで、伝えればいいのだろう。
渡邉は、しばらく立ち尽くし、そしてゆっくりと、戸を叩いた。
誰かが廊下を小走りで走ってくる音がする。
「はあい。少々おまちください」
甚の母の声だ。
引き戸ががらがらと開くと、背の低くなった、懐かしい顔があった。
色白で、目尻の笑いシワが印象的な、柔らかい顔つきだ。
「あら!誰かと思えば、道雄ちゃん!おかえんなさい、道雄ちゃん」
母は、渡邉の軍服の胸のあたりを何度も優しく叩いて、泣き出しそうな顔をして喜んだ。
渡邉は、涙をこらえ、奥歯を噛み締め、笑った。不自然な、笑顔だった。
「おばさん、ただいま。お元気そうで何よりです。それで、その、おばさん、今日はおじさんは、いますか?」
「うん。いるわよ。ちょっとまって、今呼ぶわね」
「いや、あの、おばさん…大事な話なんです。あがってもいいでしょうか」
「もちろん!いいわよ、さ、あがってあがって、あなたあ、道雄ちゃんよ!支那から戻ってきたわ!」
そして渡邉は、中庭に面した客間に通された。
店に戻ると、摩理が厨房に立ち、鍋の中の汁の味見をしていた。
「あら、おかえりなさい。あの、お布団は干しておきました。多少かび臭いですけど、船底に比べたら雲の上のような寝心地だと思います。
あ、あとそれと、さっきお隣さんが、味噌とさつまいもの茎を持って来てくれました。さつまいもの茎はアク抜きして、お味噌汁を作っておきました」
「ありがとうございます」
渡邉はそう言って、どさりと食堂の椅子に座り、紫の風呂敷を、卓の上に置いた。
ごとり、という重い音が食堂に響く。なかには十四年式拳銃が入ったままだった。
摩理が首をかしげる。
「あ…ご両親、お留守だったんですか?」
「いえ。ちゃんといましたよ」
「でも、そちら、幼馴染みの方のご遺品だったんですよね?お渡しして、お話できなかったんですか?」
「はい。ちゃんと…しました…」
渡邉は両親と会って、話をした。
けれども手元に、遺品はある。
その不思議な状況に摩理は首をかしげた。
けれど、渡邉は疲れきっている様子だったので、摩理はそのまま味噌汁を椀に注ぎ、渡邉の前に、箸と共に出した。
寿郎と摩理も、同じ卓に座る。
寿郎が勝手に食べようとすると、摩理はそれをたしなめた。
渡邉が、味噌汁に手をつけるまで、食べないつもりだ。
渡邉はうつむいたまま、味噌汁を眺める。
「この形見、あ、中身は拳銃なんですけど、おじさんと、おばさんは受け取って、くれませんでした…いや…受けとりませんでした…」
「え、なぜですか?息子さんの形見なんですよね?」
「はい。そうなんです…受けとりませんでした」
渡邉は、花石家の屋敷の、中庭に面した客間に通された。甚の父は、着物をきれいに着て、渡邉の向かいに座り、そのとなりに、母が座る。
「道雄くん、よく、帰ってきたね」
甚の父は、にこやかにそう言った。
「はい…恥ずかしながら、帰って参りました」
渡邉がそう言うと、少しだけ笑顔に厳しさが混じりながら、甚の父は言った。
「生きて帰ってくることが、恥ずかしいだなんて、思わなくていい。それが恥なら、長寿なんて祝わなくてもいいんだからね。道雄くん、立派に戦って、生きて帰ってきた。立派だよ」
渡邉は、頭をさげた。
そして、言いにくそうに、言葉を続ける。
「ありがとうございます。あの、それで、おじさん、おばさん…話しがあるんです。甚の、ことです…」
渡邉は、南方の島で米軍と戦い、艦砲射撃で死を覚悟していたところを、潜水艦に拾われ、そしてその潜水艦の艦長が甚だった、という話をした。
そして、畳の上で風呂敷を開き、十四年式拳銃を、両親の方へ差し出した。
「甚に拾われた俺と仲間の二人は、2日後に潜水艦を降りました。潜水艦を降りる前、これを甚から預かりました。
もう、潜水艦を動かす十分な油はなく、この船は、沈むだろう、ということでした。敵と刺し違えて、沈んでやる、と甚は笑顔で、言いました。これは、あいつに託された、あいつの、甚の、形見、です…」
両親は、微動だにしなかった。
とっくの昔に、覚悟などできていたのかもしれない。
父親は何度か頷いて、話しはじめた。
「道雄くん、ありがとう。
知ってのとおり、うちは庄屋だった。江戸の始めより、この国の民から米を集め、藩に納めるお役目だ。だからこそ、藩や民からも信頼されていた庄屋の歴史に泥を塗るようなことは許さん、と祖父からも、父からも、ずっと教わってきた。だから、甚にも、同じように教え、伝えてきたつもりだ。自分一人が得をする、そんなことでは信じ頼られるということは得られない。常に人を想え、と、そう教えてきた」
甚の父は、茶を少しだけすする。
「道雄君。甚の潜水艦は、何名搭乗していた?」
「たしか、80名です。甚が言っていました」
「じゃあ、道雄君、他のその二人や君は、その80名の形見を預かったのかな?」
「…いえ。預かっていません」
「じゃあ、甚だけが、道雄君に、形見を託した、と、そういうことになるな?」
「はい。そう、なります」
「道雄くん、あいつは、なんて言ってた?それを、道雄くんに託す時」
「…日本に帰ったら、これをおやじとおふくろに渡してくれないか、と」
「…そうか。道雄君。南方から、これを、道雄や私たち夫婦のために持ち帰ってくれて、感謝している。このとおりだ、ありがとう。感謝する」
甚の父は渡邉に頭を深々と下げ、畳に額をつけた。すると、横の母も同じようにする。そして父は顔をあげて言った。
「その上で、はっきりと言う。道雄君、わたしたちは、その拳銃を受け取れない」
渡邉は、しばらくその言葉の意味を考えた。受け取れない?
「受け取れない?というと、どういうことですか?」
「そのままの意味だ。わたしたちは、それを、受け取らない」
「え…なぜ…ですか…?」
「艦長の甚だけ。
80人のなかのたったひとりだけ。
なぜ甚だけが特別扱いされる?偶然道雄君が乗り合わせたから?艦長だから?じゃあ、残りの80人の、親や子や、妻や妹や、祖父母や兄や姉や弟はどうする?
息子や兄や夫や孫や父の死を知る手だては紙切れ一枚の死亡通知だけなのか?
それは、おかしい。
艦長とは、そういうものではないはずだ。
あいつもそれは重々承知している。
だから、私たちが、それを受け取らないことも、あいつはわかっていたはずだ。
だから、あいつは、たぶん、君にそれを託したかったんだと思う。なにか、意味があったんだと思う。それだけは、言える。これは、君が持っててくれ。
…道雄くん、この大変な時代に、よくぞ、帰ってきた。なあ、また来てくれよ。一緒に、酒を、のもう」
渡邉は、畳の上の、甚の形見の銃を眺めながら、頭をさげて、はい、と答えた。
「だから、渡せなかったんですね…」
食堂で摩理が言った。
「そうです…甚、あいつ…いったいどういうつもりだったんだろう…」
そう言って、銃をさわっていると、空の弾装の隙間から紙切れがはらりと落ちた。
渡邉はそれをつまみ、紙を開く。
そこには、こう書いてあった。
すまん。
おやじとおふくろは、これを受け取らんだろう。
おい、道雄!
俺の分まで、笑え!いきろ!
甚
渡邉は、それを読み、赤子のように泣いた。
寿郎が不思議そうに渡邉を眺め、摩理は、渡邉が手放した紙切れを読み、涙ぐみ、思わず渡邉を抱き締めた。
摩理の味噌汁は、冷めていく。
戦争で男たちは街からいなくなり、いくつかあった散髪屋の男たちは、街へ帰っては来なかった。
摩理は南方では主婦の傍ら、日本女性の髪結いや散髪の見習いをしていたことがあり、近所の子供達の髪を切ってあげていた。すると、やがて大人たちも、髪を切ってもらうために、客が集まってくるようになった。
そして南国の方の生地で着物を何着も仕立てたりしていたこともあったので、針仕事と散髪で、日銭を稼ぐことができた。
そうやって三人で暮らし始めてから半年ほど経つ。
最初はここでの暮らしに不安な様子だった摩理も徐々に馴れ初め、そして寿郎は近所の子らと裸足で毎日駆け回っている。
食料も少しづつ手に入るようになり、食堂も通常通りとは言わないまでも、それなりに営業ができるようになった。徐々にお客が戻ってきて、つつましいながらも生活らしい生活ができている。
ある日、渡邉は、復員庁へ出向いた。
復員庁は、旧日本陸海軍の兵士たちの管理を行う場所で、海外に残留している日本兵の復員のための事務を行っている。
渡邉はそこで、民間人として引き上げ船に収容されたことを申告し、次いで仲村久蔵と、清水忠義について問い合わせた。
自身が派兵されていた島の名前を申告し、そこに駐留していた陸軍部隊の名簿から、二人の名を探してもらう。
「はあい、ちょっとお、お待ちくださいよぉ」
復員庁の職員は、次から次に問い合わせや申告があるので、手慣れた様子で、とてもくたびれていた。国防服の袖は万年筆のインクで汚れ、指先は亀の甲羅のように乾いている。
その指先が、たくさんの名前が羅列された帳簿の中から、仲村久蔵と、清水忠義の名前を探しだす。
仲村の本籍は東京。清水の本籍は長野になっている。
「ありがとうございました」
渡邉は二人の住所をメモした。
「はい、ご奉公ご苦労さまでございました。それではお次の方ぁ」
復員庁を出た渡邉はその足で、仲村久蔵の本籍地へ向かう。
東京、四ツ谷。
このあたりもだいぶ空襲を受けていて、焼け跡にトタンの家を築いて、空き地で野菜を育てている家も目立つが、焼け残った家も多々ある。
住所の書かれた紙切れを睨み、とある神社のまわりを行ったりきたりしているうちに、大正ごろの家だろうか、立派で少し洋風の雰囲気のある家にたどり着いた。家の戸はすべて大正ガラスで、二階の窓はステンドグラスのような装飾が施されている。
「すみません、ここのあたりで、仲村という方の家を探しているんですが」
立派な門の前に立っていると、中から男が出てきたので、すかさず渡邉は声をかけた。
「わたくしが、仲村ですが」
そう答えたのは、小太りで眼鏡、髭を蓄えた初老の男性だ。
これからどこかへ出掛けるのか、きれいな仕立ての背広を着ている。
「仲村久蔵さんについて、お伝えすることがあって、参りました」
「あ、そうですかあ」
男はあっけらかんとした様子でそう答える。反応があまりにも薄かったので、渡邉は不安になった。
「失礼ですが、ご家族の方ですか?」
「あ、はい、父です」
男は少しだけ体を固くして、ちらりと腕時計を見た。
「わたしは、南方で、仲村久蔵君と一緒に戦っていた者です」
「はい」
あっさりとした返答だった。表情の変わらない金魚に話しかけ、ただぷかぷかと口を動かしているだけかのような、伝わっているのか伝わっていないのかわからない、不思議な空気だった。
けれど、仲村久蔵の、最期の瞬間を見届けた者として、語る義務がある。渡邉は、粛々と語り出す。
「仲村君とは南方で、ともに闘いました。彼は、とても仲間思いで、」
「死んだんですか?」
父親が、話を遮って質問した。
「え、あ、はい、残念ながら。敵に囲まれる中」
渡邉が質問に答えると、さらに父親は話を遮った。
まるで新聞の勧誘を追い払うかのような、そんな軽い対応だった。
「あ、いや、うちは、ああいうのは、はい、別に、あの、恩を仇で返すようなやつはね、あのね、いいですよ、ごめんなさいね、あの、申し訳ないんですがね、あの、ご足労本当にありがとうございました、あの、お引取り、ください」
そう言って男は、一礼し、表通りへ向けて歩きだした。
あまりにも唐突だったので、渡邉はただ男の背中を眺めるしかできなかった。
そして男は、そのまま一度も振り向かずに、角を曲がって歩いて行ってしまう。
渡邉は帽子を脱いで、頭を掻いた。相手が話を聞くつもりがないなら、もうここにいる必要はない。釈然としない気持ちのまま、さっきの男の物言いに、いまさらながら腹が立ってきた。受け取り手のいない話はシャボン玉のように消えはしない。ずっと心のどこかを漂う。
ふと、家の中を見ると、17才くらいの娘が、縁側に座ってぼおっとしていた。渡邉は、大声を出して娘を呼ぶ。
「すみません。仲村久蔵君と、同じ隊にいたものですが」
娘は酒屋がやってきてきたときのように返事をする。
「あ、はい、久蔵さんね。どうかしましたか?」
そう聞かれたが、十代の彼女に直接、仲村の死の様子を伝えても良いものかわからない。
「久蔵君の、お母様は、今どちらに?」
「母は、昨年の空襲で」
娘は、自分の星座を言うみたいにさらりと唇から言葉をもらした。
渡邉は、目をそらし、それはおきのどくにとかなんとか、それらしい言葉のようなものを呟いた。
なんとなく、理解できた。
この家族にとってみれば、とうの昔に家を出て満州へ行き、そしていつのまにか出兵していた、血のつながらない厄介な家族のことに、心を使っている暇はないのだろう。そういうことよりも、他の大事なことが、彼女たちの心を占めている。彼女たちの“いま”がすでに始まっている。
「で、久蔵さんがどうかなさったんでしょうか」
丁寧な物言いだが、その言葉には温度がない。まるで化学式を言うように無機質に感情がこもっていなかった。
若い娘に伝えるべきか迷ったが、親族に仲村久蔵の最期を伝えるためにここに来た。渡邉は肚を決める。
「仲村久蔵君は、立派に戦死されました。南方の半島で敵に囲まれるなか、」
娘は、話の途中で、声高らかに、そしてとても上品に笑った。
「お兄さん!面白いですね!」
その反応に渡邉は眉を顰め首を傾げた。
「戦争に負けたのいつの話だと思ってるんですか?去年ですよ?それを、今さら、立派に戦死だなんて!」
娘は両手で口を押さえ、笑いをこらえる。
「それに、そんな意味のない言葉、誰が今更信じると思います?立派に戦死だなんて。どうせあの人のことだから、こそこそ逃げ回って、惨めな最期だったんでしょう?」
娘の笑顔はどんどん失われ、最後は石のような無表情な顔で遠くを見つめながらそうつぶやいた。
確かに、立派に戦って戦死したのは嘘で、同じ日本人に殺されただけだ。立派な戦死とは言えない。ただの殺人の被害者だ。
しかし、仲間を守ろうとして身を挺したことは、誰にも真似できることではない。それを笑われたようで、怒りがこみ上げてきた。奥歯を噛み締め、娘を睨む。娘はそれに気づかず、詩を朗読するように、他人事のようにつぶやいた。
「わたしもぉ、しねばよかったぁ」
娘の眼と唇は、うつろだった。
彼女や父親に仲村のことを話してもしょうがない。ちゃんと伝えるべき相手に、仲村のことを伝えたい、渡邉はそう思った。
「すみません、阿波の、久蔵さんの、おばあさんの、住所、教えていただけ、ないでしょうか」
すると娘は、突然立ち上がり、怒ったように家へ入って行き、ぴしゃりと戸を閉じた。自分の言葉を無視されたことに腹を立てたのかもしれない。
これで、仲村のことを聞いてくれる親族の手がかりは途絶えたことになる。もういよいよ完全に、ここにいる理由はまったくない。
渡邉は、ため息をついて帽子を脱ぎ、地面に叩きつけたい気持ちを抑え、その頭を門の前で下げて、踵を返した。
「ちょっと、ご自分で住所を訊いておいて、どちらへ行くおつもりですか?」
頭上から娘の声がした。
見上げると、ステンドグラスの窓を開け、娘が顔を出している。
「あの、ちょっとよろしいですか」
娘はいらついた顔つきで渡邉を見下ろし、睨む。
「あの人のためなんかに、なんでここまで来ようと思ったんですか」
渡邉はその質問に対して深く考えてみたが、なにも答えはでなかった。いつも、理由というものはあやふやで、そしてつきつめてゆけば、すべて後付けだ。
「仲間、なので」
渡邉の口からは、ただその言葉だけが出た。
「あ、そうですか。あの、戦友だか友情だか知りませんけど、そんなもんが大事なんだったら、もっともっと命をはって戦って、ちゃんとB29、落として、くれれば、よかったのにっ」
娘は、紙切れを投げてよこし、ステンドグラスをぴしゃりと閉じた。
紙切れを拾い、広げてみると、徳島の住所が書いてある。仲村久蔵の祖母の住所だ。
渡邉が窓を見上げると、そこには最初から誰もいなかったように、美しいステンドグラスが閉じてあった。
東京から阿波へゆくには、汽車と船で2日はかかる。
渡邉は、このまま清水の実家の長野へ向かうことにした。
渡邉の小脇には、清水の缶詰が、雑嚢にくるまれていて、汽車が揺れるたび、かたかたと小さな音をたてた。
乗客たちは、みな黙って窓の外を眺めたり、自分の手のひらを見つめたり、ただ床を見据えたりしている。戦争が終わってまもなく一年になろうとしている。けれども、戦争が終わったからといってさまざまなことが解決するわけではない。死んだ家族は戻って来ないし、焼けた家は元通りにはならず、失った仕事や手足も、もとには戻らない。
汽車の乗客たちは生きているが、全員がなんらかのものを失っている。
渡邉も、窓の外を眺めた。
汽車の黒い煙が、過ぎ去る景色の方へ、流れてゆく。
長野駅から電気鉄道へ乗り換え、1両編成の電車で駒ヶ根駅へと向かう。
駒ヶ根は、東と西を高い山脈に囲まれた山あいの盆地だ。駅からしばらく歩くと、メモの住所に到着した。
清水の生家は、立派な瓦屋根の家だった。
まわりは青々とした葉が繁るりんご畑に囲まれていて、遠くには夏だというのにうっすらと雪をかぶった山々が見えている。蝉がけたたましく鳴いているが、りんごの木々の間を吹き抜けてくる風は心地よかった。
渡邉は玄関の戸を叩いた。
奥から、手を拭きながら白髪頭に無精髭の男が出てきた。
「はいよ、なんぞお、ご用ですかね」
すぐ目の前に立って、その男は額の汗を拭う。
「わたくし、渡邉道雄と申します。
南方で、清水忠義君と一緒に戦っていた者です。失礼ですが、お父様ですか?」
「そうやけども。何の用ですか一体。忠義は、どこですか?」
父親は、怒ったようにそう訊いた。
渡邉は、申し訳無さそうに答える。
「忠義君は、南方の島で、壮絶なる戦死を、遂げられました」
「戦死?忠義が?」
「はい。そうです」
「あんた、何者ね?上官か?」
「いえ、上官ではありません。一緒に戦っていた、渡邉道雄と申します」
「あんたの階級は?」
「上等兵でした」
「それやったら、上官だろうが。骨は?証拠は?あいつが戦死した、その証拠はあんのか?おい、まさかお前、おい、てぶらか?」
渡邉はゆっくりと首を振り、苦い顔つきで返答した。
「骨は、持ち帰れませんでした。申し訳、ございません」
すると父親は渡邉に掴みかかって大声で喚き散らし始めた。
「はあああああ??な、なにが、骨も持って帰ってこんで、ななな、何が戦友か!何が上等兵か?ちゃんと連れて帰ってこい!忠義を、ちゃあんと連れてかえって来い!信じられるか!信じられるわけないだろが!帰れ!貴様!人を舐め腐るのもたいがいにせえ!おい!なんとか言え!おい!」
「も、申し訳ありません。あの、こちら、忠義君から預かったものです」
渡邉は父親に揺さぶられながら、雑嚢を必死で突き出した。父親は雑嚢を視野に入れながらも、それを見ずに、さらに必死で渡邉に掴みかかり、揺さぶった。
揺さぶられながら、渡邉はいたたまれなくなって、雑嚢を何度も突き出し、息子さんから預かったものです、と言った。しかし父親は雑嚢を一瞥もしなかった。
ただ涙を流しながら、怒りにまみれ、呼吸荒く、渡邉の襟を掴み、激しく揺らした。
しかし、徐々に襟をつかむ力が弱りはじめ、突然糸が切れたようにへたりと座り込み、半笑いで彼はつぶやいた。
「あの、すみません。もう…帰ってください。その中に何が入ってるか知りませんがね、そんなもん、息子が帰ってこんのなら、ゴミくずです。ゴミですよ…だから、どうぞ、そのゴミをもって、どうぞお引取りください」
渡邉はその言葉になんと答えていいのかわからなかった。そっと、地面に清水の雑嚢を置き、少し離れて、地面に正座し、両手をついた。
「この雑嚢の中身は、缶詰です。
忠義くんは、お父さんが土地を売って俺を大学に行かせてくれたのに、俺は何も恩返しができない。今の俺にできるのは、この缶詰を持って帰って、両親と一緒に食べることぐらいしかできないと、そう言っていました。
その雑嚢のなかには、忠義君の思いがこもっています。絶対に、ゴミじゃ、ありません。決してゴミじゃないんです。俺たちは、ひもじい思いをして、もぐらやワニや砂まみれの米や草や虫やミミズを食べて、俺たちは、ひもじい思いをして、それでも戦っていました。そんな中、忠義君は、その缶詰を食べずに、残していたんです。お父さん、これは、ゴミじゃないんです。お父さん!忠義君は…戦死しました」
渡邉の正座する膝の上に、いくつも涙がこぼれ落ちた。慰めの言葉など思い浮かばなかった。ただただ涙がこぼれ落ちた。
父親は、四つん這いになり、わなわなと震えながら赤ん坊のように、雑嚢にすり寄って来た。そして、ゆっくりと、震えながら、雑嚢の中を覗き込む。
さまざまな場所が凹み、変色し、傷だらけになった缶詰が、雑嚢の中に転がっている。
父親には、傷つき凹み変色した金属たちが、清水の遺骨に思えた。
父親は雑嚢をすばやく引き寄せ、それを強く抱きしめ、そして、青空に向かって、大声で泣いた。
青空ではひばりが鳴く。
白く長い雲が、澄み切った湖の水のような空の表面を、撫でるように流れてゆく。
父親は、大声で泣きわめく。渡邉は、正座したまま、悔しそうに、黙って涙をいくつもこぼした。
しばらくして、父親が立ち上がり、雑嚢を抱いて家に入った。
「かあさん、忠義が、帰ったぞ…かあさん…」
渡邉は、清水の家に一礼し、敬礼して、下唇を噛みながら、その場を立ち去った。
りんご畑を歩き、駒ヶ根駅まで向かう。
ひばりが青空で鳴き、心地よい風が吹いている。遠くの山々は頭に雪を被り、雲と雪の白、空の青、山の緑が、まるで浮世絵のようにくっきりとした色合いで美しかった。
缶詰を、摩理と寿郎と三人で分けて食べたことを自白しようと思ったが、あの状態では、ただこちらの罪悪感を払拭したいだけの謝罪になってしまうだろう。
清水が命がけで守り抜いたあの缶詰を、勝手に食べたことは、渡邉だけの心に仕舞い、後悔し続けて行こうと、そう思った。
すると、小さな下駄の音が小刻みに鳴り、それがだんだんと近づいてくる。
そしてその音が、渡邉の背後で止まり、渡邉は振り返った。すると、息を切らしたモンペ姿の女性が後ろにいた。
よく見れば、眼は赤く腫れ、頬は濡れ息を切らしている。その女性は言った。
「あの、わたくし、忠義の、母です。わざわざ、遠いところに本当に、ありがとうございました」
「あ、いえ、その突然押しかけてしまい、申し訳ありませんでした」
「いいえ、滅相もございません。そんなことは、決してありませんよ。それより、夫のご無礼お許しください…あの、お名前は…」
「いえ、許すもなにも…そんな…、あ、俺は、渡邉道雄と申します」
母親は頭を下げ、息を整えた。
「渡邉さん、それで、あの、忠義は、ほんとに、その、あちらで、」
母親が両手を握りしめて不安そうにそう訊くと、渡邉は眉をひそめ残念そうに頷いた。
「そうですか…ああ、そうなんですね…それで、じゃあ、あの、忠義は、苦しんだんでしょうか?」
「あの、本当に聴きたい、ですか?」
「何も、知らないよりも、母として、知るべきだと、そう、思っています」
たくさん聴きたいことがある中で、息子がどのように亡くなり、そこに苦しみがあったのかどうか、そのことが忠義の母の心を一番に占めていた。
渡邉は言葉を選ぶために、慎重に時間を使ってから口を開く。
「忠義君は、…俺を、守ろうと身を挺して、そして、敵兵に、首を、撃たれました。
傷は浅かったのですが、動脈にあたりました。だから、痛みは…少なかったと思います。
意、がなくなる前、その缶詰をお父ちゃんとお母ちゃんに渡してくれと、僕に託しました。必ずわたしてくれ、と。
…清水を、撃ったやつの、仇は、俺がとりました…」
嘘をついた。
清水は食料ほしさに人を襲う日本兵に撃たれた。そして痛みと失血と呼吸困難で死んだ。あぶくの血を吐き、息を苦しそうに何度も吸い込み、その苦しみの中でこの缶詰を託した。
母親は、その話を聴いて、何度もひとりで頷いた。そしておもむろに、清水の雑嚢から缶詰をひとつ取り出して、渡邉に手渡す。
「ありがとうございます、あの、これ、あの子がここに居たら、こうすると思うんです」
彼女の小さな手には、缶詰がひとつ握られている。その缶詰には剥げかかった「軍用赤飯」ラベルが貼られていた。
渡邉は、その缶詰を見つめ、苦い顔つきをした。息子の遺品を勝手に食べたことがわかれば、彼女もいい気はしないはずだ。けれど、それを受け取るわけにはいかない。渡邉は、ゆっくりと、苦しそうに白状した。
「すみません、正直に申し上げると、実は半分…食べてしまったんです…。ですので、そちらは、受け取ることができません…。
日本に戻る、引揚げ船の中で、母子がいて、それで、栄養失調で、死にかけていて…。
その、息子さんから託されたものを、勝手に、申し訳、ありません」
渡邉は深々と頭を下げた。
すると母親は、悲しそうにしながらも、柔らかく笑う。
「そんなこと、黙ってたらわからないのに…」
渡邉は、苦しい心持ちのまま、顔をあげた。人から預かったものを、勝手に自分のものにしていたのだ。彼女からひどい言葉で叱られるのを、覚悟した。
けれども、覚悟した渡邉の顔とは裏腹に、彼女は優しく笑った
「渡邉さんは、真面目な、優しい方ですね。それで、そのお母さんと子どもは、助かったんですか?」
「え…あ、…はい。彼女とは、今は籍を入れて、妻に、そして寿郎は、その子どもは、俺の息子になりました。每日、元気にうるさいほどに、走りまわってます」
「そうですか…じゃあ、忠義は、渡邉さん一家の命も救ったんですね」
「はい。寿郎と、俺と、寿郎の摩理の三人の命を、救って、くれました…息子さんには、感謝しても、しきれま…せん…お母さん、俺、俺が、あいつのこと、忠義君のことを、守れなくて、すいません、でした…申し訳、ございませんでした。ほんとは、あいつ、家族で、缶詰を、食べたいって、そう、言ってた、のに…」
渡邉の涙が、大豆がこぼれるように、乾いた土の上にぼろぼろとこぼれ落ちる。渡邉はそれに構わず、必死で何度も頭を下げた。
彼女は、渡邉の肩に、そっと手を触れた。
暖かかった。
「忠義が、最期に、一緒にいた方が、あなたのような、方で、あの子は、ほんとに、幸せ、でした…息子と一緒にいて、くださって、そして、息子との約束を守って、こんなとこ、ろまで、ちゃんと、運んでくださって、ほんっとうに、ありがとう、ござい、ましたああああああああ」
そう言って母親は崩れおち、息子の名を呼び、嗚咽した。
小さな背中が、更に小さく見えた。
渡邉は駅までの道の途中、寺へ立ち寄った。清水が語っていた昔話の、早太郎のいた光前寺だ。
山門をくぐると、季節が突然変わったかのように静かになる。
ヒカリゴケが苔むし、杉に囲まれた長い参道をゆっくりと歩くと、自分の足音だけが静かな寺に響く。
本堂の脇には、木彫りの犬の像があった。台の上に乗っているので、渡邉よりもはるかに大きい。狒々を三匹倒しただけあって、精悍で猛々しい体つきと顔つきをしている。その像を、渡邉はしばらく眺めた。
この寺に、清水は初詣に来ていたのかもしれない。子供の頃には、この静かな寺庭で遊んでいたかもしれない。
清水がどんな姿で遊んでいたのか、歩いていたのか、渡邉は思いを巡らせた。
狐は、霊犬早太郎の墓と掘られた小さな石塔のそばにちょこんと座る。
「よう」
野太く低い声が、その狐の横で響いた。
横を見ると、早太郎が暇そうに横たわって、遠くを見ていた。
狐はにんまりと笑う。
「お久しぶりです、早太郎さん」
「金長とは会ったか?」
「いえ、金長さんには、お会いしていません。早太郎さんは、お元気でしたか?」
「とっくの昔に死んでんだ。元気も糞もあるかよ」
「ま、そうですね」
渡邉は、寺を歩き回り、木々を見上げたり、この寺の名物であるヒカリゴケを覗き込んだりしている。
「あいつは、大丈夫そうか?」
早太郎が狐に訊く。
一人生き残った渡邉の心情を慮っての発言だ。
「帰ってくる船のなかでもいろんなことがありました。いつか身投げするんじゃないかって、ひやひやしましたけど、今は家族がいて、頑張って、暮らしています」
早太郎は黙って頷いて、渡邉を見つめた。
渡邉は山門をくぐり、本堂に一礼してから寺をあとにしている。
「あ、行かなくちゃ。じゃあ、早太郎さん、わたくしも、これで」
「おう。これから、金長のとこにも行くんだろ」
「はい。おそらく」
「よろしく言っといてくれ」
「はい。わかりました。早太郎さん、お元気で」
「だから、死んでんだから元気も糞もねえんだよ」
「あ、そうでしたね。それでは、また」
「おう、また、いつかな。会いてえな。じゃあな」
狐が姿を消すと、早太郎もぼんやりと消えた。
早太郎のいた場所のヒカリゴケが、うっすらと光を浴び、輝いている。
汽車を乗り継ぎ、船に乗り、また汽車に乗り、阿波の南小松島駅で、渡邉は降りた。
復員兵らしき者たちや、闇市で食料を仕入れてきたらしい者たちや、海産物をリアカーで曳く行商の年よりたちが、駅前を歩いている。その向こうには、小松島の輝く海も見えた。
渡邉は、仲村が語った阿波狸合戦の様子を思い出した。
北側に見えるあのあたりが、金長の敵の大将の六右衛門のねぐらの山かもしれない。
「津山のあな、なんとかの、寺とかって言ってたっけ、あいつ」
仲村の言葉に思いを馳せる。
雨の中、体を洗いながら、仲村が話してくれた阿波狸合戦。艦砲射撃で話は中断され、その番、夜通し彼の話を聞いていたことを思い出す。
「そこでよ、大鷹が津田の四天王たちに言うのよ、最初から勝てるなんて思ってねえ!俺は自分の身の程を知ってるつもりだ!ここで刺し違えるつもりで、俺はここにいるんだよ!ってな!」
耳元で、仲村の活き活きとした声が聞こえたような気がした。
小松島の駅から30分ほど歩いた集落に、仲村の祖母の住んでいる家はあった。田んぼと畦道にはさまれ、昔ながらの茅葺き屋根の家がたたずんでいる。
「すみません。わたくし、渡邉道雄と申します」
「ありゃ?おまはん、お客さんかえ?どうしたん?」
「あの、私は、仲村久蔵君と、南方で、一緒にいた者です」
「南方?」
「同じ隊で、仲村君と一緒に戦っていました」
「ほーえ、わっちは、久蔵の祖母のマツいいます。久蔵は、いまなんしょんえ?呉の軍港かね?引揚げ船やで、どこじゃろ、和歌山え?」
老婆は、仲村が生きて帰ってくることが前提で話を進め、質問をしている。
渡邉はしばらく黙り込んで、ゆっくりと語った。
「仲村久蔵君は、南方の島で、仲間を守ろうとして、壮絶なる戦死を遂げられました」
すると老婆は、渡邉に近づいてきて、あがり框のところに腰掛けるように促した。
もしかすると、耳が遠くて、聞こえなかったのかもしれない。渡邉はそう思って、あがり框に腰掛けながら、もう一度老婆に同じ言葉を言おうとした。
すると老婆は、土間に膝と両手をついて、震えだし、叫んだ。
「信じんよおおおお、そないなことおお、信じんよぉおおおおお」
そして彼女は、
ひゅおぉ
ひいゆおおお
と、苦しそうに息をした。渡邉はかがみ、マツの背中を支える。
マツは、笑うようにして、渡邉の腕にしがみついて泣き叫ぶ。
自分の腕にしがみつく、爪に土の詰まった彼女の手を見ながら、渡邉は唇を噛み締めた。どうしようもできないいたたまれない気持ちでいっぱいだった。しかし、仲村の死を悲しんでくれている家族がいて、心底ほっとしている自分もいた。
マツは、仲村の死に際について訊かなかった。
その代わり、孫の死を手紙ではなくわざわざ伝えに来てくれた渡邉に何度も感謝し、東京から汽車と船で来てくれた渡邉の体を気遣い、茶や菓子で労ってくれた。
夕方になり、日が暮れる前に渡邉は帰るそぶりを見せた。
「もう遅いで、宿あるん?」
「いえ。駅で寝ます」
「え、渡邉さん、いけるでえ?駅でねるんはせこいで?うちにおれ」
渡邉には方言の意味がわからなかったが、おそらく、家に泊まっていけという意味なのだろうというのは分かった。
何度も固辞したが、マツは「駅で渡邉さん寝させたらバチがあたる」という言葉を何度も言い、渡邉の袖を掴んで話さなかった。
結局、渡邉はマツの家に泊まることになった。そしてマツは嬉しそうに夕食の準備を始める。
「ありがとうございます。頂戴します」
ちゃぶ台に料理が並べられ、渡邉は箸を手にとろうとしたが、自分の前に箸は置かれていかなかった。すみません、お箸を、とマツに伝えると、
「ごめん、わっせとった。じいさん死んで、久蔵、東京帰って、ずっとひとりやけん」
そう言って、マツは箸を渡邉に手渡す。
ネギの味噌汁に、ナスのぬか漬け。
麦飯と小アジの開きが一尾。
質素ではあるが、充分なご馳走だった。
渡邉は、ひとつひとつ噛み締めて、ゆっくりと平らげた。
ごちそうさまでした、と言うと、
「もうお腹おきたん?もっと食べなんかんよ?」
と、マツはさらに米を茶碗に盛ろうとする。渡邉は慌ててそれを辞退する。食糧難の時期に、おかわりを食べるなど、失礼極まりない。けれど、マツは、寂しい目尻でこう言った。
「久蔵のぶんも、あんたに食べて欲しいん」
そう言われて、渡邉は、茶碗をゆっくりと差し出した。マツは、愛おしそうに、茶碗に麦飯をよそう。
食事のあと、マツは風呂を沸かしに行った。渡邉が薪を割りましょうかと言うと、マツはそれを固辞して裏に行ってしまった。渡邉は縁側に座り、空を眺める。
真っ白な月が出ていた。
満月だ。
「今日は、おつっきょさんがでとる」
薪を割ったらしいマツが庭の隅の方から出てきた。
マツは白い満月を、後ろで手を組んでぼんやりと眺める。満月に照らされる庭に立ち、月を見上げる腰の曲がったマツ。
これから先何度も彼女は、仲村が死んだことを何度も思い出し、何度も悲しみ、何度も死に向き合うのだろう。
それを彼女は、たったひとりで、この広い家で体験してゆくことになる。
渡邉は、マツの小さな背中を眺めながら、なんともいえない寂しい気持ちになった。
すると、なにか思い出したように、渡邉の方を振り返って、マツは言う。
「にっちょうびは、金長さんとこにお参り行っきょんよ、明日はにっちょうびやけん、渡邉さんも一緒に行こだ」
「はい、行きましょう。仲村くんに、阿波狸合戦のお話は聴きましたよ。マツさんが、何度も話してくれたから覚えたって」
「そうかねぇ、久蔵が、そう言ったかねぇ」
マツは嬉しそうに微笑んでから、ゆっくりとまた、寂しそうに月を見上げた。
翌朝、渡邉とマツは、金長が祀られている染物屋の屋敷に出向いた。
マツが屋敷の者に声をかけ、裏口から金長の社へ通してもらう。
そしてマツと渡邉は、並んで金長の社に手を合わせる。
「きんちょさんにな、久蔵のこと、お頼みんしますってのな、毎週、お願いしとった…」
渡邉は、金長が祀られているちいさな社を眺める。
狐が、金長が祀られている中庭の塀の外に姿を表すと、すぐその隣に、金長も姿を表した。
狐は、金長ににっこり笑いかけた。
「金長さん、お久しぶりです」
金長は、なつかしそうな笑みを浮かべてそれに答える。
「はい、狐さん、どうもお久し振りです」
二匹、遠くの空を眺める。
金長がゆっくりと訊ねる。
「早太郎さんのとこには先に?」
「はい。行ってきましたよ」
「そうですか。どうですか、お元気そうでしたか?」
「はい。死んでるから元気も糞もねえだろ、って言ってました」
「それは早太郎さんらしいですね、よかったです」
「金長に、よろしく伝えてくれ、だそうです」
狐は早太郎のマネをしてそう言った。
二匹で、少しだけ笑う。
海の向こうに、夏雲が立ち昇っている。
どこかの家の風鈴が、一度だけ鳴る。
アブラゼミがじじじと飛び立つ。
熱い風が少し吹く。
塀の向こうのマツと渡邉が、社に一礼した。そろそろ帰るようだ。
「金長さん、では、また、お会いしたいですね」
「そうですね、会いたいです。また、渡邉さんが来てくれれば、会えますね」
「はい。会えますね。それでは、また」
「狐さん、また」
二匹は、肉球をそっと合わせた。
「また、うちんくけーへん?まっとうけんな?」
小さな駅舎の前で、マツが言った。
はい、と渡邉は答える。
改札を通り、汽車に乗る。
短い汽笛のあとに、がぐん と車体が動く。小松島から、渡邉は少しづつ離れてゆく。窓の向こうを見ると、田んぼの畦道に、マツがひとりで立っていた。
渡邉は、窓の内側で手をふる。
マツは、深く深くお辞儀をした。
小さなマツが、どんどん離れ、どんどん小さくなってゆく。
またうちに来てくれ、と言われて、はい、と返事をしたが、渡邉にも暮らしがあり、そして楽な生活をしているわけでもない。
だから小松島にまた来るということは、現実味がなかった。
人の悲しみに寄り添うということは、時間も体力も使う。悲しみに寄り添うというと、言葉では簡単だが、手足を動かすこととはまったく別物だ。
次にまたいつこの小松島に来られるのかはわからない。そして次に来るときに、マツが健在かどうかもわからない。
けれど、仲村のことを、彼の思い出を、一緒に語れるのは、もうこの世界に彼女しかいないのだ。
また、彼女に会いたい。渡邉は、そう思った。
急いで汽車の窓を全開にすると、渡邉は大声で叫んだ。
「また来ますよ!必ず来ますから!お元気で!」
マツは両手で顔をおさえる。
そして、大声で何かを叫んで手を振った。
何を言ったのかは、聞き取れなかった。
そしてその姿が、どんどん遠くへ遠くへ滑ってゆき、どんどん小さくなっていった。小松島の海が、遠くに輝いている。
渡邉はまた数日かけて汽車に乗り、食堂「子狸屋」に戻ってきた。燃料が配給され始めたらしく、店の前の路面電車が走るようになっていた。
食堂はちょうどお客が重なったようで、洗い場は食器だらけ、卓にも帰ったお客の皿がそのままになっていた。
渡邉は、お客たちに、いらっしゃい、と言い、卓の食器をお盆に載せながら、台所へ入った。
台所では、汗だくの摩理が真っ赤な顔で、くるくると働いている。
「悪かったな、今帰った。注文は何が入ってる?」
摩理は茶碗をそそくさと洗い、麦飯をよそい、伝票を素早く読み上げた。
「おかえりなさい。うどんたぬき、卵焼き定、味噌オム」
そして今しがた出来上がった料理を客席へ持ってゆき、申し訳無さそうにお客に謝り、すぐに厨房に戻ってきた。
「わたし、あなたが居ない間、考えてたの」
「悪かったな、世話をかけた」
「ううん、店のことじゃない。引き揚げ船でのこと。
あの船で、あなたが寿郎の頭を掴まなかったら、あなたがあの船に乗ってなかったら、寿郎は栄養失調で死んでたのかもしれない。そしたら私、引揚げ船から、身を投げてたと思う。私達親子は、死んでたの」
「こんな忙しいときにする話かよ、それ」
渡邉は、うどん玉を茹で、天かすを手早く揚げてからネギを刻む。
「今、伝えたいの」
摩理は卵をふたつ割り、手早く溶いてから味噌汁を小鍋にうつして火にかけ、小さなフライパンで卵焼きを焼き始めた。小気味よい音と香りが台所に広がる。
渡邉はなんと返事をしたらよいのかわからず、うどんの湯を切り、器にうつして出汁を注ぎ、ネギと天かすをのせ、客席へ持ってゆく。渡邉が戻ってくると、また摩理が話し始めた。
「だから、ありがとう、道雄さん。生きてくれて。ありがとう」
「口動かす暇があったら、手を動かせよ」
道雄は、今は切らなくてもいいネギを一生懸命に刻み、うつむいたまま目元を拭った。
「たぬき、きつね、はいよ」
屋台のに立つ渡邉は、うどんの湯切りをして、湯で暖めた器に麺をいれ、温かいつゆを注ぎかけ、箸でてきぱきと天かすやお揚げやネギを盛り付け、カウンターの向こうの客に差し出す。
うどんの器の湯気の向こうには、職人たちの、待ってました、というような笑顔が覗いている。
昼休憩中の鳶の職人たちが、次々に道雄の屋台へやってくる。カウンターが4席。外の卓席が4席。今日は心地よい風が吹き、青空が広がっている。
「父ちゃん、卓のお客さん、きつね1、たぬき2、とりつくね1、てんむす2ね」
14歳ぐらいの少年が、空いた器を下げてきて、屋台の後ろで洗いながらそう言った。
渡邉が返事をしてうどんを茹で始めると、その少年は新しい器に湯を注ぎ暖める。そして料理が出来上がると、少年は運んでゆく。
「お待たせしましたあ、きつねが25円、たぬきが20円で、とりつくねは35円!てんむすは、ひとつ10円!」
少年が職人たちにそう言うと、職人たちは大雑把に小銭を出し、全員が、
「釣りはいらねえよ、母ちゃんになんか買ってやれ」
と言って少年に多くお金を渡す。少年はにっかりと笑って礼を言う。
「寿郎ちゃん、いやぁ、やっぱおめぇんとこのうどんはうめぇなあ、午後も頑張れそうだ、じゃ、いってくら」
「ありがとうございましたぁ!おいちゃん気を付けてね!」
別の卓で食べ終わったひげ面の職人が寿郎にそう言うと、寿郎は彼らを元気に職場へ送り出した。
そしてたくさんの職人たちが、ぞろぞろと職場へと登ってゆくのを、寿郎は眩しそうに見上げる。見たことがないような、巨大な建設途中の鉄塔。それが、彼ら職人たちの職場だ。その塔の名前は、まだ決まっていない。
鳶職の彼らは、朝6時から、夕方6時まで働く。あと一年ほどで、この巨大な塔を完成させなければならないからだ。
工期が短いのであれば人を増やせばいい話だが、この塔の建設は施工が進めば進むほど、施工面積は狭くなり、その場所で作業をする人数は限られてくる。
人を増やしたとしても、全員が作業できるわけではない。人数ではなく、労働時間で勝負しなければならなかった。
地上から鉄骨をつり上げ、皆で支え、固定し、鋲を打ち込む。
鋲は800度に熱したものを、十数メートル離れた地点から投げ、鋲の受け手が鍋で受け取ってすぐに鉄骨に打ち込む。
投げる方も受けとる方も怪我の危険があったが、彼らはそれを地上数百メートルの高さで、なおかつ命綱なしで成し遂げている。
寿郎は、そんな彼らの姿や、自分の両親が働く姿を見ながら東京の中学校に通い、休みの日は店の手伝いをしている。
寿郎が12歳になったある日、「子狸屋」の台所で、渡邉に言った。
「父ちゃん、俺、東京に行きたい」
食器を洗っていたふたりは手を止めて寿郎を見る。
「なにすんのよ、東京で」
摩理が洗いながら訊く。
道雄はタバコに火をつけ、ゆっくりと寿郎を見る。
「学校の先生が言ってたんだよ。今、日本はすごい勢いで成長してるんだって。復興してるんだって。だから、そんな歴史的な瞬間なんだから、俺、見てみたい。今を感じてみたい。こんな田舎じゃ、そんなこと、あんまりわかんないし」
寿郎は、道雄をまっすぐに射抜くようにそう言った。
今を感じたい。
どこかで聞いたことがある言葉だった。
道雄は、遠い記憶を辿る。
10年以上前の、あの戦争の日。
潜水艦の中での会話だ。狭くて暑いとはいえ、ひさしぶりに布団の上で手足を伸ばして眠る夜。清水が、すぐ目の前の錆びた天井を見ながら言う。
「俺は学徒でこの戦争に連れてこられて、“今”の大切さが、身にしみて分かったよ。
何気ない日常ってやつさ。風呂に入れる。爪切りで爪を切って、床屋でヒゲを剃ってもらう。何気ない日常がさ、とてつもなく今は恋しい。
だから、戦争が終わったら、俺は、いやというほど、“今”を感じてやろうと思ってる。
夏の茶店で、冷えたあんみつを三皿は食ってやる。
休みの日は、畳の部屋で足を伸ばしてごろりと横になって、昼まで寝る。
夕暮れに、砂肝と冷酒で夕涼みして、銭湯行ってほろ酔いで熱い風呂に入る。で、帰りは、駅前のコロッケを食いながら歩く。
そうやってとにかく、“今”をしっかりと感じたい」
道雄は寿郎に訊く。
「旅行に行くってことか?」
「ううん。旅行じゃない。東京で、見ていたい。国が新しく変わっていくのを、すぐ近くで見ていたい。だめ…かな?」
「馬鹿言ってんじゃないのよ。簡単にできることじゃないの。仕事だって、住むところだって、学校だって変わるし、それに」
「寿郎、わかった。考えてみるよ」
道雄がそう答えた。
摩理は目を丸くして、蛇口をきつく締める。
「ちょっと、あなた、なに言ってるのよ、店はどうするの?あっちでの仕事は?家は?寿郎の学校は?」
「ああ。でも、俺も前から考えていたことではあるんだ。俺は俺の物語を始めてみたいっていうか」
「俺の物語って…勝手に決めないでよ」
摩理は、たわしを持ったまま、道雄に詰め寄る。
「うん。でも俺が考えていたことを、寿郎が違う形で話を持ってきたっていうことは、なにか意味があることなんだと俺は思う。
だって、12歳の子が、東京の今を、日本の今を見てみたいだなんて言うか?
少なくとも12歳の俺はどっかの庭の柿を食ってたくらいのもんだ。それに比べたら、大したもんだよ。これは、寿郎が作ってくれた、せっかくの機会だ。家族で考えてみる価値はあると思う」
摩理はそれには答えず、不機嫌に黙って洗い物を再開した。
夜。
中庭の障子を開け放ち、蚊帳を吊った部屋に布団が2枚敷いてあった。そこで横たわる摩理がつぶやく。
「ねえ。さっきのこと、どういう意味なの?」
2畳ほどの小さな中庭では、鈴虫が一匹鳴いている。
寝返りをうった道雄は、天井を見ながら答える。
「さっきのって、どのことだ?」
「自分の物語が、ああだこうだって」
「ああ」
「あなただけじゃなくて、わたしと寿郎のことでもあるんだけど」
「うん。分かってる。だから、俺からは言えなかった。でも、寿郎が、俺が考えてたようなことを言ってくれた。だから、さっき初めて言った」
「ずっと考えてたの?」
「ああ」
「この店を守っていくってことじゃ、だめなの?」
「ああ。たぶんそう思う」
「いつからそんなふうに思ってたの?」
「そうだなぁ、いつからだろう。わからん。ここは、ばあさんが俺に遺してくれた大切な場所だけど、でもそれはそれ。
なにかを受け継ぐだけじゃなくて、俺だってなにかを始めてみたい。
なにかをしたくても、挑戦できないやつらがいるんだ。でも俺はまだ挑戦できる。だから、始めてみたい」
「それはわかったけど…でも、あっちで一体、どうするの?」
「寿郎が言ってたように、東京は復興で、労働者がたくさんいるらしい。働いてるやつがたくさんいれば、くいもんも必要だろ。屋台でもなんでもいい、なんでもできると俺は思う。もしくいもんの商売がだめなら、俺が働くさ。
それに、あっちから引き揚げてきたなかでなんとか食堂を盛り返した俺たちなら、きっと大丈夫だと思う」
摩理は黙って天井を見つめた。
摩理も、20代という時期を、南方の国で過ごし、現地で夫を亡くし、命からがら日本へ逃げ帰ってきた。
戦争がなければ、もっと普通の生活が、母や妻や女としての生活があったのかもしれない。
今はこうやって家族三人で過ごせているが、確かに戦後のどさくさのなかで、とにかく生き抜いてきたというのが摩理の戦後の人生だった。
自分達でなにか動いて生き抜いたというよりも、目の前の仕事に精一杯で、とにかく一生懸命に生きてきた。
そして、摩理は実の家族から、一方的に縁を切られ、故郷であるはずの東京とは疎遠になっていた。東京に対する郷愁のようなものもあったし、東京から一方的に弾かれたような、そんなわだかまりがあった。
東京に家族で住む。それは確かに、新しい物語が始まるようなそんな気がした。
「たしかに、あっという間だったわね、日本に帰ってきてから」
そして摩理はゆっくりと道雄を見る。
「わかった。こわいけど、生きましょうよ、東京で。…ほんとに、変わった家族ね」
摩理は向こう側へ寝返りをうった。
道雄は、天井を見上げている。
翌年、道雄が生まれ育った食堂「子狸屋」は売りに出された。
道雄たち三人は、その資金をもとに、東京で屋台を始めた。
寿郎は、学校が休みの日は必ず屋台を手伝い、摩理は針仕事や散髪の手伝いの合間に屋台を手伝った。
しばらくすると東京の増上寺のあたりで塔の建設が始まるらしいという噂を聴きつけて、そのあたりまで屋台を曳いていくようになった。
周りに店などない中、朝5時から夜9時までうどんの屋台を開いていたので、朝から晩まで、職人たちの客足は途絶えなかった。
「寿郎ちゃん、見てみろよ、あの上の方。あっこからよ、鉄の種類が変わんだよ」
いつも黄色のタオルを首に巻いているのがトレードマークの鳶の男が、上を見上げながら寿郎に言う。
「え?種類が変わるの?」
同じ鉄骨を積み重ねて作っているとばかり思っていた寿郎は思わず空を見上げた。金属がぶつかる音、男たちの掛け声や怒鳴り声、鉄骨を引き上げるモーターの音、さまざまな音が、空の上から聞こえる。
「そうさ。そしてよ、新品の鉄じゃねえんだ。別のもんを溶かしてんだよ、寿郎ちゃん、何を溶かしてると思う?」
寿郎は空を見上げたまま考えて、やがて答える。
「え、なんだろ、あ、じゃあ、使わなくなった別の塔とか?」
「違うなぁ」
男はにやにやしながらタバコに火をつける。
「じゃあ、釘とか?」
「もっと大きいもんだ」
「自動車?」
「おしい」
「汽車!」
「離れたな」
「え、違うの?ヒントとかないの?」
「ヒントかぁ、そうだなあ、まあ、簡単に言えば、人を殺すためのもんだ」
「鉄砲?」
「もっと大きい」
寿郎は、答えが分かったらしく、眼を丸くして答えた。
「あ、戦車?」
「正解!朝鮮戦争で使った戦車を溶かして、この塔は作られてんだ」
次々と吊りあげられて、さまざまな金属音を響かせながら、かつて戦車だった鉄は、塔の一部になっていく。
片付けをしながらぼんやりとその話を聞いていた道雄は、あの日の清水と仲村のことを思い出した。あの日、あの島で、壊れていたスクラップの戦車を、見事に生き返らせた仲村。その戦車を遠隔で稼働させる方法を考えだした清水。
生きようとした彼らは、いまだあの島に置き去りのままだ。
けれど、復興してゆく日本を象徴する、空高くそびえ立つ鉄骨の塔は、まさしく彼らの墓標そのものように思えた。
1958年、冬。
丸眼鏡を掛けた鳶が、寿郎に言った。
「寿郎ちゃん、今日はよ、てっぺんを組み立てる日なんだよ」
「え!!てっぺん?ってことは、完成するってこと?」
まわりの鳶たちも頷いた。
「でよ、俺たち、考えたんだけどよ、この店では昼も夜も、みいんな世話になってっからよ、なんか記念になるようなもんをよ、てっぺんの支柱の中に、入れてやろうかと思ってよ。だからよ、寿郎ちゃん、なんかいれてえもん、ねえかよ」
親元を離れたり、家族と離れたりして東京で働いていた鳶たちの、息子のようであり、孫のようであり、そして弟のような存在になっていた寿郎。
自分たちが働く姿を、間近で見ていてくれていた家族のような寿郎に、鳶たちはとびきりの思い出を贈ってあげたかったのだ。
日本の記念碑のような歴史的な建造物に、こっそりと何かを埋め込んでもいい、という申し出に、寿郎は、驚きに顔をほころばせ、何を入れたらよいか考える。
寿郎は、食器を洗っている道雄に問いかけた。
「ねえ、父ちゃん、なにがいいと思う?」
「なんで俺なんだよ」
「俺が!父ちゃんに!訊いてるからだよ!」
道雄は寿郎が見上げる塔の上を、同じように眺めた。
はるか上空の、ペン先のように尖った塔。あの塔より高い建物は、まだ世界にはないらしい。新聞でそう読んだ。
子供の頃にさ、ボールでみんなと遊んだけどさ、思えば、あんなに平和で幸せで楽しいことってなかったよな。
みんなでただ、夢中になって、ボール追いかけて。損も得も、なあんにもないのに、みんなで声あげて嬉しそうに楽しそうに。
子どもって、いいよな、あんなことで心の底から思いっきり楽しめてよ。
でも…もしかしたら、それが…幸せってことなのかもしれない。
俺、所帯を持ちたい。
自分の子どもとさ、そうやって…遊びたい。…あー、でも俺んところに来てくれる嫁さん、いるかなあ…
記憶の中の仲村は、潜水艦の狭い睡眠室で、そう言った。
道雄は寿郎の方を向く。
「寿郎、野球ボールなんて、どうだ?平和の、象徴だ」
店が暇なとき、道雄と寿郎が投げあって遊んでいた野球ボールが屋台の足場の角のところに挟んであった。
そして鳶たちも、ボールのように、800度のリベットを上空で投げ、受け取っている。野球ボールは、寿郎にとっても鳶たちにとっても、象徴のような品物だ。寿郎は、ひとつ頷いて、道雄から野球ボールを受け取り、鳶のひとりに手渡す。
鳶たちは翌日、少年のような顔で、東京タワー先端部の接合を開始した。
足場が少ないので、この部分に立ち会えるのはごく少数の者たちだけだ。
ひとりの鳶が、寿郎から預かった野球ボールを、尻のポケットから取り出す。職人たちは、にやにやと笑い、接合部のちいさな空間に、それを収め、鉄骨をゆっくりと吊り下げ、接面させる。
「よーし、リベットぉっ」
そう叫ぶと、下からリベットが飛んでくる。鳶はそれを受け取り、すぐにリベットを打ち込んでゆく。
最後のリベットが打ち込まれると、東京の上空に、鳶たちの雄叫びのような歓声が響き渡る。
「としこー!!完成したぞ!!!帰れるぞーーー!!」
「お母ちゃん!見えてるかー!できたよー!」
「君枝!出来上がりだあ!」
「佳典ぃ!父ちゃん、頑張ったぞ!!」
それぞれが、遠くに住む自分の家族に、大声で報告した。
その報告の声を聞き、塔の各部でリベットや接合部の最終確認を行っていた鳶たちが、拍手をして、同じように歓声をあげた。
夕暮れの東京の街に、空から拍手や歓声が降ってくる。
その声は道雄の屋台まで届き、道雄は塔を見上げながら、ひとり、拍手をした。
今日、塔は完成したのだ。
塔の名前は公募で募集された。
その塔の先端には、野球ボールがひとつ隠されているが、その理由を知っている者は、とても少ない。
1958年、世界最大のその塔の名前は、東京タワーに決まった。
道雄と摩理はその後も屋台を続け、やがて目黒で食堂「子狸屋」を始めた。
故郷の子狸屋でも出していた、ごぼうとネギのたっぷり入った、とりつくねうどんや、味噌ダレのかかった味噌オムライスが名物となった。
寿郎はその後、高校、大学と経て、就職する。就職先は、あの日の鳶たちの所属していた企業だ。
会社の廊下を歩くと、寿郎が入社したことを知らないあの日の大人たちが、大層驚いて、そしてにこやかに話しかけてくる。
「お!おいおいおい!誰かと思えば、寿郎ちゃんじゃねえか!!」
「あ!!うどん屋の倅の、あの坊主じゃねえか!」
「おいおい、でっかくなって、背広なんか着やがってよう!俺がしごいてやっからな、覚悟しとけよ!」
「懐かしいなぁ、父ちゃんや母ちゃんは元気か?」
「で、なんでまた、うちの会社選んだんだ?」
ひとりの鳶の質問に、寿郎は答えた。
「みなさんが、自分の仕事を語る時の、あの目が大好きだったんです。
東京タワーを見上げながら、僕にいろんなことを語ってくれる、皆さんのあの目に、憧れました」
それから数年後、寿郎は、設計の仕事を担っていくようになる。そんなある日、寿郎は製図用の筆記具を買おうと、文具店に入った。
「すいません、製図用の、シャープペンシ…」
寿郎はレジ打ちの女性に話しかけた。
レジの女性は、左手で耳に髪をかけながら、飴色のそろばんをぱちぱちと弾いている。白く細い指に、細く柔らかい髪がかかる様子が、和人形のように見えて、寿郎はその女性に目が釘付けになった。
「はい、製図用の?」
「あ、シャープペンシル…です」
「あ、はい、こちらにございますよ」
その女性は、にこやかに陳列棚のところまで案内して、離れていった。石鹸の、清潔な香りのする女性だった。
その後、寿郎は何度もその店へ足を運ぶようになる。
芯や消ゴムやペンをなくしたと言って、新しいものを週に何度も買いに行くのだ。
その女性とのレジのひとときの時間が、仕事でいそがしい寿郎の、ささやかな楽しみになった。
彼女と、ある程度顔馴染みになった春のこと。天気の話から散歩の話になり、散歩の話からハイキングの話になった。
今の季節、ハイキングでもしたら気持ちよいでしょうね、と彼女が語ったのだ。
寿郎は、頷いたが、それ以上会話が続かずに、品物を受け取って店を出た。
けれども、しばらく通りをぼんやりとあるいて、立ち止まり、そして踵を返して店に戻り、ドアを開くなり、首をかしげる彼女に言った。
「あの、ハイキング、一緒に、行きません、か?」
すると彼女は、不審げな顔をする。
「え?でも、あの、わたし、あなたのお名前、存じ上げないんですが」
寿郎は、出鼻をくじかれたように立ちすくんでしまった。完全に断られる流れだったが、寿郎はふっきれたように大声で言った。
「渡邉寿郎です!」
そのあまりの大声に、女性はびっくりしたあとに、吹き出した。
そして呆れたようにため息をついてから言った。
「重盛はるです」
そしてはるは、にっこりと笑った。
ハイキング当日、寿郎は駅にヤマハのスクーターで迎えに行った。
そして登山口にバイクを停め、ふたりで山を登る。
誘ったはいいが、ふたりで初めて、文具店以外の場所で会うというその状況に緊張した。女性とふたりきりというのも、思えば初めてで寿郎はずっと押し黙ってしまっていた。
山の中腹の高原に到着し、はるが作ったおにぎりを広げようとしたときに、ぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。二人慌てて荷物をまとめ、近くの大木の下で雨宿りをした。
「こういう時って、ちゃあんと天気予報を確認しておくものなんですよ」
雨に濡れた髪をしぼりながら、冗談めかしてはるが言う。
「ご、ごめんなさい」
寿郎は自分の上着を慌てて脱いで、はるの頭に被せ、雨避けにした。
はるは、心配そうに空を見上げる寿郎を、じっと見上げている。
雨がやみ、青空が広がると、ふたりは濡れたままバイクに跨り、寒さに震えながら街へ戻った。信号まちのたびに、寿郎は、何度もはるに謝る。
雨に濡れて冷えたたままのふたりは、寿郎のアパート近くの銭湯で体を温め、服が乾くまで、アパートであたたかい茶を飲んだ。
「最悪なデートでしたね」
はるがいたずらっぽく言うと、寿郎はまた謝る。
「あの、面目ない、です」
「次はちゃんと、天気予報確認してくださいよ?」
寿郎は、また謝ってから、少しだけ首をかしげる。
“次はちゃんと?”ってことは、次も俺と一緒に行ってくれるってこと…?寿郎は彼女の言葉を反芻しながら、考えた。
寿郎の勉強している設計の製図用の机の上には、さまざまな文具が並んでいて、消ゴムやシャープペンシルが、新品のままいくつも置いてあった。寿郎が「なくしたから」と言って、何度も買いにきていた文具だ。
「なんだ、全部、ちゃあんとあるじゃないですか。そそっかしいんですね」
はるは、それを見つけ、いたずらっぽく笑った。けれどしばらくすると、その頬が紅く染まってゆく。
文具がたくさんあることの意味に気づいたのだ。
はるが家に来ることを想定していなくて、すべてがばれてしまった寿郎は畳を見つめ、そして顔を熟れたトマトのように真っ赤にして、固まった。
二度目のデートもハイキングだった。
天気予報は快晴とのことだったが、その日も天気は傾いて、昼頃には大雨になった。雨宿りする大木の下で、ふたりは大笑いした。
1960年代の若者たちは、日本文化のなかで初めて、デートを経験した。
新しいその文化に、とやかく言う大人たちもたくさんいたが、自分たちは戦争でできなかったから、デートをする娘たちを陰ながら応援したいという母親たちも多く、はるの母親も、そのひとりだった。
はるは、満州からの引揚げ船の中で生まれている。
数年後、寿郎とはるは結婚し、その後、2女1男に恵まれた。
子供はそれぞれ、莉子、深雪、陸と名付けた。
寿郎は毎日忙しく働き、東京ドーム、横浜アリーナ、阪急梅田駅などの建設に携わり、そして定年退職の時期が近づいてきたある日、初孫が生まれた。次女深雪の子で男の子だった。
同じ月、寿郎の父、渡邉道雄は、そのひ孫の顔を見ることなく、養護老人ホームで静かに息をひきとった。
葬儀の日、道雄の棺の中には、握り飯がたくさん入れられた。
道雄は、生前に寿郎に、棺には、握り飯をたくさんいれてくれ、と語ったそうだ。
寿郎が、なんでそんなもんを入れてほしいんだ、と訊ねると、道雄は遠くを見ながらゆっくりと答えた。
「世話になった仲間に、持ってくんだよ。お前もそいつらに助けられたんだから、ちゃんと入れろよ」
その翌年、妻の摩理も亡くなる。
参列者の中では、喪主の寿郎が一番泣いた。
喪主挨拶では、摩理が戦時中に南方で夫を失い、ひとりで幼い寿郎を抱き、引揚げ船にたどり着いたことを話した。そして、棺のそばへゆき、横たわる摩理へ語りかける。
「お母ちゃん、20代の娘が、たったひとりで、赤ん坊抱いて、不安だったよなぁ、怖かったよなぁ。お母ちゃん、ありがとなぁ。
ほら、見えるか、お母ちゃん、あんたの孫やひ孫たち、そっちから見えてるか?あの時、あんたがひとりで耐えてくれたから、こうやってみんな幸せに暮らせてる。お母ちゃん、ありがとなぁ。ゆっくり、おやじと休んどってくれな、それじゃあ、またね、お母ちゃん」
寿郎の初孫が小学生の時、学校で平和学習があった。空襲や原爆について、担任教師が神妙な顔つきで語り、最後にこう言った
。
「みなさんのおじいさんやおばあさんも、戦争の経験があるかもしれません。機会があれば、戦争について訊いてみましょう」
「ねえ、おじいちゃんは戦争に行ったの?」
寿郎の家の縁側で、さっそく彼は訊いた。
「おじいちゃんは行ってないよ。まだ2才とか3才だったから」
「じゃあ、おばあちゃんは?」
「はるばあちゃんは戦争が終わったあとに生まれてるからね」
「じゃあ誰が戦争知ってる?」
「あんたのひいばあちゃんと、ひいじいちゃんは戦争を経験したよ」
「ひいじいちゃんは戦争に行ったの?」
「うん、行った」
「どこに?」
「フィリピンの、どこかの島らしいよ」
「すごい。どんなことがあったの?」
「ああ、そういえば、おやじの口から、戦争の話、一度も聞いたこと、なかったなぁ…」
寿郎は、庭を見ながらぼんやりとなにかを思い出している。
暗い船底の船室。
錆びた床。
鉄の階段。
その向こうに座る、痩せた浅黒い顔の男。
自分のスルメを、その男にあげた記憶がおぼろげにある。
それが、一番最初の父の記憶だった。
寿郎の初孫は、幼い頃から絵を描くことが好きだった。高校を卒業後、美術系の大学へ進み、デザイン会社へ就職した。
しかし、会社の体質と合わずに体調を崩し、1年で退社することになった。
その後彼は、1年以上療養して、休みの融通が効くアルバイトから働き始めることにした。
そして現在彼は、東京都墨田区の、とあるドラッグストアで働いている。
今日、そこへひとりの不思議な客が訪れた。
野良着を着たその老婆は、必死な面持ちで、彼に言う。
「お招きいただき、まっことありがとうございますっ。
おじいさんの怪我が不憫で見ておれなんだから、稲荷さまにお参りさせていただきました。
どうか、なにとぞどうか、妙薬をお分けくださいっ、おねげえしますっ!」