気球商団少年記(下)
気球商団は、下降気流を捉え、ゆっくりとお機械さま草原に降下し始めます。
「気球商団音楽隊っ!演奏っ!いまっ!」
商団船長が、号令を掛けると、気球のさまざまな場所から、音楽が聞こえてきました。
着陸や係留の際に、気球が接近していることを知らせるためだったり、客寄せのための音楽です。
ぴっぴぱーらっぱっぱっぱ
ぴーぷるるる ぱっぽーん
ぴっぴぱーらっぱっぱっぱ
ぴーぷるるる ぱっぽっぷーん
ぴっぱーららぴっぱぷー
ぴっぱーるりらんりんるん
ぴっぴぱーらっぱっぱっぱ
ぴーぷるるる ぱっぽーん
気球が着陸すると、それぞれの気球で歓声があがりました。
10年ぶりの着陸です。人生で初めて着陸を経験する子もたくさんいます。
そして、この草原にやってくるのは50年ぶり。初めての草原や、人生2度目の草原に感慨深い人々も大勢いるようです。4歳の時の着陸の記憶がある、とか。あのときに俺たちは新婚だったなぁ、とか。ばあちゃんの空葬は、草原でやったよなぁ、とか。
それぞれの人生と、草原が結びついています。
少年は、娘と一緒に、商団船の気球の上で着陸を見届けました。
「お機械さま」と呼ばれている、草原の真ん中にあるブリキ色の機械。
気球商団の音楽が聞こえたのか、その機械から、青年が一人出て来ました。
商団船を眩しそうに見上げ、嬉しそうにしながらも、初めて見る気球商団に驚いています。
通訳がその様子を見ながら言いました。
「この草原は、間欠泉によって麓の街との行き来ができません。
気球商団船が停泊のたび、水が潤沢にある麓の街に移住するために、気球に乗せてくれとの願い出があり、何人も乗船させてきた歴史があります。
たしか、50年前の寄港時には、数家族ほどの集落だったとか」
少年は、お機械さまから出てきたその青年を見ています。10代の終わりくらいの年齢にみえます。
ふと横を見ると、娘も彼をじっと見ていました。そして、大声で彼に声をかけ、にんまりと笑いました。
「こんにちわあああああ!おじゃましまああああすっ!」
青年は、声が聞こえたのか、大きく手を振りました。
気球商団が滞在している間、青年は通訳と仲良くなり、よく一緒にいるところを見かけるようになりました。
青年は、お機械さまを守る番人ということでした。
そして番人は、気球商団の技術者たちとも交流し、彼らは荷物を運ぶ携行気球を改良した荷車などをプレゼントしました。気球商団の人々は、人にものを上げたり、アイデアや技術を提供することがとても好きです。気質といってもよいかもしれません。
降雨機であるお機械さまを稼働するためにはたくさんの薪や翼馬の糞が必要です。昔はそれを村の人たち総出で運んでいました。けれども年々人口は減少し、いまでは薪を集めるのも一苦労です。
しかし、プレゼントされた気球荷車で、大量の薪や糞を指先一本で運ぶことができるようになりました。
番人は、そうやって、気球商団のたくさんの人々と交流しました。
そして、番人は商団船長の娘と出会うのです。それは、事故のような出会いでした。
番人はいつしか商団船長の娘と一緒にいることが多くなってゆきました。
やがて娘は、気球にいることの方が、少なくなってきました。
翼馬に乗り、草原を楽しそうに駆け回るふたり。
言葉も通じないくせに、ふたりは目線や表情だけでやりとりをして、まるで昔からの親友かのように通じ合ってる。少年は、気球の上からふたりを見て、いつも地団駄を踏みました。
けれども、ここに滞在するのは少しの間。滞在期間中、我慢すればいいだけの話だ。少年はそうやって、自分を落ち着かせました。
しかし、商団の中で、噂話がひろがり始めます。
商団船長の娘が、気球を降りるという噂です。
やがて、それは噂ではなくなり、気球商団長から、正式に発表されました。
「このたび、私の娘が、船を降りることになった。地上の民と家庭を築くことになったのだ」
気球商団の人々は、気球から一生降りてはいけないというわけではなく、自由意志で気球を降りることが許されていました。
地上で興味のある仕事を見つけたり。
地上で恋をしたり。
気球では治らない病気があったり。
理由はさまざま。
しかし、降りるのには寛容でも、乗船や再乗船には厳しいルールがあります。
入団する者は、気球商団の団員の家族しか認められない。つまり、団員の誰かと婚姻関係か、養子関係になければなりません。
そして、もうひとつは、元団員だったものが再乗船して生活することを禁じる、というもの。
それぞれのルールには、気球商団のなかで長年培われてきた文化や風土を、ほかの民の文化や風土で壊されないため、という意味がありました。
だから、気球を降りるということは、もう二度と気球で生活ができない、ということ。商団船長の娘が地上で生活をすることを決定したのは、並大抵の覚悟ではなかったはずです。
団員たちは、おめでとうと、みんなで泣いて笑ってはしゃいで叫んで、それはそれは大きなお祭り騒ぎになりました。
少年は、その祭りのなか、ただひとり、信じられないといった面持ちで、拳を握りしめていたのでした。
翌日、草原の森のなか、泉のほとりにいた娘に、少年は問いかけました。
「………ねえ。あの話、ほんとう?」
「うん。ほんとう」
「ここで暮らすの?」
「うん。ここで暮らすの」
「心変わりしても、商団にはもう戻れないんだよ?」
「うん。戻れない」
「50年だよ?」
「うん。50年」
「みんなとも会えなくなるんだよ?第2食堂の苺パイも、第1食堂のオマムライスも、食べられなくなるんだよ?」
「うん」
「僕はいやだね。君とあえなくなるなんて。僕は絶対にいやだよ。うん。絶対にありえない。君のいない気球商団なんてありえないよ」
「うん。私も、さみしい」
「だったらなんで!!!」
「たくさん悩んで、決めたから」
「き、決めたって、じゃ、じゃあ僕との、僕の、僕のあの返事は?聞いてないよ!まだ返事してくれてないじゃないか!」
「うん。してない」
「どうするのさ!!」
「…私は、気球を降りる」
少年は、飛び上がるように立ち上がりました。涙をぼろぼろと流しながら、怒りに満ちた目で、娘を見下ろします。
娘は、しっかりと少年を見つめます。
少年は、大声を出し、泣きながらどこかへ走っていきました。
そして、娘の目から、涙がひとつ、こぼれ落ちるのでした。
気球商団出発の日。
今回も草原からは、数家族が気球に乗るそうです。
そうなると、この草原に残るのは、番人の青年と、商団船長の娘になります。
この広い草原にふたりきりです。
団員のひとりひとりが娘との別れを惜しみ、目に涙を浮かべ、娘と抱き合って、最後の挨拶をしています。
「また50年後、来るからね」
「お姉ちゃん、また遊んでね」
「おねたんばあいばあい」
「わたしはもう年寄りじゃから、お前とは会えなくなるねえ、お前のな、おふくろさんのおしめと、お前のな、おしめをな、わたしは替えたんじゃあよぉ?」
「元気で暮らせよ!」
みんな祝福の言葉をなげかけてくれますが、お年寄りにとっては今生の別れ。娘は、たくさん泣いて、わらって、みんなとお別れしました。
でもいくら探しても、いくら待っても、どこにも、少年の姿はありませんでした。
「抜うう錨ううう!!」
父である、商団船長の掛け声とともに係留縄が外され、商団が風に乗り、ゆっくりと草原を離れてゆきます。
すると、団員たちが手を振るのをやめ、胸の前で両手で斜めに何かを持つような仕草をしました。それは、斜めに箒を持っている仕草にも見えますし、斜めに銃を持っているような仕草にも見えます。この仕草は、気球商団の敬礼のような仕草です。挨拶礼と言いますが、略して拶礼と呼んでいます。
娘も、拶礼を返します。
これは、気球と気球を繋ぐ縄を表していて、
「あなたとわたしはつながっています」という意味があります。
娘は拶礼をしながら、気球の中の少年を探しました。けれども、やはりどこにも少年はいません。
自分の思いばかり優先して、あの子の気持ちに配慮が足りなかった。もっと時間をかけて説明して、丁寧にあの子の申し出をお断りすればよかったのかもしれない。
言い訳や、下手な慰めより、自分の想いを最優先することが、あの子に対する誠意だと思っていたけど、それは自分本意だったかもしれない。ふかく傷つけてしまったかもしれない。
怒らせてしまったから、もう顔は出してくれないだろう。
娘はそう思いました。
夕日が、街の向こうの山に、沈もうとしていて、山藤色の空に鳥の群れが飛んでいました。
「もうっ!いいよっ!」
きゅぷきゅぷううんっ!
「や、やめろよ!」
きゅきゅぷうううんっ!!
「うるさいっ!」
きゅきゅきゅきゅぷぷんっ!!!
「うるさいってば!やめろよっ!行かないって!」
猟漁船の気球の上で、寝そべっている少年。
その少年の周りをいそいそくるくると周りながら、雲蜘蛛のルカが、少年の体を揺すっています。
少年は怒ったように空を見上げ、ルカは地上を時折見下ろし、あたふたしています。
気球商団のあちこちから拍手やお別れの挨拶が聞こえてきました。少年はさらに強く口を真一文字に結び、腕を組んで空を睨みます。
きゅぷぷぷぷんっ!
きゅぷんっ!!
ぷぷんっ!
きゅううぷううんぅ!!!
「いいんだよっ!!!!あんなやつのことなんか!知らないんだよっ!知らない!!!!!!」
ルカは、地上の娘を蛙色の美しい瞳で、悲しそうに見つめます。少年は空を睨んだまま動きません。
ルカは、たちどまり、肩を落とし、少年の脇腹に寂しそうに寄り添いました。そうして一度はため息をついて、諦めましたが、やはりどうしても、少年にちゃんと娘とお別れをしてほしいようです。
また少年の胸にしがみついて、体をゆすりました。
きゅるぷるぷぷんっ!!!
「しつこいっ!」
すると、少年の胸のポケットから、布にくるまれた何かがころりと転げ落ちました。ペンを包んでいるような大きさの布の包みです。
ルカが前足でつまみあげると、布がはらりと開きました。布には枯れた一輪の花。
父の葬儀の日に、娘がくれた一輪の花です。
少年は、あの花を大切にしていたのでした。
少年は、枯れたその花「綿雪花」を睨みながら、だんだん唇がへの字に曲がってきました。地面につつついと涙がこぼれます。
きゅぷうううううう…
ルカも悲しそうに俯きました。
「ルカ、連れてって…」
ルカが少年を見ると、少年は立ち上がって涙をぬぐっていました。
「抜うう錨ううう!」
商団船長の掛け声です。
錨が外されました。
ルカは少年を見上げます。
「ルカ、お姉ちゃんのとこ!連れてって!!!」
ルカは蛙色の瞳をかっと見開いて、おしりをぷりぷりぷりぷりぷりぷりと振って、少年の背中に飛び乗りました。
そして少年はルカの前足を掴み、気球から飛び降ります。
気球商団の人々は、誰かが飛び降りた!と大きな悲鳴をあげました。
少年は50メートルほど下の地面に、落ちてゆきます。
「おねええええええちゃああああああん!!!」
少年が叫ぶと、ルカがぱぷしゅんっ!とお尻から糸を吐き出し、
ばぷちゅんっ
猟漁船の船底に付着させました。
少年に気づいた娘が口をおさえ、走ってきます。
むーーーーんと糸が伸び、張り詰めて、一度跳ね上がり、少年は地上2メートルほどのところにぶら下がり、後ろ向きに移動します。
娘が走ってきます。
少年はぶら下がったまま手を伸ばします。
娘も手を伸ばします。
もう少しで、指先が触れます。
気球が気流に乗り、速度があがりました。
すると少年と娘の指先は、ぐんぐんと離れてゆきます。
もう、走って追い付ける早さではありません。
少年は、もういいよ、というように首をよこに振ります。
「来て、くれて、ありがとおおお!!!」
娘が走りながら叫びます。
少年は、だまって涙をぬぐい、満面の笑顔を返しました。
背中のルカは、ぷるぷると震え、ぼろおろぼろおろと涙を流しています。
少年は、胸元で、大事そうに力強く、拶礼をしました。口をへの字に曲げ、ぼろぼろと涙を流し、胸元で縄を握る仕草をしています。蜘蛛糸にぶら下がった少年の向こうには、山藤色の空と真っ赤な夕日が輝いています。
娘は立ち止まり、息をきらし、涙をぽろぽろ流し、同じように拶礼を返しました。
やがてぐんぐんと離されてゆき、娘がちいさくちいさくなってゆきます。
次に会えるのは、50年後です。
「…ルカ、戻ろう。気球商団へ」
少年がそう呟くと、ルカはゆっくりと少年を気球へ引き上げてゆきました。
すると、少年は何か思いついて、胸から何かを取り出します。
綿雪花です。
少年が布を開き、綿雪花にふううううと息を吹きかけると、きらきらとした綿毛が夕日をあびて輝いて飛んでゆきます。
草原に雪綿花がちらばり、暮れゆくラベンダー色の景色を、ゆっくりと包んでゆくのでした。
気球商団はその後、街の時計塔に係留し、滞在しました。しかし、少年はずっとぼおーっとしたまま。
湖でみんなが泳いでるから一緒に来いよ、と言われてついていきましたが、泳ぐ気にはなれず、ずっとぼーっとしていました。
ルカは、街の人々が怖がるといけないから、という理由で、気球で待機しています。
同い年ぐらいの少年が、近寄ってきました。なにごとか、話しかけてきます。
言葉はわかりませんでしたが、少年は少年に笑顔を返しました。
気球を降りて出会った人々は、お客様だから、きちんと対応するようにと、なんども大人たちに言われて育ったので、嘘でも笑顔を作れました。
街の少年は、空を指差し、なにごとか熱心に喋っています。多分、空での暮らしは楽しいだろうね、みたいなことを話しているのだと思いました。鳥の鳴き真似をしたり、飛ぶ真似をしたり、急降下する真似をしたりしました。
気球の少年はうんうんと笑顔で頷きます。
街の少年は、会話が終わると、突然唄を唄いはじめました。たぶん街に伝わる唄でしょう。
唄い終わると、気球の少年は拍手をしました。そしてお返しに、笛を吹くことにしました。ポケットから、風切笛を取り出します。
丸い、円盤状の笛で、木を削り出し作り、中を空洞にしてあります。いくつか吹口があり、回転させながら吹く笛です。
風切笛は、各気球にも備え付けられていますし、各自が携帯しています。
気球が気流以外の風に流されてしまうときにこの笛を吹くと、風が集まってきて、進路を変えることが出来るのです。
笛は、自分の所属する気球の個体振動数に応じた音階を奏で、気球に共鳴し、海くじらの声のような音色になります。
共鳴することによって、たくさんの風が集められます。右側に流されていたら、右舷側の気球の人々が笛を吹き、風を集めるのです。
けれど、地上で吹いても共鳴しないし、大きな風もないので、ただの笛の音です。風も集まりません。
少年は地面に気球を描き、そして風をくるくるとした線で描きました。気球と同じくらいの大きさの風です。
もう一度笛を吹いて、その風の流れが変わり、集まってくる様子を描きました。
「ここにはおおきな風がないから呼べないけど、空の上は風が吹いてる。だから吹くと、風がやってくるんだよ」
少年は、身ぶり手振りと絵でそれを説明しました。すると地上の少年は、なんとなく理解できたようで、目をきらきらさせて笛をみています。
あまりに目を輝かせるので、気球の少年は、地上の少年に、風切笛をプレゼントしました。
地上の少年は、大事そうに胸元で笛を抱きしめて、もう一度唄を唄ってくれました。
気球の少年は、作り笑いをしました。
作り笑いの頬を一筋の涙が濡らします。
その日から、たくさんの時間が流れました。
1年。
3年。
5年。
10年。
17年。
24年。
31年。
43年。
やがてあの日から、50年。
世界を、ひとまわりした気球商団。
気球商団が、下降気流を捉え、ゆっくりとお機械さま草原に降下し始めます。
「気球商団音楽隊っ!演奏っ!いまっ!」
商団船長が、号令を掛けると、気球のさまざまな場所から、音楽が聞こえてきました。
ぴっぴぱーらっぱっぱっぱ
ぴーぷるるる ぱっぽーん
ぴっぴぱーらっぱっぱっぱ
ぴーぷるるる ぱっぽっぷーん
ぴっぱーららぴっぱぷー
ぴっぱーるりらんりんるん
ぴっぴぱーらっぱっぱっぱ
ぴーぷるるる ぱっぽーん
商団船長はできるだけ平静を装って、草原に降り立ちました。草原には、水晶花の間に、綿雪花がところどころに咲いています。
商団船長は綿雪花を懐かしそうに眺めて、そして『お機械さま』へとゆっくり歩いて行きます。服を整え、姿勢を正し、深呼吸をして、うやうやしく挨拶をいたしました。
年をとったあの日の番人がいました。
「やあ、こんにちは。しばらくご厄介になります。よろしくお願いします。」
番人のそばに、あの娘のすがたはありません。娘と言っても、あれから50年ですから、今ではおばあさんになってるでしょう。
「どうぞどうぞ、ゆっくりしていってください。これはまた、随分と大所帯になりましたな。もしかすると、お医者さまもいらっしゃいますか?」
「だ…誰か具合でも悪いんですか?」
番人は頷いて、悲痛な面持ちです。
商団船長は、ひさしぶりの大地に浮かれて楽しんでいる商団員たちを押しのけて、医者と通訳の名前を叫びながら、やっと彼らを見つけ、医者と通訳を連れてきました。
ふたりを連れ、奥の部屋に入ると、息も絶え絶え、苦しそうなおばあさんがベッドに横たわっています。
商団船長は思わず医者に叫びました。
「さあ!早くみてあげてくれ!さあ!早く!」
医者も通訳も番人も驚いた顔です。
おばあさんも、その声に驚いて、薄目を開けて商団船長を見ました。
そして、おばあさんはほんのり笑って言いました。
「ほらね、言ったでしょ、必ず、商団船長に、なれる、って」
商団船長は、なんと言ったらよいかわからず、黙って頷きました。商団船長の背中には、あの日の雲蜘蛛は見当たりません。
「お嬢さま!お久しぶりです!わたしです!」
眼鏡をかけた通訳が自分の胸を手でおさえ、挨拶します。
「あらあら、また見つかってしまったようね」
おばあさんはほほえみます。
すると、医者が通訳を押しのけて言いました。
「さ、お話は後だ。先に診察をさせてもらう」
頑固で生真面目で、仕事一筋、という雰囲気の医者です。
「あ、ありがとうございます。よろしくお願いします!」
番人が言います。
医者は、ゴム手袋をはめ、真剣な目つきで脈を測り、呼吸を聴き、背中に触れ、足の裏の色を見て、肘の硬さを調べ最後にゴム手袋を外しておばあさんの体に触れようとしました。
ばちんっ!!
おばあさんと医者の間に、ねずみ色の火花が散ります。医者は、やっぱり、というような顔をして、小さく何度か頷きました。
「ど、どうでしたか?一体どこが悪いんでしょうか?」
番人が訊きます。
「…これは、熱電病のようです。なにかこう、強い電流や静電気があるようなところに頻繁に近づくことがありますか?」
おじいさんは、青ざめた顔をいたしました。心当たりがあるようです。頷いて、そして、悔しそうな悲痛な面持ちで医者に前かがみで詰め寄ります。
「はい。あります。…あの、それで、どうしたら…どうしたら治りますか?」
「この病気は、身体の中に溜まってしまった電気を移し替えなければ治りません。
電気の受け皿の“電池”に移し替えるのが一般的ですが、見たところ、ここには電気や電池はないようですね」
「じゃ、じゃあ、どうすれば…」
「端的に言えば、ここでの治療は無理です。電気のある町へ搬送し、そこで治療をするしか方法はありません」
「で、ですが先生、この草原は気流と間欠泉で、外に出れば戻ってくることができません。町へいってしまえば、妻は、ここへ、戻ってこれなく…なる…」
「はい。どちらを選ばれるかは、おふたりの自由です。ここで出来ることは、この電線点滴を施し、徐々に電気を逃していくことくらいです。けれど、ごく微量の電気を逃がすことしかできないので、根治は無理です。まあ、言い方はあれですが、苦しみを減らす気休めといったところです。
ですが、それをやらないより、やる方が御本人も格段に楽になるでしょう」
そう言って医者はカバンから銅線と点滴針を取り出して、おばあさんの肘に点滴を取り付け、銅線を針につなぎ、その銅線をベッドの金属フレームに接触させました。おばあさんの呼吸が少しだけ穏やかになります。
「あ、ありがとうございます…ちょっと、外へ、その、ちょっと、はい、あの、ええ、行ってきます…」
番人は、この世の終わりのような顔をして、部屋を飛び出して行ってしまいまし団船長や医者や通訳たちが窓から覗くと、商団員たちが奏でる陽気な音楽のなか、おじいさんは草原に仰向けに倒れ、顔を覆って小刻みにふるえています。
商団船長は、窓から番人を悲しそうに眺め、苦しそうなおばあさんのそばにひざまずきました。
おばあさんはさっきまでの苦しい呼吸が嘘のように、すやすやとした寝息をたてています。
商団船長は、ただおばあさんの寝顔を、じっと見つめ続けました。
ふと気づくと、日が沈みかけていました。
商団船長は、通訳と同程度とまではいきませんが、各国の言葉を話せます。商団船長は、まだ倒れて泣いている番人のところへゆき声をかけました。
「あの、ちょっと、いいですか」
番人は根っからの優しい人なのでしょう。すぐに涙を拭って起き上がり、笑顔を作って立ち上がってくれました。
「あ、ああ、これは失礼しました。何かご入用なものでもありますかな?」
「いや。それより、お、奥さまのこと、です。50年前の記録では、あの崖の向こうの街には電気があるそうです。
だから、きっと電池もあるでしょう。」
おじいさんは、うなずき、商団船長は続けます。
「もしよかったら、奥さまを、私たちの気球に乗せ街の療養所へお連れしましょうか?もしよろしければ、あなたも」
「……それは……。」
番人は、俯きました。
そしてすぐに顔をあげて言いました。
「大変ありがたいお申し出です。お言葉に甘えてお願いします。」
商団船長は、ほっとした顔をしました。
「それでは、荷造りなど、」
「ですが、……妻だけ、お願いしたいのです。」
商団長は、わけがわかりません。一緒に行かないと、2人はもう二度と会うことはできないのです。
「でも、それではもう……」
番人はゆっくりと深呼吸をして、商団長の目をまっすぐに見ながら言いました。
「もう、会えないだろうということはわかっています。ですが、私は“番人”なのです。お機械さまを離れることはできません。
それに、“番人”であるということは、“村長”であるということでもあります。“村長”が村を捨てることはできないでしょう?もう、村の人々はいなくなってしまいましたがね。」
商団船長は、番人の決意した顔を見ながら涙をこらえました。
「私は、彼女がまた元気に笑ってくれるなら、あの鈴のような笑い声がどこかで響くのだったら、それだけで幸せです。」
商団船長は、ゆっくりと、うなづくことしかできませんでした。
船長室。
電線点滴のおかげなのか、確かに、おばあさんは地上にいたときよりも気力を取り戻し、さらに会話が出来るようになっています。
静かな船長室は、気球商団船長と、おばあさんのふたりきりです。
ガス圧を変えて気球の高度を調節する舵を握る船長の背後に、ベッドが置いてあり、おばあさんが横たわっています。
「どうだい?草原での暮らしは」
「うん。とっても素晴らしいわよ」
「そうかいそうかい。そいつは、よかったよ」
「それより、おめでとう。夢を叶えたのね。どう?商団船長としての暮らしは」
「もちろん、とっても素晴らしいさ」
ふたりは、瞳に柔らかな笑みを湛え、それきりしばらくしゃべりませんでした。
おばあさんは、商団船長の耳を見ます。石榴糸を耳に掛けていません。結婚していないのです。
「あら、商団船長、お相手は?」
「え、うん、まあ、うん、いないよ」
「そっか」
商団船長はおばあさんをちらりと横目で見ます。おばあさんは前方の空をすみれ色のきれいな瞳で見つめていました。
「な、なんか、無我夢中で商団船長目指して、そして夢が叶って、そして、気づいたら、今日だったよ」
商団船長は小さく笑います。
「うん、そっか」
気球は静かです。
上空を吹く風にゆったりと乗り、世界を巡るので、エンジンなどの動力はありません。ただ静かにゆっくりと、東へ東へと進んでゆきます。
おばあさんは、商団船長の舵に添える手が少しだけ震えていることに気づきました。そしてその手が、ぎゅっと力強く舵を握りました。
「街に降りて、病気を治したら、草原には戻れない。わかってるだろ?」
おばあさんは、頷きます。
「治療をしたら、気球に、乗らないか?」
おばあさんは、とても優しい笑顔になりました。
「気球商団は、降りた者の乗船についてはずっと禁じてたじゃない。無理な話よ」
「ああ。もちろんそうだ。下船した者は、気球商団で生活することは禁じられている。…ただ、例外はある」
「え?例外って?」
「商団船長特例。商団船長がその役職を辞する時、商団員全員の可決の上であれば、願いを一つ叶えることができる。だから、乗ってくれ。そして、僕と、暮らしてくれ」
「念願の商団船長を辞してまでも叶えたいことが、こんなしわくちゃおばあさんと暮らすことなの?」
おばあさんは、冗談をいうように、笑いながら言いました。
商団船長は、少しも笑わずに、答えました。商団船長の、春空のような瞳が、おばあさんのすみれ色の瞳を見据えます。
「ああ。そうだよ。ぼくは、君と暮らしたい。ぼくは君に、柘榴糸を、編んでほしいのさ。今でもね」
気球は、静かです。
時計の音も、音楽も、ほかの団員の話し声もありません。お互いの吐く息と、吸う息の音だけが部屋のなかの唯一の音です。
「私、人生の中での宝物がふたつあるの」
沈黙の中、おばあさんが、語りはじめました。
「ひとつは、12歳の少年が、まっすぐな目で、私と結婚したいって、言ってくれたこと。あの真っ直ぐな目みたいに美しいものは、世界中を探してもないものだと私は思ってるの。
今でも、今日の朝の出来事のように覚えてる。真剣で真っ直ぐで不安そうで、それでいて、温かくて意思の強い眼差し。
ふたつめは、たった今の出来事。
50年も経ってるのに、あの時とまったく変わらない眼差しで、私に想いを伝えてくれる。
いったい世界中の何人の女性が、こんなことを言ってもらえるのかしら。
本当に素晴らしいことだと思ってる。
だからわたし、このふたつの宝物を壊したくない。とても大切に思ってる。本当に。
でもね、私はあの人を愛してしまってる。ごまかせないの。そして、町で暮らすのは不安に」
「不安なら、僕を選べよ!それでいいんだよ!僕はそれでいい!君を、ひとりで街に置いていくなんて僕にはできない!」
「……お願い、最後まで、聴いて?」
「…あ、すまない。つい、…すまない」
「私はあの人を愛しているわ。50年前と変わらずにね。そして、もう一度どうにかして一緒に暮らしたいって思ってる。お機械さま草原へ戻りたいと思ってる。
でも、私は不安なの。もし会えなかったら、もし戻れなかったら、とか、街での暮らしは、とかね。
だから、あなたのその申し出は、雲間から差し込む光そのものなの。
不安な私を包むこんでくれる、ぬくもりそのものよ。
私はあなたを、私の想いじゃなくて、私の不安で選ぼうとしている。
これは、私の大事な宝物を、私自身で壊すことと同じことなの。
だからね、私、この船を、また、降りるわ」
商団船長は、景色を見ながらぽつりとつぶやきました。
「相変わらず…勝手で、ずるいな」
「ええ。そうよ。女はずるいものよ」
「7歳のあの日の君に惚れた僕の、女性を見る目に間違いはなかったみたいだよ」
「…ありがとう」
商団船長は、振り向きました。
そしてベッドの傍にゆっくりとひざまずいて、おばあさんを胸に抱き寄せます。そして、おばあさんのおでこに口づけをして、頭を二度、優しく撫でました。
商団船長は立ち上がり、舵を握ります。
「気球商団が出発するまでの2週間、毎日、病院に面会しに行ってもいい…かな?」
振り返って、商団船長は笑います。
おばあさんは、優しくほほえみ、頷きます。すみれ色の瞳に、美しい青空が、写り込んでいました。
それから2週間、商団船長は毎日療養所へ行き、朝から晩までおばあさんと話しました。
あんまり話すと疲れるかな?と思って、黙ると、おばあさんがお話をせがむのです。
だからおばあさんの病室からは、一日中笑い声が絶えません。
街では、あらゆるところで音楽が鳴り響き、お風呂屋が大繁盛して、街の人々のお風呂を貸してほしい団員たちが、入浴料の土産をもって、それぞれの家の玄関を叩きました。
商団が街に滞在するのはあと1週間ほど。商団船長は、残りの日々を、毎日、今日が初めてのお見舞いに来るかのような雰囲気で、明るく病室を訪れました。
気球商団出発の日、地上の人々に挨拶をして商団船長はゆっくりと時計塔の階段を昇ります。
時計塔頂上に出ると、係留縄に縄はしごがかけられています。
もう、ここを離れると、おばあさんと会うことはできません。
商団船長は、縄はしごに足をかけるかどうか、迷っています。
このまま出発するか。
商団船長を辞し、街に残ろうか。
「もう、次は、気球商団に会うことはできねぇかもなぁ…」
うしろにいた、時計塔の番人が寂しそうにつぶやきます。
商団船長は、にこやかに返事をしました。
「私も、皆様に次に会うことは、できんでしょうなぁ…ここは、いい街だから、名残惜しい…」
「ああ。50年前も、俺が子供の頃、気球商団が来たのよ。大人も子供も、お祭り騒ぎでよ、もうあえねぇのは、ほんとにさみしいなぁ…
ほんとによ、お前さんたちの思い出は、俺達にとって特別なもんなのよ。
あ、ほら、ここに、えっと、ほらあった!50年前によ、湖で出会った少年によ、もらったのよ」
時計塔の番人は、机の引き出しから、笛を取り出しました。手のひらほどの大きさの、丸い形の風切笛です。
商団船長は、懐かしい顔をして笑います。
「おや、偶然があるものですな。あなたにその笛をわたした少年は、ほれ、いまはこの通りの、じいさんですよ」
「え!!!!!おやっ!こりゃたまげた!あのときの坊やが商団船長かね!おやまあ!」
時計塔の番人は、人懐っこく、商団船長に抱きつきました。
商団船長も嬉しそうに笑います。作り笑顔では、ありませんでした。
「あ、それじゃあ、再会の記念に、こちらをどうぞ。あまりものでなんですが、よく汚れが落ちます。櫛海月の布です」
商団船長は半透明の布を手渡しました。
時計の番人は嬉しそうにそれをうけとり、あたふたと時計塔の部屋を見渡します。なにかお返しを探しているようです。
「商団船長、こんなもんですまねえけどよ、おれのかかあの作ったクランベリーチキンのクリームサンドよ。絶品だから、ぜひ上で食べてくれよ!なあに!おれは帰ったら、いやというほど食えるんだ!もってってくれよ!な!」
時計塔の番人は、遠慮しようとする商団船長を無理やり縄ばしごに乗せました。
商団船長は、お礼を言って、縄ばしごを握り、少し寂しく笑いました。
そして、一段一段、ゆっくりと昇っていきます。
縄ばしごは、昇るたびに、きしんで音をたてました。
おばあさんは、療養所の先の草原から、気球商団を見送ります。
目がかすんで、人々の姿は見えませんが、気球商団の音楽が奏でられています。おばあさんは、商団船に向けて、拶礼をしました。
ちょうどその時、商団船の商団船長も、気球の上から療養所のあたりを眺め、拶礼をしていました。お互いの目はかすみ、お互いが見えてはいません。でも、目がかすんでいたのは、視力だけのことではなかったようです。
商団船長が療養所を立ち去ったあと、おばあさんは、療養所のお代を払おうとしました。
番人のおじいさんが託してくれた金つぼみを、療養所の看護師に渡します。
しかし、言葉の通じない看護師は、胸の前で両手で☓印を作り、いらない、とゼスチャーします。
おばあさんは、わけがわかりません。看護師は、そのあと、さまざまなゼスチャーをしました。
口角を指先であげるような仕草をします。おばあさんは、笑えという意味かと思いましたが、治療費を払おうとしてるのに、笑え、なんて意味がわかりません。
その次は、何かを操縦するような仕草をします。意味がわかりません。
そのあと、窓からみえる時計塔の上の気球商団を、指差します。
そして看護師は自分の白衣をつまみ、そして山盛りにある、というような仕草をしました。服がたくさんあるから、治療費はいらない?意味がわかりません。
わからない顔つきをしていると、看護師が、両手のひらをゆっくり下に下ろすような仕草をします。落ち着いて、リラックスして、という意味でしょう。そして看護師は、病室へおばあさんを連れていきました。
看護師は、口角を指先であげて、椅子を指差しながら、何かを一生懸命に喋っています。椅子が笑う?椅子が可笑しい?
窓から見える気球商団を指差します。
白衣をつまみ、山盛り、という仕草。
服が沢山?しろが沢山?繊維がたくさん?
看護師は、椅子を手のひらで指し示して、口角を上げ、自分の胸を両手でおさえました。そして、優しそうな笑顔をしてなにか喋りました。
その時なぜかおばあさんには、彼女の言った言葉の意味がわかったような気がしました。
商団船長のことを言っているのだと思いました。
「治療費は、もう、頂いてるんですよ。
ですので、この金細工は、お受け取りできません。
あなたの治療費と今後の滞在費は、気球商団の商団船長が生地で支払って行かれました。
あの方は、いつもあなたと話す時、たくさん素敵な笑顔で笑ってて、あなたのことを、とっても大事に思ってらしたんですね」
おばあさんは、療養所の草原のベンチに座り、遠ざかる気球商団を見つめながら、商団船長の父の葬儀の日のことを思い出します。
商団船長も、遠ざかる街を見つめながら、自分の父の葬儀の日のことを思い出しています。
「ま、そうだよね。ひとりになりたいよね」
「じゃあ…なんで…そこに寝るの?」
「私は17歳。あなたは7歳。
だったら、なんでそこに寝るの?じゃなくて、なんでそこに寝るんですか?だよ。で、私の答えは、“うん、そうだよ、寝るんだよ”。で、あなたは私に質問するの。“なんでですか?”って」
「……なんでですか?」
「素直でよろしいっ」
娘は、一輪の花を取り出し、寝転びながらそれを眺める。
「これ、綿雪花っていうの」
「それが…なに?」
「雲蜘蛛も雲羊も飼ってなかった大昔はさ、これをたったひとつの気球の上で育てて、花弁を集めて、布に詰めて、洋服を作って売ってたんだってさ。大変だよね。それが今や、気球商団だよ」
「…」
「ねえ、死んだ人ってどこにいくと思う?」
「空に昇って星になるって教えてもらったけど、僕は嘘だとおもう」
「そっか」
「おねえちゃんはどうおもう」
「わかんない」
「僕より年上なのに?」
「うん。わかんない。でもさ、わたし、思うの。この花の中にも死んだ人たちがいるんじゃないかって」
「…意味分かんない」
「種は、植えないと種のまんまだよ。誰かが植えたから、花になる。綿になる。それが、気球商団になってる」
「…」
「だから、この花は、昔の気球商団の人たちが私達のために働いてくれてた証だと思うの。種は、祈りなんだよ」
「…」
「大好きなおばあちゃんが死んだ時、おとなたちは“泣いたらおばあちゃんが悲しむ”とか“おばあちゃんは星になって気球商団を見守ってくれる”って言ってくれたんだけど、なんにもしっくりこなかった。知らないくせに、わかんないくせに、気休めばっかり言うな、ばあああああかっ!って思った」
「…」
「でもさ、ある日その花を見てたらさ、過去はなくならないんだなって思ったの。種も花も祈りそのものなんだよ。過去そのものなの。花がある限り、過去はなくならない。そして、それは、君も、おなじ」
「…いみわかんない」
「君は、君の大好きなお父さんの光であり、希望なの。死んだ人が星になるかどうか知らないけど、生きてる私達は、死んだ人たちにとっては光で星で花なんだよ」
「…わかんない」
「うん。わたしも、ほんとはよくわかってない。でもさ、わたしにもわかることはあるよ。もう日が昇っちゃう。
君は、あそこに行きたくないと思う。もう、二度と会えなくなっちゃうから。でも、それはお父さんも同じ気持ちだと思うの。
わたし、思うの。他の誰にも見送られなくてもいい。でも、君には見送られたいとおもう。いや、君という光を、星を、花を、見たいと思うんだ。
だからさ、君のためなじゃない。お父さんのためにさ、一緒にいこう」
娘は、綿雪花をさしだし、少年は、小さな指先でその花を受け取ります。
少年は花をみつめ、星を見つめ、娘を見つめ、とても小さく頷きました。
紺色の空が、湖の底のような碧色へ変わってゆきます。
おばあさんは、もうほとんど見えなくなった気球商団を懐かしそうに見つめています。
「ありがとう。気球商団。ありがとう…私の宝物…」
しばらくすると、おばあさんの病気は完治しました。
普通なら、病気が治れば退院です。しかし、おばあさんは行くところがありません。でも、商団船長が余分に入院費を支払っていてくれていたおかげで、その後数年間を療養所で過ごしました。
毎日、療養所の草原のベンチから、お機械さまの草原を眺め、どうにかして帰る方法を考えていました。
ある日、お機械さまの草原から、何かが降りてくるのが見えました。
最初は布かなにかが飛ばされているのだと思いましたが、飛ばされている何かは、人の形をしています。なにかに乗っているように見えますが、足元には何もありません。
その人の形をしたものは、療養所の傍の発電所の方へ降りてゆきます。そのときに、はっきりと顔が見えて人間だということがわかりました。
飛ばされているわけではなく、見えない何かに、バランスよく乗っているように見えました。そしてその見えない何かに乗っていたのは、大人ではなく、男の子でした。
おばあさんは、発電所の方へ走りました。発電所の守衛に話しかけます。ここに男の子が飛んで来たでしょう?と訊き、開けてくれと頼みました。
でも開けてくれません。言葉は通じないし、部外者ですからね。守衛はおばあさんを追い払います。
おばあさんは、仕方なく、療養所の草原へ戻りました。
ふと顔を上げると、誰かが草原に立っています。
さっきの、男の子でした。
もしサポートして頂けた暁には、 幸せな酒を買ってあなたの幸せを願って幸せに酒を飲みます。