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川柳閑話 vol.2:かづみ的川柳道#2 投稿時代

 前回は川柳に出逢う前の道のりでした。いよいよ川柳に関わり始めます。


1.川柳本を買いあさる

『川柳新子座』(朝日新聞社)は、アサヒグラフで連載されていた時実新子の川柳欄「川柳新子座」の1年分をまとめたものです。毎週「題」が出て、それに即した時実新子の句(初期は句にまつわるエッセイも)、秀句十句とそれらの句の選評で構成されていました。
 
 読み進めながら、「これだこれだこれだ」と血が逆流していくのがわかりました。そして一冊読み終えた時には、わたしの中から川柳が湧き出ていました。わたしの気持ちが十七音字で流れ始めたのです。
 
 当時(1996年)の勤務先は神保町でした。書店と古書の街です。わたしは仕事の合間に、書店のハシゴを始めました。現在(2023年)のように、川柳のコーナーがあり個人の句集や多様な入門書が並んでいる時代ではありません。川柳本は、短歌や俳句の棚にひっそりと1冊2冊混ざっているのを見つけるのがやっとでした。
 そうして手にした中に、東井淳『川柳を楽しむ』(葉文館出版)がありました。古川柳から現代川柳までの句と川柳作家を紹介したものです。その中で、わたしは時実新子が月刊「川柳大学」を創刊したことを知るのです。

2.投句を始める

『川柳新子座』を読んで川柳が出て来たと言っても、果たしてその五七五が「川柳」と認めてもらえるものなのか不明でした。なので、時実新子の川柳欄に投句することを思い立ちます。
 
 最初に投句したのは週刊文春の「とうでん川柳倶楽部」でした。「川柳新子座」は題詠なので、題詠未経験のわたしにはハードルが高かったのです。最初の投稿はハガキ3枚くらい出したでしょうか。時実新子の川柳欄への投句は基本「ハガキ1枚に1句」というスタイルでした。
 初投稿で、選外佳作に選んでいただきました。このことで「どうやらわたしの五七五は棒にも箸にもかからないものではないらしい」と自信をつけました。その時の掲載句はこんな句でした。
 
 そうなのかあいつも故郷に帰るのか
 
「とうでん川柳倶楽部」で選外佳作になったことに自信をつけ、今度は「川柳新子座」に挑戦します。最初に投句したのは、題「茄子」。これもハガキ3枚程度を送ったかと思います。そしてまたも、選外佳作で採っていただきました。
 
 姉御にはなれず夜中に漬ける茄子
 
 二つの選外佳作で完全に自信をつけたわたしは、せっせと投句に励むことになります。それでも1回3~5枚という可愛いものでした。

3.投句に狂う

 投句数が一気に変わるきっかけは、1997年初頭の父の死でした。数時間前まで元気だった人が目の前で死ぬ様を見て、わたしの心の中の何かがぷつんと切れました。
 ハガキを100枚単位で買い込み、1回に20枚から30枚、とにかくあふれ出す感情をすべてハガキに書き続けました。その時書いていた句の大半は父の死を題材にしたものでした。しかし、その時入選したいという思いはありませんでした。
 
 時実新子がこのハガキを読んでくれる。
 
 それだけがわたしのモチベーションでした。
 その頃から二週に一度くらいは入選するようになりました(とうでん川柳倶楽部)。しかし、父の死を題材にしたものは1句も採られませんでした。そのことが、わたしには時実新子がわたしに送ってくれたメッセージのように思えていました。
 
(当時掲載された句から)
 摘む気にはなれぬ花です福寿草
 暗闇でわたしやっぱり嘘をつく
 オンナではなくてわたしは和美です

4.進む道に迷う

 投句を続けているうちに、わたしの中でムクムクと大きくなってきたのは「月刊『川柳大学』に入りたい」という思いでした。今から考えれば、「月刊『川柳大学』を購入するにはどうしたらいいですか」というハガキを一枚送ればよかったのですが、当時はそんな知恵は回りません。
 
 買い込んだ川柳本の中に、大きな結社の主宰が書かれた本があり、そこにはその結社に入る方法が記載されていました。そこならすぐに申し込めました。でも、その頃にはわたしは「川柳をやるなら時実新子の元で」という気持ちが固まっていたのです。それでも「一旦川柳界というものに入って、それから時実新子に続く道を探してもいいかな」という考えもあり、悶々とする日々を過ごしていました。
 
 そしてある日、住んでいたアパートの郵便受けにA4の封筒が届いたのです。封筒には「月刊『川柳大学』」と印刷されていました。
 
【つづく】

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