川柳閑話vol.9:川柳と年齢
わたしは現在50歳です(2023年)。22歳(1997年)で本格的に川柳を始めてからずっと言われ続けているのが「若い」です。現在はさすがに歴が長くなっているので、いちいち言われなくなりましたが、それでも川柳界で「50歳」は若手です。下手すると60歳でも若手と呼ばれます。川柳界のことは広く知りませんが、句会模様の写真がSNSに上げられているのを見ると、高齢化が進んでいるのは確かなようです。
8年ほどくらい前でしょうか。リアル句会であった先輩が、他で参加している句会にやたら熱心に誘うので「え?どうしたんですか?」と訊くと、「俺が一番最年少なんだよ~。助けてくれよ~」と泣きつかれたことがあります。その先輩は当時60代後半だったはずです。おそらく「若手」ということで、会場のセッティングや事務作業などを担っていたのでしょう。あと、単純にその句会の今後の継続が難しくなってくる不安で、わたしに声をかけたのだと思われます。わたしはあまり活動的ではないので、いくつもの句会に所属するのは避けていることもあり、丁寧にお断りしました。それに、そんな相当のお兄さま・お姉さまたちの句会、怖いです。後継者と認定されたら面倒じゃないですか(本音)。
20代の頃よく言われたのが「若くして川柳を始められたのが羨ましい」でした。その頃よくご一緒していた方たちは40代~50代のお姉さまたちが多く、柳歴も3~5年くらいだったと思います。皆、時実新子の川柳に惹かれて川柳を始め、川柳で表現することに熱心な方たちでした。おそらく「自分ももっと早く川柳に出逢いたかった」という思いが、わたしへの「羨ましい」になっていたのでしょう。
わたしとしては、なんと返答していいのかわからなく「その人が一番求めている時に出逢うものじゃないですか」と言っていました。そして、それは真理だと思っています。「川柳」自体は江戸時代からありますし、時実新子の個人誌創刊は1975年で、それは世間に広く知られていなくても、ベストセラーとなった『有夫恋』は1987年出版です。どこかですれ違ってはいると思うのです。でも、自分が求めていないから出逢わなかったのだと。
わたしは先に短歌に出逢い、10年続けて行き詰った時に、川柳と時実新子に出逢いました。でも実はもっと前に見かけてはいたのです。かつて時実新子は週刊文春で「とうでん川柳倶楽部」という投稿欄の選者を担当していました。わたしは学生の頃から週刊文春を読んでいて、「とうでん川柳倶楽部」も読んでいたのです。しかし「川柳」を求めていなかったわたしは、「時事川柳にしては弱いな」という感想を抱くだけで、そこに投句しようなどとは思わなかったのですし、その欄の選者が「時実新子」ということも意識していませんでした。そういうものなのです。
若くして始めることにメリットはあるか?と問われると、わたしは「別に」としか言えません。知らずに「若いことでの恩恵」を受けていたのかもしれませんが、自分では、先輩たちにごはんを奢ってもらったり、ハイブランドの洋服のおさがりをもらったり…と川柳に関係ないことしか思い出せません。
その代わりに与えられたのは「若い」という言葉の連発でした。
句評では「若い人の感性だ」「作者は若い人に違いない」「若い作者の今後に期待」と書かれるなど、「あたしの価値は『若い』しかないのか!」と叫びたくなるほど「若い」が多用されました。「若い作者だから書けた」のではなく、「かづみだから書けた」と言ってもらえないことの焦れったさ(むかつき)に何年も悩まされたものです。
句会で選者をやった時には「若い方にはこの句の良さはわからない」「若い人だから言葉を知らないのかも」なども言われました。
極めつけは「若いから新子先生に贔屓されている」でした。そもそもどの辺が贔屓されているのかわたしが知りたいくらいです。
もちろん世には早く始めた方が良いものもあります。体力の衰えが問題になるスポーツや、年齢制限のあるプロ将棋の世界などです。
しかし、川柳に関しては、若くして始める必然性はありません。むしろ、時実新子も言っているように「中年文芸」であり「若いうちは人の心に入っていくことが難しい」世界でもあるのです。
わたしが多くの人に言われた「若い感性」で「若さ」を川柳に書き残すことだけに意味はあるでしょうか。若いからと言って素晴らしい感性とは限らないのです。
もちろん逆も然りです。加齢したからと言って才能が研ぎ澄まされていくわけではありません。長く続けて惰性のようにテクニックだけの句を作り続けても、それは作っているというだけで、それ以上の意味を生まなくなります。
隔月刊「現代川柳」で会員誌友投稿ページの選者を務めることになった時、ふと「年齢」を意識したことがありました。
当時のわたしは40代後半。投稿者で同年代もしくは年下は少数です。句会とは違い、川柳誌では選者を選ぶことは出来ません。イヤな言い方ですが、誌面に作品が載るためには「この若造が」と思う選者であっても、投句せざるを得ない状況なのです。
もちろんわたしとしては誠心誠意、全身で選をすることしか出来ません。その瞬間の自分の持てる力を尽くす以外手立てはないのです。もしかしたら、もっと年齢を重ねたわたしなら採った句もあるかもしれません。でも、そこは諦めていただくしかありませんでした。
そこで「わたしもいつかは年下の選者に委ねることになるのだ」ということに気付いたのです。今、20歳30歳も年下のわたしに投句してくださった先輩たちのように、わたしも無心で投句出来るでしょうか。
そう、若くして始めたせいか、わたしには「下っ端根性」がとことん身に付いています。歳も若い、柳歴も浅い。そうなれば、誰に遠慮することなく「下っ端でーす」をやれてきたのです。
しかし、ぼちぼちと川柳界にも新しい世代が入り始めています。そこでは、わたしも立派な古株にカウントされます。今まで体験してこなかった立ち位置に、すこし戸惑ってもいます。
だらだらと書いてきましたが、言いたいことは二つです。
一つ目は「川柳を始めるのに年齢は関係ないが、自分が求めた時にはすぐに始めよう」です。川柳に出逢う年齢は自分ではどうすることも出来ません。しかし、川柳を始めたいと感じた時に始めるのは自分の意思です。やってみたいけど自分なんて…と躊躇する時間こそ無駄としか言えません。
二つ目は「新しい才能を『若い』で片づけるな」です。若いからすごいのではなく、その人だからすごいのです。わたしもうっかりすると「若い人は~」と口に出る年頃になりましたが、あれほど自分を苦しめた「若い」は撲滅せねばと思っています。大体、20代やそこらの子に「若い」って言っても、何も言ってないのと同じですよ。
高齢化を憂うる声も高いですが、わたしは無理に若者を引き入れようという気はありません。それよりも「魅力的な文芸である」ということをアピールしていきたいと思います。魅力的な場所であれば、年齢関係なくみんな入ってみたいなと思うじゃないですか。理想論ですかね?