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川柳閑話vol.10:川柳の「読み」について

 とある土曜日の朝に散歩していて、ふと思いついたので次のような呟きをTwitter(現X)に流しました。

 思えば、川柳を始めた頃からずっと、自分が好きな句について「これはこうでああでこんな意味ですよね!」と言いたがる傾向があります。
 幸か不幸か、作者の方にお会いできる環境だったため、作者相手に句意を説明することになり、多くの場合上記ツイートのように「そこまで…」と当惑されていました。
 作者が「そこまで…」と言っても、わたしはそう読めてしまったのですから、自分が受けた感銘は譲る気はありません。それは読者の特権であり、作者にも触れることの出来ない領域だと思っています。

「そこまで…」と言われた中でも、印象深いエピソードをひとつ。
1997年の川柳大学の大会での題「神」の披講でした。

 いまを愛しています神よありがとう 中戸川千賀

 この句を聞いた瞬間に、わたしは身震いしました。
 文字面だけ見れば「現状を肯定し、神に感謝している句」です。けれど、伝わってくるのは、全く正反対の意味でした。

 今を愛している人は、わざわざ口に出してそのように言いません。おそらく、望ましくない状況に追い込まれて、神に対抗するような気持ちになったのでしょう。あなたが試練と思って与えた環境らしいが、そんなものにわたしは負けはしない。むしろ、自分の限界を試すチャンスとして捉えるよ(もちろん皮肉)。だから「神よありがとう」。この「神よ」と呼びかける不遜な声、「ありがとう」と対等に立った物言い。これに惚れずに、何に惚れる!

 と、披講終了後に千賀さんを捕まえて弾丸で話したわたしなのですが、捕まった千賀さんはむしろ怯えるように「あの句、締切間際に出したから、何が良かったか自分でもわからないのよ…」と仰ったのでした。

 もちろん、わたしも他の方の読みに「ああ…そう読まれちゃうんだ…」と戸惑ったことがあります。

 泣かないでわたしあなたのママじゃない 徳道かづみ

 この句は、当時付き合っていた男性が社会人になりたてで(わたしは学生だった)、その仕事の愚痴を延々と聞かせるようになったのに辟易して作ったものです。
 ところが、ある句会に出た時、わたしの母世代の先輩たちが「自分の娘に言われたかと思って、ドキっとした」と仰るのです。そして、更に追い打ちのようにわたしの母(誌友)が「あれ、私のことを詠んだの…?」と電話してくるではないですか。
 わたしとしては、実体験の恋の中のワンシーンを皮肉っぽく詠んだと思ったのに、母世代は自分の娘にいろいろ愚痴をぶつけていることを後ろめたく思っているのだな、と気付いた一句でありました。

 そう読まれることが嫌だったわけではありません。そう読めるんだ、という新鮮な感覚がありました。わたしは原則的にわかりやすいシンプルな句を作っているという自負があるため、自分が意図した句意とそう離れた感想や評はあまりいただくことはありません。いろいろ読めるのも、また川柳の楽しみであると思っています。

 そして、最近歌人の枡野浩一さんが、インタビューで気になる発言をされていたので、このようなツイートをしました。

 枡野浩一さんは、わたしが大好きな歌人のお一人であり、かつて「川柳新子座」に投稿されていたことも知っていました。良い川柳も書く方なので、短歌と川柳両輪でされたらいいのにとも思っていました。なので、新子先生の読みの方が良いから向いてないと思った、という理由は驚きであり、そう思う方もいるのだという新鮮さがありました。

 わたしは時実新子に惚れて川柳を始めましたが、多くの方のように句集『有夫恋』から入ったのではありません。書籍となった「川柳新子座」から入ったため、川柳の「句」と同時に川柳の「読み」も一緒に体験し、川柳の道に入ったのです。
 枡野さんはご自身が作った句意以上に新子先生の読みが広がったため向いてないと判断されました。しかし、わたしはこの音数で綴られた世界をここまで読んでもらえるのだ、という衝撃で川柳をやりたいと思ったのです。

 なので「句に対して自分はどこまでも読んでいい」というのは最初からあったかもしれません。けれど、相次ぐ「そこまで考えて作ってない…」との言葉に、「わたし、深読み好きなので…」と言うようになりました。
 川柳始めて四半世紀経った今なら「わたしの読みです」と言えますが、まだ始めたばかりの若造には「作者の意図しないとこまで妄想する、少し厄介なことをしている」という意識もあったのだと思います。

 川柳は様々なドラマや意味を濃縮した文芸だと思っています。
 ユダヤ教典には「理解されない夢は、開かれない手紙のようなものである」という言葉があるそうです。その意味で言えば「読み解かれない川柳は、誰にも届かない手紙のようなものである」と言えるのではないでしょうか。

 その意味で「そこまで考えること」を川柳の読者の役割だと考えるのです。すでに書かれた手紙は開かなければその心は伝わりません。
 
 ただ、その際に注意したいのは「そこまで考える」というのは、読者の役割であり特権でありますが、義務ではないということです。
 作者は、読者が読む気のしない手紙まで開くことを強要してはいけません。自分ではっきりと記していないのに、読者にわかって!と思う察してちゃんになってはいけません。
 作句と読みは独立した作業であり、依存関係になってはいけないのです。

 と、つらつら書いてきましたが、句の読み(評・感想を書く)は、わたしにとっては楽しいものです。心を打たれる体験をしたら、誰かに言いたくなりませんか? また「これはわたしだけが読み解けた!」という傲慢読みも鼻息荒く披露したくなりませんか?

 何より、何故この句に感動したのか、言語化していくことは快楽です。
 ああ、こんな風に自分は感銘を受けたのか、と。

 あと作者としては、せっかく書いた手紙(句)は誰かに読んで欲しいですよね。自分がして欲しいことは、他の人もして欲しいことだよね…と思っています。

 誤読や深読みという言葉にわたしも怯えていました。でも、この世に誤読や深読みなんてものは存在しないと思ってもいいです。どのように読もうと、それは「あなたの読み」だからです。誰かの読みが絶対になることはありません。みんながみんな「自分の読み」を持ち合うことで、その句はよりよく伝わっていくのだと思います。

もっと軽薄に自分の読みを披露していきましょう!

#川柳 #徳道かづみ



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