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古川柳かづみ読み vol.7:テーマ「子ども」

 これを書いた頃は、周囲の友人たちの子どもたちも小さかったなぁとしみじみしました。集まりでよく子どもたちを構っていましたね。


▽まえがき

 今回のテーマは「子ども」でいきますが、その前にシチメンドウな話を少々。「子ども」という概念が「発見」されたのは、明治時代からのことらしいです。明治五年に布かれた「学制」によって、年齢別に子どもたちを区切ったことから「子ども」という概念が確立された、と。
 それ以前は「小さな大人」と扱われるか、もしくは“七歳までは神のもの”という認識で「人」としてカウントされなかったとか。大人になる通過儀礼を「成人式」(人に成る式)と称するところにもそれは表れていますね。
 ですが江戸時代、川柳では“子ども”がイキイキと描写されています。

▽乳をかめど子の歯の生(はゆ)る嬉しさよ

 乳歯が生えてきたのでしょうね。それまでなかった歯が乳房に当たるかすかな痛みを、子の成長の証として喜ぶ母親の気持ちがよく表れています。

▽乳(ち)ををしむ気から小児の欲もでき

 おっぱいを飲みながら、もう片方の乳房も自分のものだ、と掴んでいるのでしょうか。この乳は誰にも譲らない、という欲が赤ん坊にも湧くのですね。その授乳を見ている父親は、どんな気持ちでいるんでしょう?

▽もどかしや ははも口あくくくめばし

「くくめばし」とは、幼児に箸で食べ物をふくませてあげること。子どもがなかなか食べ進まないので、じれったくなった母親が自分の口を開けつつ「はい、あーん」と言って促している姿です。現代と変わらぬ光景ですね。

▽はえば立てたてばあゆめの親心

 親心を詠んだ有名な一句。我が子に「もっともっと」を期待するのは、江戸時代でも変わらなかったんですね。
 この句には<這(はえ)ばたて立てば走れと親ごころ>という同想句があるんですが、立ったばかりの子に走ることを期待しちゃいけないでしょ。けど、案外こっちの無理な期待をかける親が多いような気がするんですが……。

▽抜けたるを百にみせたき親心。

 親心の句をもう一つ。「百」とは「百文」の略で、銭さしに通してまとめた百文から銭を抜けば一本として通用しないところから、足りないところのあることを「百の口が抜ける」といったそうです。
 親から見てもどこか足りない我が子だけど、なんとか「一本」に見せたいと頑張ってしまうのが親心。勉強嫌いの子に、塾や家庭教師をつけて有名私立に入れようと試みることなどは、この句のような心境じゃないかと思います。

▽小便を申(もうし)送りに子をわたし

 子どもを近所の人にでも預けたのでしょうか。「トイレは一時間前に行ってます」と申し送りをするのは、子守りを頼む側の礼儀みたいですね。
 わたしもごくたまに友人の子どもの見張りをすることがありますが、まあ、子どもって遊んでるとギリギリまでトイレ我慢しますね。「おしっこ~」と訴えて来た時には、もう漏らす寸前だったりします。やがて学習して、一定時間置きに、トイレに連れていくようになりました。

▽ころんだ子おこされる迄まつている

 この句を微笑ましく思うかどうかで、人間性を問われそうですね。わたしなんかは「さっさと立てよ。甘えてんじゃねー」と思うタチですが、そうではない人もいて、

▽転ぶ子に道理を付て扣(たた)く石

「坊っちゃんが転んだのは、この石が悪んですよ。この石め!この石め!」と、罪なき石をぶってみせる人もいたようです。石にしてみれば、ただそこに居ただけなのに、ガキ…もといお坊ちゃまに蹴飛ばされた挙句、乳母だか子守りだかに叩かれたんじゃ、堪りませんね。

▽竹の子のようだとあげをおろして居

 子どもの成長は早いです。それを「竹の子みたいにニョキニョキ育つこと」とおどけた風に言い、「また着物の上げを下さないといけないねえ」と嘆きながらも、我が子の成長を喜ぶ“嬉しい悲鳴”ってヤツでしょう。
 わたしも友人の子どもへの贈り物は、少し大きめの服と決めています。ジャストサイズを送っても、すぐ着られなく可能性が高いので。そして必ずブランド物。ママになった友人の「これ、よそ行きにするね!」の一言のためです。独身貴族のささやかな見栄です。

▽尋(たずぬ)るをこちらから出るかくれんぼ

 かくれんぼの意味ないじゃん……などと言ってはいけませんね。最初のうちは上手く隠れてご満悦でも、なかなか見付けられないと不安になります。「○○ちゃん、どこ~?」と呼ばれ、「ちゃんと探してくれたんだ!」と安堵して出てしまったものと思われます。子どものかくれんぼではよくある風景です。

▽ままごとも親仁の酒にねばい真似

 ままごとの基本は、父親役・母親役などに分かれて行うもの。振られた役割を演じる時、見本になるのは自分の家族ですね。呑んべえの父親を持つ子が、父親役を受け持ち、毎晩展開されているクドい(ねばい)酔っ払いを再現したのでしょう。子どもは、実によく親を観察しているものです。親仁殿には、我が子の真似を見て、大いに反省してもらいたいものです。
 
 ところで、実はワタクシ子どもは苦手。なのに、何故かよく纏わりつかれるんですよね。まあ、単に同レベルと思われているだけのようです。タメ口で話されるし。ふう。

現代川柳研究会「現代川柳」2013年5月号掲載分を加筆修正
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