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一橋悠実第一川柳集『低空飛行』発行によせて(私事多め)
長くなりましたが、読んでくださいね。姉ちゃん、嬉しくてよ。
1:川柳甲子園とは(かづみの私事多め)
2024年12月、ついに一橋悠実の第一川柳が発行された。どこかノスタルジーも感じさせるほんわりした装丁はとても悠実らしく、一目見てにこにこしてしまった。
一橋悠実はわたしの非公認後輩である。何の非公認か?ご本人のである。わたしが勝手に「悠実はわたしの後輩」と思っているだけなのである。そして、わたしが正式に「後輩」と呼ぶのは一橋悠実だけでもある。
わたしたちが育ってきた川柳環境では、先輩-後輩は厳しく問われなかった。もちろんベテランに対する敬意、新人に対しての丁寧な指導はあったが、「1日でも早く入門した方が先輩」といわれる寄席のようなルールはなかった。なのに、わざわざ一橋悠実を「後輩」と呼ぶことについて、少々綴ってみたいと思う。
わたしは1997年より時実新子の「川柳大学」の誌友になった。当時24歳。わたしだけが20代ではなかったが、他の20代~30代は主に関西在住だった。関東勢では常に「末っ子」として可愛がってもらった。師匠である新子先生に「末娘」と称されたこともある。長らく末っ子でいたので、完全な中年になった今も甘える癖が抜けきらない。2024年現在。さすがに、28年もやってくると、新しい方がどんどん川柳を始め、最近は若い作者も増えてきている。
それでも、わたしにとって「後輩」は一橋悠実、ひとりだ。
その大きなところは彼女が、時実新子の月刊「川柳大学」で開催していた「川柳甲子園」出身だということにかかっている。
月刊「川柳大学」開催の「川柳甲子園」は2000年7月号(第55号)から2002年12月(第83号)まで開催された。
目的は若い川柳の書き手の発掘だった。当時現役高校教師が2名おり、毎月の選と選評を担当した。全国のここぞという学校に案内を送り、「甲子園」担当となった会員の教師も、学校で課題として作句する時間を作ったりしていたらしい。会員誌友で高校生のお子さんがいる方は、我が子に投句するように勧めていた。
本名で投句された一橋悠実の句は「川柳大学」2001年10月号から確認することができる。2002年に入ると怒涛の入選ラッシュ。今回の句集にも収められている <自分って誰ってたまに思うんだ>は2002年9月号(第81号)で堂々の特選に輝いている。
しかし、「川柳大学」開催の「川柳甲子園」は開催28回で終焉を迎えた。入選者の固定化、投句者の減少が要因だった。
当時、「川柳大学」編集部は東京にあり、わたしも参加していた。
ある日、曽我六郎編集長はこのように言っていた。
「主に、実業系の高校に案内を出している。進学校だとまだ4年間の学生生活がある。実業系の高校だと就職率は高いと思わるし、社会人になれば自分が好きなことに出せるお金を持つことになるからな(大意)」
川柳甲子園を卒業した後に、「川柳大学」へ入学してくれることを願っていたのだ。
「川柳甲子園」を話題に出すと、「俳句甲子園の真似っ子じゃんw」と茶化されることも多かった。けれど、「川柳大学」開催の「川柳甲子園」から1名でも多く川柳への道を歩み始めてくれる人が現われることは、我々の悲願だったのだ。
悠実はお祖母さまに勧められて「川柳甲子園」へ投句を始めたという。そして、お祖母さま宛てに届いた隔月刊「現代川柳」の創刊号の案内を譲ってもらって入会を決めたそうだ。「甲子園」終了後、期間は空いているが、そこで再び川柳の世界に飛び込んできた。
本名ではなく、川柳作家「一橋悠実」となって。
くどいほど言っているが、わたしは「時実新子が目指す川柳」が川柳というものであるならば、川柳をやりたいと思い、始めた人間だ。
悠実も「川柳」をやるならば、新子の水脈が流れている場だと思い定めたのだと思っている。
では、いつわたしが一橋悠実を「後輩」と認識したのか。
実ははっきりとしたタイミングは全然覚えていない。いいかげんなものである。うっすらとした記憶だが、誰かに「一橋悠実さんって、川柳甲子園の〇〇〇〇さんやで」と言われて、へえ、って思ったところからのような気もする。そこから一橋悠実の句に注目するようになり、「ああ、この子、わたしの後輩なんやなぁ」と思い始めたように思う。
一橋悠実川柳の一番好きなところは、独特のリズム、ブレスの入れさせ方だ。強い勢いとともに読み下すことを読み手に求める句姿は、他の作家には見られないものだ。
ただ、今回の句集にはその「最も一橋悠実たる」部分を持った句はなかった。どういうことか。
悠実はこの句集について「川柳を詠み始めてからの10年分」を載せたという。つまりは「一橋悠実」となる前後、ということだ。
それは、一番無防備な時期の作品をまとめて、世に問うということだ。
無防備とは弱さではなく、強さだ。そこに悠実の柔らかな覚悟を見る。
句集「低空飛行」を読みながら気づいたのは、もしわたしが10代から川柳を作り悠実ほどのスキルを持っていれば、このように詠んだかもしれない、ということだ。
実際のわたしの10代は短歌であり、悠実ほどのスキルを持たないわたしは隠したい黒歴史作品ばかりが残っている。
そう、わたしは悠実が羨ましく、眩しいのだ。
自分は出来なかったことをたやすくやってのけ、しかもこんなやさぐれた輩を「かづみさん、かづみさん」と慕ってくれる。
これを「後輩」認定せずにいられるかね?
ちなみに、わたしが悠実さんと実際にお会いしたのは1回だけだ。神戸の大会で、廊下でお話したのだけど、現実世界では極度のコミュ障のわたしはアワアワしていた記憶しかない。
その後、隔月刊「現代川柳」2019年3月号で一橋悠実の作家紹介が企画された。当時編集長の渡辺美輪から「50句を読む」を担当して欲しいと依頼が来て、あたし以外誰が書けるんじゃい!と意気込みながら書いた。
その一節。
一橋悠実は揺れている。過去を振り返り、現状にもがき、未来に希望を向ける。(中略)その<揺れ>を、あえてわたしは「若さ」とは言わない。(中略)若かろうが歳を重ねていようが、この<揺れ>に気付かない人は、一生気付かない。そして、それを表現することもない。一橋悠実の才能を「若さ」という言葉で括ることも許さない。
今読み返すと、誰に怒ってるんじゃい?って文章だが、悠実に向けられるある種の悪意を排除したくて、つっぱって見せたのだろうなぁと思う。
ま、悠実。誰かに喧嘩売られたら、あたしの名前で買ってきなさい。「先輩」のあたしが落とし前付けてやるからさ。
最後に。
おそらく、悠実自身が思う以上に「川柳大学開催の川柳甲子園出身」はしばらくは強調されると思う。でも、それに慣れると同時に、誇りに思ってほしいと思う。
大谷翔平がどんなに世界記録を叩き出そうと花巻東高等学校は「おらが学校の誉れ」だし、どれだけ文壇の重鎮になろうと林真理子のデビューは「ルンルンを買っておうちに帰ろう」なのだ。
あなたはわたしたちが見たいと願った希望の星として輝いているのだから。
2:「低空飛行」より
<水たまり今日はこれだけ泣いていた/一橋悠実>
⇒泣いた涙が水たまりになった、という句は山ほどあるだろう。水たまりをみつめるクールな距離感。さらに「今日は」の一言で、泣く場面は1回だけではないことが想像される。
<今はまだ低空飛行のままでいる/一橋悠実>
⇒実は最初タイトルを聞いたとき、少し自虐が入ってないか?と心配になったのだけど、この一句でなるほどと膝を打った。
今は「まだ」。いくつものロケット弾が打ち上げられては派手に散っていった。上昇するのはまだ様子見。機が熟したら、さあ決行!
※ただね、あたしもそろそろ老後が見えているので、早く高く飛ぶ悠実号を見たいです。次の句集は早めに出してもらえると嬉しいなぁ。
3:一橋悠実『低空飛行』入手方法
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