当事者から部外者になることで同じ風景が変わって見えたこと
私は昔、公共インフラに関わる仕事をしていました。
新卒でその会社に入社し、4年半の期間、設備の維持管理を行う第一線現場に配属されていました。
私が新卒で入社した会社での仕事について
そこでは、日々、各地に点在する設備が健全な状態でトラブルなく稼働するように、定められた項目の点検を行なったり、経年や環境要因で劣化してしまった部品の修理や交換を行う修繕工事を施工会社が実施する監理をしていました。
これらは通常状態での計画的な点検や補修作業です。
しかし、厄介なのは、このようにあらかじめ設備の劣化状態や耐用年数に応じて計画された点検や補修以外の、イレギュラーな点検や補修作業でした。
それは、悪天候や自然災害によってもたらされる設備の運転停止や損傷に伴うものです。
例えば、急速に発達する低気圧の影響による豪雨、雷、強風、竜巻、海からの潮風が内陸に流れ込むことによる塩害汚損、台風による洪水、土砂崩れ、暴風、大地震といったものです。
私が現場勤務だった当時は、悪天候の予報が発令されると、自然災害による設備運転の停止や設備へのダメージが発生した場合に、いち早くその復旧に対応できるよう、担当班のメンバー達は、事務所内に待機を命じられました。
そして、設備保守責任者の指揮のもとに役割分担され、メンバー達は気象情報のモニターの様子を確認しつつ、何か異常の警報が入れば即座に応動できるような体制になっていました。
設備の数は非常に多く、それも管轄地域に広く点在しているため、何処かの設備でトラブルが発生した場合、現地に状況を確認に急行しても、遠い場所だと車で1時間半はかかるような場合もありました。
このように、自分達人間がコントロールできない原因によって、いつ設備がダメージを受けるか分からない、そして、公共事業という性質上、健全に設備が稼働していることが当たり前で、例え原因が自然災害であっても、使えなくなると社会に大きな影響を与える設備を管理するという仕事は、縁の下の力持ちとして遣り甲斐がある一方、常に頭の片隅から仕事の事が離れない。
という責任の重さを感じながら日々の生活を送っていたものです。
もともとは小学生の頃、なりたかった職業
この会社で仕事をすることは、小学生の頃からの夢でした。
思い返すと、小学校の卒業文集の、将来なりたい職業というコーナーに、私は、
「将来この仕事をする会社に入りたい。」
と書き綴っていました。
傍から見ると、何と夢のないつまらないことを考えている子供なんだろう。
と、思われるかもしれません。
私が小学生だった40年前、男子児童がなりたい人気職業と言えば、
1.パイロット
2.プロ野球選手(当時はまだサッカー選手というのはマイナーでした)
3.医者
といったものが多かったと思います。
そんな中、私はあまりにも現実的な、
「〇〇会社に入りたい。」
という固有名詞を書いていました。
この文集を読んだ友達の両親達はきっと、
「〇〇さんの息子さんは、きっと両親から、「あなたは将来この会社に入りなさい!」と、口が酸っぱくなるほど言われていたんだろうね。」
と話していたことでしょう。
なぜ私が、子供の頃に、この仕事をしたいと思っていたのか?
それは、まさに私の両親の影響です。
私の父が、自分と同じ分野の仕事をしていました。
と言うか、父が仕事をしていた業界の会社に私も入社したのです。
私は幼少の頃から、母から父の仕事について話を聞かせられていました。
「お父さんの仕事は、皆んなのための大切な仕事なんだよ。」
大雪や地震があった時は、数日間家に帰ってこない時もありました。
そんな時も母は、
「お父さんは皆んなのために今頑張っているから、寂しくても我慢しようね。」
と、常に父の仕事が人の役に立つ素晴らしい仕事なんだ。と言うことを私に教えていました。
実際、父が作業服を着て仕事から帰ってきた姿や、
自宅に難しそうな数字が沢山並んでいる分厚い帳票を持ってきて
電卓で計算をしていたり、
これまた自宅で鉄筆で半透明の紙に文章を書いている姿を見ていると、
父がやっている仕事がとても凄いことのように感じていました。
そのような、母からの言葉と、父の背中を見て育った私は
自然と、
自分も将来この仕事をやってみたい。
父のような、人様の役に立つ仕事をしたい。
目立たないけど、縁の下の力持ち的な仕事がかっこいい!
と思うようになっていたのです。
母の言葉は確かに、現代の言葉を使えば、「マインドコントロール」的な要素があったかもしれません。
所謂、洗脳ですね。
私もこの文章を書き始めた時は、自分は洗脳されたんだ。と思っていましたが、書いている内に何だか少し違うような気もしてきました。
それは、母の言葉はともかく、私は父が実際に仕事をしている場面を見ているのです。
そして、自分が見た光景から、その仕事をしている父の事をかっこいい。と思い、文集に、あのような言葉を書いたのです。
ですから、親に強制された訳ではなく、自分自身が納得した上で書いた夢だったのですね。
そして、その夢は実現しました。
公共事業を行う会社を辞めたあとに設備を見て思ったこと
私の夢だった、この会社に入社して十数年が経過しました。
4年半の第一線職場からの異動で、本社の海外事業を行う部署の勤務となり、その後は最初に担当していたような設備を保守する業務を第一線現場で行うことはありませんでした。
当時は、自分達が管理を行っている設備については、守らなければならないもの。という責任感と義務感があり、設備そのものについてその良さや味わいを楽しむ余裕はありませんでした。
しかし、とある事情からこの会社を去り、その会社が所有管理する施設を当事者から部外者という立場に変わって見るようになって10年が経過する現在、それらの設備の見え方が変わったような気がします。
それは、
・その設備そのものの造形美を愛でる
・ある設備を見て、その設計者がどのような考えでそのような見栄えの設備を設計したのか、という思想に想いを馳せる
・自然の中にその設備がある風景に美しさを感じる
という、設備そのものを見て楽しむ視点が芽生えたことです。
かつて守る側の人間だった頃は、
・この設備が損傷したらどのような悪影響が波及するか
・その損傷を修復し、再発を防止するためにはどのような手法を採用すれば良いか
・設備損傷や、設備の存在そのものの影響で周辺環境に影響を与えた場合にどのような対応を行うべきか
という、ネガティブな面ばかりに神経をとがらせていました。
しかし、立場が変わることによって、心に余裕が生まれるというか、責任を負わせられないことで、同じものをもっと自由な視点で見る、という発想の転換が出来ることに気が付きました。
このことは、私と設備の関係だけでなく、別の業界に身を置いている方についても当てはまるものがあるのではないでしょうか?
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