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バンドブームの派生について(BSTBS「X年後の関係者たち」感想①)

先日のBSTBSの「X年後の関係者たち」、“バンドブーム”がテーマでした。
この番組、かつての何かしら社会現象化したムーヴメントをその当事者を交えて語ってみよう…というカズレーサーが司会の番組です。
かつては“G-SHOCK”とか“コギャル文化”とか“海洋堂”とかやってて、なかなか興味深く視てたのですけど、わが青春を費やした“バンドブーム”を取り上げるというなら、黙っているわけにはいきません。

さて、おおまかに、①その派生のきっかけとその流れ、②その終焉と功罪…いう視点で語っていきたいのですが、本日は①の派生について考察してみようと思います。
まず、そもそものバンドブームとは何なのかをいつものようにwikiでみてみたいと思います。

バンドブーム
BOØWY、HOUND DOG、レベッカ、TM NETWORK、BUCK-TICK、ZIGGY、SHOW-YA、米米CLUB、プリンセス・プリンセス、爆風スランプ、LINDBERG、JITTERIN'JINN、PERSONZ、X の台頭による、1980年代終盤から1990年代前半にかけてアイドル、ヒットチャート番組の衰退と入れ替わるようにして起こったロックバンドの一大ブーム。特に、THE BLUE HEARTS、UNICORN 、JUN SKY WALKER(S)、THE BOOMの4グループは「バンド四天王」と呼ばれている。1991年には歴代最高の510組のバンドがメジャーデビューした。時期的には概ねバブル時代とほぼ重なる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/バンドブーム

ふむふむ…これで大まかな代表バンドの名はわかりますな。活動自体は80年代前半からしているバンドばかりです。それがなぜ90年前後のこの時期に一気に注目を浴びるような潮流になったのでしょうか?
このことを、少し考えていってみたいと思います。

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バンドブームの派生について(番組中の3つの柱に沿って)
番組中では、ブームはポイントとして3つの柱があるとしました。「インディーズブーム」「ホコ天ブーム」「イカ天ブーム」です。

イカ天は、TBS系で放送されたオーディション的番組「三宅裕司のいかすバンド天国」のことで、ブーム自体を消費してしまったという“象徴“でありました。なのでこれは②の終焉の方で詳しく触れたいと思います。

ホコ天は、原宿歩行者天国のことで、70年代から続くストリートパフォーマーの延長としてバンド演奏が盛り上がった80年代中庸以降の様子を示します。ただ局所的な現象でありましたから、地方民にとってはメディアを通してしか触れることはできませんでした。

だから、やっぱり一番重要なのは「インディーズブーム」ということになるのでしょうか。自主制作盤自体は数年前に出た本「和ンダーグラウンド」を読んで70年代の早い段階から結構あったのはわかったのですが、やっぱり海外のパンクシーンからDIYの精神を学び、インディーズレーベルという形で活性化していったのは東京ロッカーズ以降でしょう。

東京ロッカーズは、70年代末期から80年代初頭にかけての動きなので、バンドブーム自体とは約10年の隔たりがあります。この10年間に日本におけるロックの概念や芸能界における立ち位置の変化があり、少しずつシーンが成熟していったと思われます。

番組のコメンテイターはイカ天の審査員だった荻原健太、ファン世代の代表綾小路翔、バンド当事者として筋肉少女帯の大槻ケンヂ、たまの石川浩司でした。後者二人はともに「ナゴムレコード」に在籍していました。同じレーベルメイトなら話の具体性はでるだろうけど、画一的な視点にならなかと思ってしまった次第。

ですが、バンドを始める初期衝動的な部分でともに「ザ・スターリン」の名をあげていたのは印象深い発言でした。遠藤ミチロウの奇行的パフォーマンスが、ショック的かつ都市伝説的に拡散していった背景から、その舞台となった“ライブハウス“というものを当時の中高生に意識させたことを、リアルタイムで感じていたのかもしれません。

実はこれ、上記ツイートで、“ハードコアを除けば“と書いたことにもリンクします。というのは、スターリンの82年のメジャーデビューを契機としたのか、翌83年くらいから異様な数のハードコアバンドが全国的に展開していくからです。
こうした背景として、東京ロッカーズに薫陶を受けた80年代前後にバンドを始めた世代が、やがて数年後スターリンに刺激を受け、速度を上げ過激化していった…という部分が少なからずあった思うのです(むろん、本家DEATHCHARGEの直接的インパクトも絶大だったとは思いますが)。
なので、インディーズの先駆けと言われるADKレコードを立ち上げたのが元ザ・スターリンのG. のTAM氏であったことは重要です(スターリンにいたことで現場の“熱さ”をいち早く感じ取ったという解釈です)。
さらにいうと、そのADKレコードの最初の作品として82年にソノシートを出し、あったいう間に完売させたのが奇形児というバンド。その奇形児のG. 関口博史は、のちにデビュー時の筋肉少女帯に参加しており、この界隈の不思議な因縁を感じます。

そのADKに追随したのが、大阪のLAUGHIN' NOSEが先導したAAレコードでした。インディーなのにUSENリクエスト入りする「GET THE GLORY」のヒットもあり、彼ら自身がメジャーに進出していくきっかけを、文字通り示したレーベルでもありました。
85年ごろになると、有頂天THE WILLARDともども、「インディーズ御三家」と呼ばれるようになります。有頂天は先のナゴムレコードを主宰し、THE WILLARDは、番組内でやたら連呼されてた雑誌「宝島」が運営していたキャプテンレコードに所属していました。このTHE WILLARDも、Vo. のJUNがスターリンに参加したりと、こちらも因縁があります。パンク界は狭いw

そんなわけで、運営という形でメジャーデビュー以外の道で収入を得られるようになって、自らのプロデュースによりスタイルや活動の縛りを受けないという形が、少しづつ前に進んでいったように見えます。

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さて、「インディーズブーム」が「バンドブーム」への重要ミームなのは、“青田刈り”という言葉に象徴されるように、売れる要素としての叩き台であり、保証であったということですね。だからメジャーにいけないからインディーで活動していくしかなかったのに、その結果をメジャーに査定されるという状況に陥ります。
ファンから見ても、いかに“俺たちのバンド”をみつけまた育てていくか…みたいなとこがあったので、音を聴くことをきっかけに、現場のライブハウスに足を運ぶという循環も出来上がっていったのですね。

このあたりが確立したのが87年くらいでしょうか。この頃になると、インディーシーンを牽引していたパンクのみならず、ポストパンクやNWから派生したビートバンドや、R&R、さらにはメタル系、プログレ系、ファンク系など、あらゆるジャンルに飛び火し、大きなうねりを見せていくことになります。
すでにインディーズシーンやライブハウスシーンからメジャーに羽ばたいていったバンドも数多く、戦略的に自主盤を出す、TVに出てみる、ヴィジュアルを強化する、ホコ天をやる…みたいな展開も増えだしてきました。このへんの話が「最初からお金を意識してたのはYOSHIKIさん」というオーケンの談話につながるわけですw

つまりは、こうしたビジネス的な算段も含めてシーンが成熟しつつありましたし、バンド自体の数も飽和状態になりつつありました。10年の月日を積み上げてロックというもの自体の価値観を変えるところまで大きく登っていったわけです。
だからこそ、91年に500以上のバンドがメジャーデビューしたにもかかわらず、あっという間に衰退しったのが腑に落ちないのです。
きっかけは何なのかを考えると、もうこれはストレートに「いかすバンド天国」のせいだったと言うしかありません。先ほど三つの柱にあげたにもかかわらず、“諸刃の剣”であったということです。
いやいや崩壊は始まっていた、所詮トリガーだっただけ…という考え方もあると思います。ですが、それならば、なぜあんなに早く番組自体が終焉を迎えなければならなかったか理由がわかりません。バンド、ロック…を結果的にイカしてないような形にしたのは紛れもなく“イカ天”です。次回は、この功罪についても考察したいと思います。 
※②に続く

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