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【都市伝説】織田信長=天海説


6月と言えば本能寺の変が起きた月です。
なので、今回は織田信長と空海の面白い都市伝説についてをnoteにまとめました。

お菓子でも食べながら軽い気持ち読んでくださいね。

本能寺の変は1582年6月21早朝、京都にある本能寺に滞在中の織田信長を明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件です。

そして歴史的には本能寺の変の後、岡山にいた秀吉がわずか8日間で京都まで戻った伝説の中国大返しを成し遂げ明智光秀を討ち、その後織田家の実質的な権力を秀吉が奪い天下を収めました。


本能寺の変は謀反を起こした明智光秀と謀反をされた織田信長共に死亡したことになっています。

しかし、実は本能寺の変は信長と明智光秀の偽装作戦で、信長は本能寺の変のあと別の人物となって生き延びたという都市伝説があります。

この説を裏付ける言い伝えが茨城にある大杉神社にあります。

この大杉神社には本能寺の変のあとに天海が来たという記録が残っているのですが、それとは別に織田信長は本能寺の変の際、女装して明智光秀とともに脱出して、身分を隠して名を天海と名乗り、大杉神社の一角に寺を立てて住んでいたという説があります。

大杉神社


天海は密教を世に広めた超大物の僧侶であり、家康をはじめ、2代将軍秀忠、3代将軍家光につかえた超大物の僧侶です。 

天海については先日noteにまとめたのでそちらも是非読んでください。


さて、天海は幕府の中でいわゆる相談役を勤めており、江戸城の立地場所も天海が決めたと言われるており、ただの僧侶という役割でなく江戸幕府をまとめる参謀役を務めていたそうです。

そんな空海が実は織田信長だったとすると歴史がひっくり返ります。

(明智光秀=天海という都市伝説は有名ですが)

また、明智光秀は本能寺の変の時に京都にはいなくて、本当は鳥羽(三重)におり、直接、織田信長を襲っていない事が最近わかっています。

それは本能寺の変から87年後にまとめられた書物「乙夜之書物(いつやのかきもの)」に謀反に参加した人物の証言があり、そこに光秀本人が本能寺に行かなかったことが書き残されています。

乙夜之書物


また、一明智光秀は本能寺の変後、秀吉との戦いに敗れ、逃げているところを落武者狩りに殺害されました。

そしてその後、殺害された明智光秀の首が秀吉の元に届き、秀吉が明智光秀死亡を直接確認したとされています。

しかし、明智光秀の首が差し出されたとき、首は3つもあったと言われています。

おまけに時は夏で光秀の首は腐敗し原型を留めていなかったのです。

ところが秀吉は、3つすべてを明智光秀の首と強引に認定してしまいました。

かなり無理のある話しですが、一刻も早く光秀を殺した事にして信長の仇を討った功績を形にしたかったからで、実際秀吉はこれ以降織田家を事実上乗っ取ることになります。

これはつまり、秀吉はもともと光秀を利用し謀反を計画していたが、裏ではその後、明智光秀を殺害する計画だったことが想像できます。

もし、仮に秀吉の企てを明智光秀が知ったとしたら、明智光秀と織田信長が合作して本能寺の変を偽装し、信長は名を変えて生存していた可能性もあるかもしれないので、あながち信長が天海と名乗り、徳川の側近となって活躍したという事もあるかもしれませんね。

最後に、大杉神社には板荷のアンバ様というお祭りがあります。

その祭りは天狗が各家を回り、「アンバ様大杉大明神、悪魔払ってヨイのヨイのヨイ」と唱える祭りです。

日本のお祭りで悪魔というキーワードはすこし違和感があるのは、大杉神社に訪れた天海を名乗る織田信長の影響ではないかと言われています。

織田信長は平氏(日本の皇族がルーツ)の末裔を自称していますが、実は忌部氏の末裔だったと最近言われてます。

忌部氏は簡単に言うと神社の神官で、ユダヤ教がルーツなのでは言われてます。

その為、織田信長は天海と名乗りこのユダヤ教の悪魔払いを大杉神社に伝えた。
そしてその名残りがお祭りに残っているのかもしれませんね。

さて、今回は信長=空海説というかなり眉唾モノの都市伝説を紹介しました。
個人的には陰謀論とかよりもこう言った歴史ロマン系の都市伝説が好みなので真実味は薄いですが、好きな都市伝説です。

最後まで読んでくださいましてありがとうございました!

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