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No.970 GAFnet(ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット)でのフォーカシング&ゲシュタルト療法勉強会で感じたことを書いてみる…

写真は奄美大島の島バナナだ。とても甘みがあって旨い。
テーマとは少しズレるが、皆さんは普段食べているバナナの味が🍌バナナ本来の味なんだと思っているかもしれない。

しかし、本来のバナナの味はその何倍も甘いことはあまり知られていない。
私は本物のバナナ🍌の味を体感した時、あまりの旨さに絶句してしまった。

それはなぜなのか🙄🙄この話はまた次回にでも、、

さて、鹿児島で心理療法を実践しているGAFnetで8/25、フォーカシング&ゲシュタルト療法の勉強会を開催した。

今回はフォーカシングとゲシュタルト療法の違い、そして、フォーカシングをセルフで行う練習を3時間ほど。

フォーカシング指向心理療法とは、哲学者でもあり、心理学者でもあるユージン.T.ジェンドリン博士が作り上げたものである。

まだ言葉にならない前概念的なカラダの感覚に注意を向けることで気づきを促す。

ゲシュタルト療法は、フレデリック.S.パールズが創始した心理療法であり、今ここでの気づきを大切にし、気づきによって、私たちの感覚を統合していくものである。

似ているようで、非なものだ。

どちらかと言えば、フォーカシング指向心理療法の中にゲシュタルト療法も内包されると言った方が良いかもしれない。もちろん、私見なので、この点については異論があると思う。

ゲシュタルト療法は図と地という理論の下にアプローチを行い、今ここでの気づきを促しながら、図と地の転換によって、気づきが深まって行く。

図とは私たちの前景にある出来事や問題、気持ちなどであり、地とは私たちの前景から背景へと流れたもの、または、まだ私たちの前景に表れていない出来事や問題、気持ちなどを指す。

ゲシュタルト療法においては、この図となっているものへとアプローチすることで、そこに気づきが生まれ、その人の気づきが深まる。
これによって、徐々に統合された私へと変化していく。

この図には色々なものがある。
具体的な出来事や気になっている問題、イメージやカラダの感覚、感情や気持ち、カラダの動きやしぐさ、私たちの思考など。

一方で、フォーカシングにおいては、まだ言葉にならないような前概念的なカラダの感覚にアプローチする。

このカラダの感覚のことをフェルトセンス(意味ある感覚)というのだが、このフェルトセンスが私たちへ気づきを与えてくれる。

このフェルトセンスもゲシュタルト療法でいう図になり得るのだが、ゲシュタルト療法との大きな違いは、思考や感情(情動)にはフォーカシングはダイレクトにアプローチしないということだ。

思考や感情というものは、私たちの表面にあるものであり、本当の気づきはそれよりも奥深く隠れている。

ゲシュタルト療法では、図へとアプローチするわけなので、表層にあるものへとダイレクトにアプローチすることで徐々に深層にある本当の気づきの感覚へと辿り着こうとする。

まさに、玉ねぎの皮を一枚一枚剥いてゆくように表層から深層へと進んでゆく。

そして、その深層にあるカラダの感覚へとダイレクトにアプローチするものがフォーカシングである。
しかし、だからと言ってフォーカシングが強引であるとか、丁寧でないということではない。

逆にとても繊細に丁寧にその深層にあるであろう感覚(フェルトセンス)へとアプローチしていく。

ただ、このフェルトセンスを探し、フェルトセンスに出会うまでのアプローチがとても大切になる。

フェルトセンス自体が繊細で微細な漠としたものであるから、それを探す作業も繊細でなければならないのだ。

最終的に行き着く方向性は同じなのだが、
これがゲシュタルト療法とフォーカシング指向心理療法との大きな違いである。

次に、セルフフォーカシングについてだが、フォーカシングとは一人で、セルフでできることが重要である。

日常の中で、何か気がかりがある時、物事がうまくいかない時などに、誰でも、気軽に簡単にできること、このことがとても重要であり、このことが私たちの助けとなる。

そのためには、やはり何回かの練習が必要である。
最初はうまく行かないかもしれない。

しかし、セルフフォーカシングの練習を重ねることで、誰でも、どこでも、簡単に、実践することが可能となる。

嘘だと思うかもしれないが、そんなに難しいことではない。
何故なら、フォーカシングとは本来私たちが備えているカラダの機能を呼び覚ます、活性化するといったものだからだ。

人間も含めた私たち生き物には生まれた時から本能的なカラダの感覚が備わっている。

しかし、人間だけは思考という武器を手に入れた反面、本来カラダの持つ感覚を鈍らせてしまった。

皆さんは、これまでに何度も自分のカラダへ違和感を感じたことがあるだろう。

例えば、自分の隣に人が座った時、これまで一人だった時とは違う感覚を感じるはずだ。

また、よく知っている人と話す時と、初対面の人と話す時の感覚は違うはずだ。

このように、私たちは常日頃から日常でカラダの感覚は何かしら反応をしているのだが、私たち人間はそれに気づくことに鈍くなった。

特に、今の日本人は危険を察知する感覚が鈍くなっているように感じる。

フォーカシングにおけるフェルトセンスとは、そんなカラダの感覚である。

だから、私たちに備わる、その感覚を機能させることは、そんなに難しいことではない。

錆びついているその感覚を少しだけ、呼び覚ましてあげることができるなら、フェルトセンスを感じることは容易いこととなる。

そのために、ユージン.T.ジェンドリン博士は、フォーカシングショートフォームという6つのステップからなるフォーカシングのやり方を作り上げた。

このやり方については、私のブログNo.968で詳しく説明しているので、参考にしていただきたい。

私自身も今回の勉強会でセルフフォーカシングを実践してみた。

そのセッション内容を簡単に書いてみたい。

私はカラダの胸の辺りに微かな、あまり歓迎しないような感覚を感じた。
それは何か嫌な感じなのだが、言葉にすることのできない感覚であった。

そして、その感覚の原因が何であるのかは私自身も理解していた。それは会社でのある出来事であった。

まず、私はその嫌な感じのある会社での出来事から少し距離を取るために、そのものを私のカラダの左斜め前2メートルほどにイメージで置いてみた。
この気がかりを「会社のこと」とラベルをつける。

すると胸の辺りの嫌な感じは少し薄れ、あまり気にはならなくなった。

次に、もう一度私のカラダへと注意を向け、「会社のこと」以外に何か気がかりはないか確認してみた。

すると、何か漠然とした寂しさが胸の辺りにあった。この感覚へともう少し注意を向け続けると、寂しさだけではなく、ひとりぼっち、私の人生の漠然とした4-5年後への不安が浮かび上がる。
この気がかりを「将来への不安なこと」とラベルをつける。

この感覚全体と少し距離を取るために、そのものを私のカラダの左斜め前1.5メートルほどにイメージで置いた。

そして、その他に何か気がかりがあるか確認してみたが、この2つ以外は出てこなかった。

今、私の目の前には、2つの気がかりがイメージとしてある。

その2つの気がかりを眺めてみる。
私の中では、「会社のこと」よりも「将来への不安なこと」の方が大きな気がかりだと思っていた。
しかし、私のカラダの感覚と照合してみると、「将来への不安なこと」よりも「会社のこと」が今の私には大きな気がかりであることに気づいた。

このことは、思考の判断よりもカラダの感覚で物事を判断することが大切であることを意味している。

そして、私は「会社のこと」について、そのイメージをただ眺めてみた。

そのイメージには、4-5人の会社の若手社員がキラキラした目で私を見ている。

そのイメージを眺めながら、私の胸のあたりに注意を向けてみた。するとそこには、ムズムズとした感覚が横に広がっていた。

これはまさにフェルトセンス(意味ある感覚)である。
このムズムズした感じに注意を向け続けてみる。

それは、ムズムズして、開きそうで開かない感じである。

私は「ムズムズして、開きそうで開かない」この感じに「何がムズムズして、開きそうで開かないんだろう」と尋ねてみるが、ただ行き詰まりの中で何も浮かばない。

そして、尋ねる表現を変えてみた。

「会社での何がムズムズで開きそうで開かないんだろう」

ただ、先ほどの表現に「会社での」を付け加えただけであるのだが、私の中に大きな気づきが起きた。

「そうか、そうか、腹を割って本音で伝え合えば良いんだ」という気づきである。

この気づきは、意図したものではない。
「胸のあたりの開きそうで開かないムズムズ」というフェルトセンスから発せられたメッセージである。

こんな気づきが訪れるとは予想だにしていなかった。

さて、どうして「会社での」を付け加えただけで、このような気づきが訪れたのだろうか。

それは、私たちの状況(環境)とフェルトセンスが交差することによって、もたらしたものだ。

私たちの生きている世界は私たちのカラダの内側ではない。私たちは外界の状況とコンタクトしながら生きている。

そうすれば、フェルトセンスは勿論、外界の状況との交差によって私たちのカラダに現れるものだ。

故に、フェルトセンスとは「〇〇な状況についてのフェルトセンス」なのである。

私の最初の表現は「何がムズムズして、開きそうで開かないんだろう」であった。この尋ね方では、私の内側でしかフェルトセンスは動かず、行き詰まってしまった。

しかし、「会社での何がムズムズで開きそうで開かないんだろう」という表現によって、私を含む会社での状況とフェルトセンスが交差することとなり、大きな気づきが起こったのだ。

この気づきのことをフェルトシフトという。

この気づきによって、私はとても心地よい、ホッとした感覚を手にし、そして、私と会社の若手社員との関係性をどのようにすれば良いのかという示唆を得ることができた。

フェルトセンスとは、私たちが次にどうすべきか、どうあるべきかという「次なるものの暗示」を与えてくれるものである。

とても気づきの多い、勉強会であった✨✨

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