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箱根駅伝と私〜②山下りの神様〜


みなさんおはようございます、まつです。

私が箱根駅伝にはまって法政大学と中央学院大学を応援するに至るまでの過程を辿る「箱根駅伝と私」シリーズの第2回です。

前回の投稿はこちら

前回の投稿では、私は小さい頃から陸上競技、箱根駅伝に触れながらも、テレビ観戦をきっかけに「箱根駅伝は怖いもの」という印象を受けた話をしました。

今回は、そんな私が箱根駅伝に熱中するまでのお話です。

箱根駅伝を笑顔で走る選手がいた

時は流れて、私は高校生になります。

私は、東京都立川市内の高校に通っていました。箱根駅伝予選会や日本学生ハーフマラソンの舞台となる昭和記念公園がある、あの立川市です。

高校1年生の10月中旬、ある日の学校帰り。

駅のコンコースの北側に、何やらたくさんの旗が立っているのが見えました。一緒にいた友人と何だろう、と近づいてよく見ると、箱根駅伝の予選会に出場する大学の旗であることが分かりました。

それを知ったからといって予選会を観に行くわけではありません。

予選会当日、立川駅の北側で熱戦が繰り広げられていた最中、駅を挟んで南側に位置する高校の部室で私はドラムを叩いていました(高校時代は軽音楽部)。

部活の帰り道にやたら駅が混んでいて、友人と「そっか、今日が予選会だったのね」と話している始末です。

ただ、そのとき私の中に少しだけ「箱根駅伝」というワードが刷り込まれたのは確かです。

年が明け、お正月が来ます。

その年も相変わらずテレビの前で、私以外の家族は箱根駅伝を見ていました。

1月2日の往路の日は朝から冬休みの宿題をやっていて、朝食を食べている間だけチラッと見た程度でした。

翌、1月3日の復路。

朝7時半頃に目覚めて、ぼーっと身支度をし、食卓に着いたのが8時手前。

テレビを見やると、その日ももちろん箱根駅伝。

しかし。

(「あれ、この人。ちょっとかっこいいかも」)

そのときテレビに映っていた選手が、当時の私の好みにストライクだったのです。笑

背が高くて細身ですらっとしていて、何よりスタートラインに立っているその表情がとても凛々しく見えました。

その選手が走り始めると、テレビから目が離せなくなりました。

途中のポイントでのタイムがどうとか、解説も全く聞かずにただただ、

(「かっこいいなあ」)

と思って夢中で見ている自分がいました。

そして、そのかっこいいお兄さんが小涌園前の定点に差し掛かったときのこと。

かっこいいお兄さんは、大観衆の声援を受けて笑顔で走っていたのです。

当時の私にとって、それは衝撃の光景でした。

小さい頃に見た箱根駅伝では、エースと呼ばれた凄い選手が辛そうにしていた。

それなのに、箱根駅伝を笑顔で走っている選手がいるなんて……。

そのまま、かっこいいお兄さんが中継所で襷を渡すまで、テレビの前から離れられませんでした。

(「こんな素敵な選手がいるんだ」)

そして、当時の私は兄の部屋にある陸上雑誌を読み漁って、あのかっこいいお兄さんが何者なのか調べたり、近場の大会に出る予定はないか調べたり、過去の録画を漁ったり、


なんてことはなく、翌年を迎えます。笑

今振り返ると、当時の自分は勉強も部活もいっぱいいっぱいで、他のことにのめり込む余裕がなかったのだと思います。

ですが、いよいよその翌年、本格的な転機が訪れます。

知り合いでもない選手を夢中で応援していた

2011年1月3日。
相変わらず2日の往路はほぼ見ていません。

ただ3日は、「今年もあのかっこいいお兄さんが見れるかな? 確か去年1年生だったから今年もいるよね?」と思って、そわそわと朝7:30には起き、食卓についてテレビを見始めます。

昨年見た、あのかっこいいお兄さんが映っていました。

かっこいいお兄さんは、この年も颯爽と走り出します。

しかし、

直後にスタートした早稲田大学の選手が、かっこいいお兄さんに追いつき、その後は激しい先頭争いが繰り広げられます。

(「頑張れ、頑張れ」)

祈るような気持ちでテレビを見つめます。

お互いに差をつけられそうでつけられない、離れそうで離れない。
何度も何度もそんな繰り返しを続けながら山を下り終え、平地に差し掛かると遂に、かっこいいお兄さんが徐々に離されてしまいます。

(「離れないで!! 頑張れ、市川選手!!」)

しかし、その後は離される一方。

私が知らず知らずのうちに応援していた東洋大学の市川孝徳選手は、中継所まで前を行く早稲田大学の高野寛基選手に追いつくことなく、2位で7区の選手に襷を渡しました。

この年は、市川選手が走り終えてもその後の展開が気になり、テレビから離れられなくなりました。

結果、市川選手が所属する東洋大学は、前を行く早稲田大学に追いつけそうで追いつけないまま、総合2位でゴールを迎えます。
その差は僅か21秒。1位と2位のチームの総合記録の史上最小差だったそう。

歓喜に沸く、早稲田大学の選手たち。
涙を浮かべる、東洋大学の選手たち。

気付いたら「東洋大学が負けて悔しい」と思っている自分がいました。

これが私にとって初めての、知り合いでもない選手を夢中になって応援した経験でした。

駅伝沼1年目

それからようやく、兄の部屋にある陸上雑誌を読み漁って、市川選手や東洋大学の他の選手たちのことを調べたり、過去の録画を漁ったり、ということが始まります。

駅伝は箱根駅伝だけでなく、学生三大駅伝と呼ばれる出雲駅伝や全日本大学駅伝、という駅伝もあること、テレビで見た選手たちの詳細なプロフィール、高校時代の実績、などなど。

当時はとにかく夢中になって、暇さえあれば雑誌の山を読み漁ったり、録画を見たりしていました。

8歳の頃にテレビで見た、涙を浮かべながら2区で途中棄権をした選手が、法政大学の徳本一善選手だったこともこの頃に知りました。

ただ、本格的な受験期を控えていたこともあり、現地に観戦しに行くという発想はなく、関東インカレや日体大記録会などの近場の試合でさえ見に行くことはありませんでした。

だからこそ、テレビで見れる三大駅伝を心待ちにしていて、この年は出雲駅伝から見ました。
出雲は東洋大学が見事に初優勝。市川選手も5区で区間賞を獲るという最高の結果でした。

続く全日本大学駅伝は、最終8区で、必死に逃げる駒澤大学・窪田忍選手と猛追する東洋大学・柏原竜二選手を指す「逃げる駒澤、追う東洋! 逃げる窪田、追う柏原!」という名フレーズが生まれた、あの大会。東洋大学は2位と悔しい結果に終わります。

そして、箱根駅伝。

東洋大学は今やチームの代名詞となった「その1秒をけずりだせ」というフレーズを掲げ、1秒どころではなく従来の大会記録を8分15秒も塗り替える、圧倒的な強さで総合優勝を果たしました。
市川選手も、3度目の6区で遂に区間賞を獲得。

優勝チームは翌朝の生番組への出演もあり、翌日まで優勝の余韻を堪能しました。

ダンシング・トゥナイト!

こうして箱根駅伝だけでなく、ほかの三大駅伝も知り、次第に沼へとはまっていったのがこの年でした。

初めて自分の意志で現地へ

普通なら翌年4月には、大学生になっている年齢です。しかし私は残念ながら、名ばかり浪人生として4月を迎えます。

駅伝にはまり過ぎて勉強が手につかなかったわけではありません。この話しは気が向いたら別の機会にでも。

そんな訳で翌年度も現地には行けず、雑誌や録画で駅伝に触れる日々が続きます。

しかし、市川選手はもう大学4年生。今年度観に行けなかったら、東洋大学のユニフォームに身を包んだ市川選手を見る機会を逃してしまいます。

出雲も全日本も遠いし、箱根の6区だって東京からは1番遠い地域を走る……。

そんな私が選んだ苦肉過ぎる策が「箱根駅伝の壮行会」です。

出雲や伊勢路、箱根には行けなくても都内にある東洋大学の白山キャンパスになら行ける……。何故、初めての現場に選んだのが大会ではなく、壮行会だったのか。笑

ミーハー極まりない思考の元、2012年12月11日、初めて自らの意志で箱根駅伝に関わる現場へと足を運びます。

ネットの情報を頼りに1時間近く前に現場に到着。最前列を確保できました。

開始時間が近づくにつれどんどん人が増えていき、後ろを見やると5列くらいの人垣が出来ていました。

(「こんなにファンがいるのか」)

そして、遂に選手たちが登壇します。

市川選手が、私のほぼ目の前に立っています。

せっかく1時間近く前から待っていたのに、緊張して全く前が見えません。笑

他にも、設楽兄弟に注目ルーキーの服部勇馬選手などなど、テレビでしか見たことのなかった選手たちがずらっと目の前に並んでいます。

そして、壮行会が始まります。

酒井監督の話。
抱負を語る選手たち。

ああ、テレビの向こうの存在だった選手たちが、目の前にいる……。

感動と興奮で、何が何だか分からないまま壮行会が終わりました。

箱根駅伝にハマってから初めて来た現場は、何もかもが新鮮でした。

そして、次はちゃんと試合を見に行きたい、と思うのでした。

山下りの神様

迎えた市川選手の最後の箱根駅伝、第89回大会。

歴史的な強風がランナーたちの行く手を阻んだこの大会。紆余曲折ありながらも、東洋大学はトップで5区へと襷を渡します。

しかし、5区で東洋は日体大と早大に逆転を許し、総合3位で往路を終えます。

(「復路のメンバーなら、きっと逆転できるはず。なにせ6区は市川さんだし」)

私は割と楽観的に捉えていました。

1月3日、復路。

市川選手の最後の箱根路は、過去3年と違って3位からのスタート。最初で最後の前を追う展開でした。

スタートから1kmほどであっさり前を行く早大を交わし、(「やった! 去年の敵討ちだ!」)と喜んだのも束の間。更にその前を行く日体大との差が一向に縮まらないのです。

定点に差し掛かるたび、次こそは、次こそは、と画面を凝視しますが、中継所までに僅か17秒しか詰められずに7区へと襷が渡り、市川選手の箱根ラストランが終わりました。

その後も、前を行く日体大に追いつくことなく、総合2位で大手町でフィニッシュを迎えました。

歓喜に沸く、日体大の選手たち。
涙に明け暮れる、東洋の選手たち。

その光景は、2年前のデジャヴでした。

市川選手の箱根駅伝が終わってしまった。

寂しさやら、東洋が負けてしまった悔しさやら、色々な感情がこみ上げてきます。

市川選手は、4年連続で箱根駅伝の6区・山下りを走りました。

うち区間賞は1回獲ったものの、当時の区間記録は同世代の千葉健太選手(駒澤大学)がもっていたし、今となっては6区で当時の市川選手よりも好記録を出している選手は数多くいます。

それでも、私が箱根駅伝にはまるきっかけをつくった偉大な選手。

私にとって、市川選手は「山下りの神様」です。


私はその後、無事(?)に進路が決まりました。

初めての現地観戦として3月の日本学生ハーフマラソンを観に行くことも決めました。情報収集手段として、Twitterを始めたのもこの頃です。

現地観戦の世界に踏み込んだ私を待ち受けていたのは、それまで全く想像もしなかった、新たな出会いでした。

次回に続きます。

続きはこちら

ここまで読んでいただき、ありがとうございました!