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危機介入カウンセリングを学びはじめて

最近、クライシス・カウンセリングの学びをはじめました。
危機介入カウンセリングとも言われるようです。
様々な角度から人間理解を進めることで、仕事で多様な個性のクライエントや受講生さんとご一緒する際、私自身色々と手放せて楽になるような感覚を得ています。学びって大切ですね。

危機にある方々のことを様々学んでいると、本当に素朴に、関係を構築すること自体に大変意味があるのだなあと思わされます。
味方となる人が誰かいること、重要ですね。
まずは「生きていける」「生きていけそうだ」という意味で。

学びながら私自身の過去のことを振り返ったり、周囲の友人知人のことを思い巡らせたり、キャリアの現場やそれ以外の業務の場で出会った方々のお顔を思い出したりして(勝手に記憶から浮かび上がってくる)、先生のお話を聞きながら都度あれこれ疑問に思ったり考えたりしています。

また、クライシス・カウンセリングを学ぶことで、現在同時並行で進めている「グリーフケア(喪失による悲嘆と反応に応じたケア)」の学びと理解も深まっています。
グリーフも、ある意味では「惨事」と言える場合もありうるかと思いますし、大きな疲労が蓄積する出来事でもあります。
もしかしたら、求められる現場も近いのかもしれないな。

緊急時に時間がない中で能動的に関わるクライシス・カウンセリングの姿勢と、思いを馳せて大切に聴かせていただいたり生活面でのサポートも含め必要に応じて長期的に支援を行うグリーフケアでは、関わりの色合いが異なるように感じますが、どちらもできることの限界を心得えたうえでクライエントに真摯に丁寧に配慮して関わる姿勢は変わりません。

ちなみに、案外・・・、なのかどうかはわかりませんが、キャリア支援の現場でこれらの領域の知識や関わりが役立ちそうな方にお会いすることが私は多くあるなあと、最近特に思うことがあります。

そしてなぜだかわからないのですが(と言いつつ、少しだけ見えている部分があるようにも感じられるのですが)、私はこの領域に思いがあるようです。

生きてほしいという思いや(「願い」とはちょっと違う)、生きている者同士お互い生きやすく生きるために何ができるだろうかという思いがあります。

実は今日書きたかったことはこの内容ではなかったはずなのですが、なんだかここで落ち着きました。
当初書きたかったことはこれとは違うことというか、ここから関連することなのですが、よく考えるとその話題が上の内容とはまたちょっと異なるので別の記事にしようと思います。
ごちゃごちゃごちゃごちゃと言っておりますが、いったんここまでで保存。

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