ザクースカ
靴
ワルツ
おはよう
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日曜日。朝9時。
私は優しい出汁の香りで目を覚ました。
少しけだるい体をゆっくりと起こして伸びをする。
窓が少し開けられていて、初夏ならではの爽やかなそよ風がカーテンを揺らしている。
彼女が作る朝食は休みの日でもいつもと変わりない。
野菜がたっぷり入った味噌汁と、卵焼きに作り置きの青菜のお浸し、そして炊きたてのごはん。
「おはよう。明(あき)」
「あ、おはよう、ハルちゃん。まってね、もうすぐできるから」
食卓に並べられたいつもの朝食。
二人で選んだ、お気に入りの食器たち。箸置き。色違いの箸。
私達の朝はいつもこの朝食を二人で食べることから始まる。
「「いただきます」」
二人の声が揃う、それだけでもなんか、朝から嬉しい。
明が味噌汁を飲もうと目を伏せると、長いまつ毛が朝日に照らされて頬に影を作る。
私は、この瞬間が何より好きだ。
美しい明。
私は彼女に、片想いしている。
私達が一緒に暮らし始めてから、もうすぐ3年になる。
初めて出会ったのは4,5年前くらいだ。
私は音楽の教師を目指して、大学とは別に、ある音楽教室に通っていた。
幼い頃からピアノを弾いていると心が落ち着いた。
かといって、別にピアニストになろうという気持ちはなかったし、どちらかというと、子供が好きだった私は、いつしか音楽の楽しさを子供に伝える側に立ちたいと思うようになったのだ。
その日、いつものようにピアノを弾いて帰る時刻、併設されたスタジオでバレエ教室をやっていることに私は気がついた。
そういえば、張り紙が出ていたっけ。
扉に張られたガラス越しにこっそりと中の様子を覗いてみる。
はあ。やっぱりバレエやってる子達って、みんな細いなあ。
そんなことを思いながら一人ひとりと手すりに掴まって美しい脚を上げたり、下げたりしている生徒たちを目で追っていく。
と、一際目を引く少女がいた。
一番背が高くて、凛とした横顔に釘付けになった。
それが明だ。
ピアノを習い、帰るだけの日常に花が添えられたようだった。
今思えば、完全に一目惚れだったなあ。
ということは、今も内緒だけれど。
そんなときに、ただ見つめているだけだった私と、知らず知らず私に見つめられていた明に転機が訪れる。
バレエ教室とピアノ教室、合同の発表会のようなものが開催されることになったのだ。
ピアノの曲に合わせ、バレエを踊るのだそうで、2人一組のペアが組まれることになった。
明のペアを、珍しく私は自ら志願した。
彼女と話せる機会なんて、もうこの先ないかもしれないじゃないか。
「いつも、レッスン見てくださってますよね」
彼女との顔合わせのときの最初の一言に私はひっくり返りそうになる。 そうか、流石に毎回見てたら気づくよね…。
「バレエ、憧れだったんだ。昔…。それで、ついね!えっと…、私、ハル。杉本ハル。見てたらさ、貴女の踊る曲を弾きたくなったの。これから、よろしくね」
「ハルさんっていうんですね、私は、幸村明、あき、って呼んでください。なんだか、字は…その、違うんですけど、はるあきペアってかんじで、いいなって、思いました。こちらこそ、どうぞよろしくおねがいします」
明はきれいに微笑んだ。
夢じゃないよな。はるあきペアって、なんだか、運命を感じてしまうじゃないか。
こっそり影で自分の頬をつねったのも内緒だ。
練習していくうちに、私達は自分たちの息がどんどんあっていくのを感じていく。
単純に明とはすごく気が合って、好みが似ていたり、テンションが合ったりしたから。歳も2つ違うだけで、明は来年から大学生になるのだそうだ。
あっという間に時間は過ぎていった。
練習でも、明のバレエをすぐ側に見ていられるのがただ嬉しくて、でもだからこそ、彼女をもっと綺麗に見せたくて、私の練習にも熱が入った。
発表会当日の、明の綺麗な晴れ姿は今でもずっと目に焼き付いて離れないくらい、鮮明に思い出すことができる。
私のピアノの音と、明のトウシューズが床を叩く音。
観客の歓声。
発表会が終わったあの日、私は意を決して言ったんだ。
「ねえ、明。もしよかったら、私の部屋に下宿しない…?」
部屋を探してるんだよね。
それを聞いてから、ずっとひそかに、この日を。待っていた。
「私のうち、一部屋空いてるんだよ。大学からは、少し遠くなっちゃうけど…、ほらっ家賃とか、半分だよ!ルームシェア、的な…?」
明は、一瞬目を丸くしたけれど、嬉しそうに笑って頷いてくれる。
「ハルちゃんとなら、きっと楽しいね」
それからトントン拍子にことは進んで、今に至るわけだ。
お互いに違う大学、忙しい毎日ですれ違いも多かったけれど、私達は相変わらずに仲良しだったし、休日にたまに一緒にでかけたりする。
明は真面目で料理上手。でも唯一片付けは苦手。
私は、料理をめんどくさがる性格だったので、毎日暖かいごはんが食べれるのは本当に有難かったし、片付けや掃除は得意分野だったので、釣り合いもうまい具合に取れていた。
ただ、私の恋心だけは、ずっと、ずっと心の奥底にしまったまま。
これでいいと思ってた。
苦しくもなんともない、ただ明がそこにいてくれるから。
それだけで幸せだった。
「ねえハルちゃん。この前、新しい靴買ったでしょ」
なんて考えながら明の美味しい味噌汁を飲む私に、ふいに明は話しかけてきた。
「ん?うん、一目惚れでさあ。今日履いてこうかなって思ってる」
「うん、うん。可愛かったもんねー。私もハルちゃんにすごく似合うと思った」
「そうー?ありがと」
満更でもないぞ。明はすぐに私のこと褒めてくれる。
今日は良い一日になるだろう。
「でね、今日、お友達と会った後でいいから、私に時間…くれないかな」
「おー?久しぶりのデートですな?もちろん。終わったら連絡するよ」
なんて冗談めいて笑う。
明に待ち合わせの場所を聞いて、私は友人らに会うために新しい靴を卸して出かけた。
初夏のいい天気。
お気に入りの靴を履いて、友人らとの楽しい話も弾んで、時間はあっという間に過ぎた。
明との待ち合わせの時間に遅れるわけにはいかない。
友人らに手をふって、待ち合わせ場所である。港沿いにあるカフェバーに急ぐ。
明は、独立したソファ席に、少しだけ緊張した面持ちで座っていた。
どうしたんだろう。
「おまたせー。ごめんね、ちょっと時間過ぎちゃった」
「あっ、い、いいの。大丈夫」
どことなく、いつもよりソワソワしている気がする。
にしても、今日の明はすごく綺麗だった。
もともと大人っぽい美人なのに、黒いレース素材のワンピース姿で、化粧にも気合が入っている。
食事は、明が予約してくれたコース料理で、食前酒が運ばれてくると、明の緊張もすこし解れてきたみたいだ。
いつもみたいに、今日あったことの話をしたりしながら、食事をゆっくりと摂る。
美味しいイタリアンだったし、私の話で明が笑ってくれるのも嬉しくて、私はいつも以上に上機嫌になった。
いつの間にか、店で会計を済ませ、港沿いの公園を歩いている。
今日は少し涼しい。
ほんとに楽しかった。ありがとう、明、そう言おうと思って振り向いた私の目と明の目が合う。
「ハルちゃん」
その目はいつになく真剣だった。
私は立ち止まり、首を傾げた。どうしたんだろう。
「ハルちゃんってさ。鈍感すぎるよね」
「え、明、…どうしたの」
「私がさ!今まで、彼氏とか、作らなかったのとかさ!変に思ったりしなかったの!」
「たったしかに、明は綺麗だし、…って、むしろいなかったの今知ったかも」
「もう!そういうとこ。ハルちゃんはさ、私のこと、誰よりも見てくれてるのしってるのに、そういうとこだけ、鈍感で、触れようとしてくれないんだ」
そりゃ、明に彼氏いたら傷ついたかもしれないけど。
明が幸せなら、それで、良いとも思っていた。
「どうして、もう、3年も一緒にいるのに、気づいてくれないの。どうして、ハルちゃんは、わっわたしのこと、ちゃんと好きだって言ってくれないの!」
心が、とくん、と跳ねる。
え、待って。なんで明は私が明のこと好きだって知ってるんだ。
とく。とく。とく。心臓の音が速くなる。
「ど…どうして…明は、私が明のこと好きなの…しってる、の?」
「わかるよ!いっ嫌でもわかるよ。嫌じゃないけど!ハルちゃん見てたら、ちゃんと、わかったよ」
いよいよ、自分のこの気持ちと向き合うときが来てしまったみたいだ。
しかも、こんな形で。
え、夢じゃないよな。
「えーっと、その…、嫌じゃ、ないの?
わたしが、明のこと、好きでも、嫌じゃないの…?」
「嫌なわけ、ないでしょう。わ、私も、ハルちゃんのこと…好きだもん」
はあ、どうしよう。夢かもしれない。
私はその場で自分のほっぺを思い切りつねった。痛い。夢じゃない。
明が、ゆっくり近づいてきて、私の両手をとった。
顔にはくしゃくしゃの笑顔を浮かべて。
「ねえ、ハルちゃん。私と、付き合って、くれる…?」
感極まって泣いてしまった明の手を握り返して、私は頷いた。
「喜んで」
よかったあ…そう言いながら、さらに綺麗な顔をくしゃくしゃにする明の手をとって、ゆっくりと、ワルツのステップを踏む。
私は、不器用だから。
何度も明の脚を、卸した靴で踏んだけれど。
器用な明も、私の脚を何回か踏んだけれど。
人目なんて気にせず、私達は踊った。
「おはよう、ハルちゃん」
「おはよー明」
歯を2人並んで磨きながら、カレンダーをめくった。
今月で住み始めて3年。
2人で顔を見合わせ笑ってから、朝の支度をする。
次の1年も。次の1年も。
君と笑っていられますように。