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真下に見る街

ガラス張りのビルの最上階にあるカフェラウンジ、ブラインドの隙間で、床にどうしても一筋、赤いようなオレンジの光が差す席。
空いているならば、僕はいつもその席に通してもらうようにしている。
この時間、眩しいその席を選ぶ人は少ないので、大抵いつも空いているのだけど。

そこから、日暮れに向かいで分刻みに色が移ろう街を見下ろすとき。
働いていたり、買い物をしていたり。けれど、これだけ高いところから見ているというのに、みんなすごく早足なのがわかる。
僕はそんな時、勝手に「生き急いでいる」なんて思う。
自分だって、あの波に混じれば俯きながら、流され、同じ速度で歩くというのに。
あまりにあの喧騒とは程遠い、心地よくなれるように緻密に計算された音量で流れるピアノの音色と、上着を脱いで綿のシャツ一枚で丁度いいように設定された空調があるこのような空間では、人はどこか気を大きくしてしまうものなのかもしれない。
ふと我に返り、そんな自分に気づいて嫌気が差しはじめる頃に彼はちょうどやってくる。

「直チーン、おまたせ〜♡」

ジャケットが明らかにオーバーサイズだということくらいしか僕にはわからない、この場に合うか合わないかはすれすれといった感じの格好、片手をボトムスのポケットにつっこみ、ひらひらと振る手にはブレスレットやカラフルな指輪。
そもそもに髪色とか髪型が派手なのにそのやんちゃな笑顔。
…ううん、今日はぎりぎりアウトって感じする。
一瞬だけ、客らがザワつく気配。ひそひそ、って声。
けれどそんなこと、微塵も気にしないのが彼である。

「…こんばんは、一縷。…待ってた…」
「ええっ、そんなに待ったァー?ちょーっと道路混んでてさ、ゴメンネ?」

すとん、と向かいのシングルソファに腰掛けた一縷に向かって黙って大丈夫、と首を振る。
他の客らの視線が急に注がれることに緊張してぎこちなく水のグラスに手を伸ばした僕の態度を見透かして、今日のネクタイ、カワイーね。あそこのでしょ?
とメジャーなブランド名を出した、「この場にふさわしい会話」で彼は客らの視線を散らしてくれた。
そう、こういう場にずっとずっと慣れているのは一縷のほうだから。

「……ありがと。」
「ンー?いーよォ。ネ、なんでも好きなの頼んで。お腹空いてるんじゃナイ?」
「えっ…あ……。ん、んん、ケーキ、食べていい…?洋梨のシブスト…」
「あー!いいねェ。ドリンクは?んー、そうだナァ。僕チンはー、ピンクグレープフルーツジュースでいーや」

自然に勧められるので、僕はお言葉に甘えてイブニングティーも頂くことにした。
少しだけ冷えてきたように感じて、ガラス越しの街を見ると、いつのまにかすっかり日が落ちていた。
時間はそんなに過ぎていないというのに、秋のこの時間こそ、早足に太陽を持ち去っていってしまう。
なんて思っているうちに、一縷はさっさとオーダーを通して、にこにこと笑っていた。はっとして姿勢を正す。

「あっ、…来てくれて、ありがと…。待ち合わせまで、ちょっと…時間空いちゃって」
「いーのいーの!近くにいたしィ。むしろ直チンに会えてラッキー♡」

いつだってこの人は、この笑顔で、さらりと人をどきりとさせるような台詞を吐くし、よく見ていても一つ一つの所作に無駄がなく、そして僕の比べ物にならないくらい他人を見て、最善の気遣いをすることに長けている。
なんとなくそれが上司と重なって、少しだけ怖いのだけど、聞き上手な一縷に甘えて、時々こうしてお茶を共にするような仲になっていた。
人の上に立つような人はどこかみんなこのようなものなのかもしれない、と最近思う。

店員さんが紅茶とケーキ、ピンクグレープフルーツジュースを運んできてくれると、僕は十分に蒸らされたイブニングティーを温められたカップに注ぐ。
最後の一滴、ゴールデンドロップまで、余すことなく。
ここのラウンジの紅茶は、ちゃんと美味しいから。
カップに注がれた美しい色の液体を少しだけ揺らすと、イブニングブレンド特有のほんの少し重みを帯びた深い香りがする。
そろそろとカップに口をつけて、大事に一口目を楽しんでいるところで、一縷の視線に気づいた。
テーブルに両膝をついて細いけれど男性らしさのある節のある指を組み、ピンクグレープフルーツジュースに刺さった紙ストローから液体を吸い上げながら、楽しそうな目で。
人の食べているところを見るのが好きな人って、いる。
きっとそのようなものだろう。
カップをソーサーに戻して、ケーキを食べようとカトラリーを持ち上げてから、ぽつ、ぽつ、と話を始める。
僕たちのお茶の時間は、案外静かだ。
とりとめがなく、女性がするような、移りゆく、些細な話題。
甘さが抑えられたケーキをこく、と飲み下しながら僕は、一縷の目を直視できないでいる。それでも、この人なら許してくれるからと、勝手に甘えているのは僕の方だけかもしれないけれど。

「なんかさァ、今日の直チン、いつもよりかわいー気がする〜。きっと好きなお客さんに会うんだネ♡」

うん、うん、と相槌をうっていた一縷がふいにそう言ってにんまり笑った。
…やっぱりだけど、そういうのって、わかっちゃうものなのかな…。

「…久しぶりに、会えるから…。……わかった…?」
「ウン〜♡なんとなくネ、」
「そ、っか……。なんか、恥ずかしい…」
「いーじゃんー!かわいー直チンに久しぶりに会えるそのお客さんもきっと喜ぶしィ、直チンも、目一杯、楽しんでおいで♡」

ちょうど最後の紅茶が空いたタイミングで、スマートフォンの画面をタップする。いい時間だった。
僕たちの体内時計は、秋の夜でも狂わず冴え渡っているみたいだ。
席を立ち、スーツの上着を羽織って、ネクタイ歪んでない?と一縷に確認。
バッチリ♡と指でOKマークをもらった。
ありがとう、と微笑み。ひらひらとまた振られる手に今度はちゃんと手を振り返すと、そのままラウンジを出る。
大丈夫、今日はきっと自然に笑える。
あとで、一縷にありがとうって、LINEしなくちゃ、と思いながら僕はエレベーターの下ボタンを押す。
エレベーターはスムーズにつき、僕を一人を乗せてガラス張りのビルを下る。

早足で歩く人々はもうはっきり見えず、そこには僕の視界いっぱいに、色とりどりの光を散りばめた、すっかり夜に染まった街が広がっていた。