斜陽記 2人の子どもたちの場合
仮にでも愛してくれた人の首を掻き切る。
もう何度目だ、こんなの嫌なのに。
どうしてこんなことをしているんだっけ、それを思い出すのはシャワーで体を流す時だ。
排水溝に吸い込まれていく血液が僕が被っていた皮に見える。
偽物の僕を洗い流して、
帰る。やっと帰れるんだ、家に。
「しずく、ただいま…」
幼い頃から寄り添って、今やとても大事な存在となったその人の寝床に潜り込み、額にそっとキスをする。
その人は浅い眠りから覚めて、僕に気づく。
おかえりなさいという声は掠れて、髪を撫でる指は冷たい。
また痩せた…?
温めてあげる、僕が。抱きしめてあげる。
もう、綺麗になったこの体で。
頬を寄せ合って、2人で泥濘のような眠りに沈んだ。
「帰ってきてたの」
「そうなんです、夜遅くに」
そんな会話で目を覚ます。
知っている声。…大丈夫、危害はない。
「すごく、よく寝た…」
僕が身じろぎすると、起こしてしまいましたか、としずくは慌てる。
そんな彼の腰に腕を回して再び目を閉じた。
「ううん、平気…」
医師の視線が気になる。
どうせ、この後僕に処方する薬について考えているに違いない。
しずくの負担を減らすために、同じベッドで眠るのは帰ってきた後の1日だけだ。
その次の日から、僕が不眠と悪夢にうなされることをしずくは知らない。
そんなに、哀れそうな目で見ないで。
僕をこんなふうにしたのはそっちでしょう。
「はい、よく食べたね。薬も飲めたし点滴も補充した。朝はこれでおしまい。ナオにも後で食べるように言っておいてくれるかい」
「はい、わかりました」
しずくの優しい手が髪を撫でる。
医師が去って、本当はあまり食べたくない朝食を口に運びながら、他愛もない話をする幸せな時間。
僕ね、少し良くなった気がするんです。
しずくは言う。
実は、リハビリも始めて。
ちょっとずつ、また歩けるようになってきたんですよ。
「すごいね…、しずくが、頑張ったから…神様が、」
そこまで言いかけて、不思議に思った。
しずくの病気のことは調べ尽くしたのだ、重い病気ではあるが、治療法は確立されている。今は投薬治療が主で、それを続けさえすればもう回復してきてもいい頃だとは思っていた。
…だから、いいのか。
遅くないか?どこかでそう思っていた自分を無理やり納得させる。
病気が回復に向かっているのなら、僕はもう、あんなことをしなくてよくなるんだろうか。
…やめよう、しずくの前で。
考える時間なんて明日から腐るほどあるんだから。
「神様がいるなら、なおさんに、お仕事なんてさせません」
「…そうだね、」
神様がいるなら、僕たちはとっくに見放されている。しずくの言うとおり。
その日は、珍しく朝食を全部食べたので、
自慢してくる、と食器を自分から厨房へ返しに行くことにした。
スリッパ越しでも伝わってくる、冷たい廊下。
しずくをあたたかい個室に置いてもらえるなら、僕は仕事をする。辛くても。
そんなことを考えながら当直室の近くを通る時だった、知らない声と、医師の声が聞こえる。
なんだろう。
「君がやっていることはわかっているんだ」
知らない声は酷く憤慨しているようだった。
「なぜあの少年の投薬を増やした?こちらには全てわかっているのだよ。ギリギリまで引き伸ばせ、あの少年が弱ればASをもっと使えるのだから」
医師は言い返すことが出来ないようだった。
この医師とて、上から圧力をかけられて生かされている人間だ。
怒りで手が震えそうになるのを必死に抑えた。
また歩けるようになってきたんですよ、と笑うしずくの顔を思い出す。
僕は食器を持ったまま、部屋に戻った。
返してこなかったんですか?
不思議そうに尋ねるしずくを抱きしめる。
「しずく、僕たち、ここから逃げよう」
少し目を丸くしたものの。
何があったのかなど何も聞かず、しずくは頷いた。
額を合わせると、目を瞑る。
いつか、が早まっただけだ。
しずくもそれをわかっている。
「僕が、準備を整える。大丈夫、うまくいくから」
その日の夕方から、僕は1人の部屋に移る。
医師が寝る間際に鎮静剤と睡眠薬を持ってくる時がタイミングだ。
「ナオ。今日は食事をよく摂ったね、偉いじゃないか」
警戒はしているものの医師は穏やかな人間だ。
忍びないが、薬をテーブルに置こうとする手を取って捻り、床に組み伏せた。
もちろん悲鳴など上げさせない。
「静かにしてくれるよね…先生」
医師は僕が口に入れた指を噛むこともせず頷いた。
ごめんね、と溢して、口から指を抜き取る。
「なにもしないから、離してくれるかい」
「駄目…、腕は痛いの、無くしてあげる」
いやはや、警戒されるのも仕方ないか、と医師は何となく自嘲するみたいに笑った。
「しずくの、薬を…増やしていたの」
「そうか、朝に聞いたのかな」
「…どうして…?」
「君たちを長いこと見てきた。しずくくんの病気は投薬次第で良くなるところまできている。それなのに上は、君が働いた金を吸い上げ、薬すらまともに与えるなと言う。もういい加減、俺も疲れた。もうこれ以上、不幸な子供達を見たくないんだ」
「えらい人に、怒られて、た…」
「いいんだ。聡い君なら直に気づくと思っていた。…ここから逃げるかい?」
「…どうして、そのことを」
「きっと俺でも考えるよ。それでいい。君が気づいた時には協力する気でいたんだ」
僕が医師の上から退くと、あたた、といいつ彼は起き上がった。
時間はあまりないが、
次の任務が決まるまでに少なくとも1ヶ月はある。
その間、医師はしずくの投薬を少しずつ増やし、リハビリの時間は僕がしずくのそばにいることで長引かせる。
僕は、食事をきちんと摂り、よく眠れるようになること。
脱出時に、当面の間必要な薬を用意しておくと医師は言った。それの隠し場所。脱出ルートまで綿密に計画を練った。
医師はずっと、嬉しそうだった。
「ねえ…先生は、先生はどうなるの」
「…いいんだ、俺のことは。どうにかなる。これでもジェミノイド計画の第一線にいた人間だ。上も簡単に処分したりしないよ」
「生き延びてくれ。それが何よりの希望になる」
たった1ヶ月間しか準備期間がなくても、僕達はやらなければならなかった。
医師としずくが築いた土台を台無しにしないように。
医師と仲が良かったしずくは薄々気づいていたのか、改めて医師のことを思い少しだけ涙を流したが、信じていますので、と前を向いた。
医師の協力で、少しずつ投薬量を増やしたが、幸い今までの投薬に慣れたしずくの体は拒否反応や副作用が強く出ることはなかった。
それよりもキツそうなのはリハビリだった。
毎日施設の人間の監視の目を縫って自室や空き部屋を利用した。
弱いふりをしながらも、着実に体力と筋肉がつく。
努力が実り、半月ほどで支えなしでもかなりしっかりと歩けるようになった。
僕は毎日の食事を胃に詰め込むことに奮闘した。
吐いてしまう時は、開き直ってあくまで食べれない僕を演じた。
外で生き抜くためには、しずくを守り切るためには、強く靭やかな身体がいる。
あっという間に過ぎていく日々を焦ることなく着実に積み上げていく。
この施設からの脱出はただの始まりだ。
まずはそれを確実にするために。
脱出計画の前日、僕たちは寄り添っていた。
いつものように手を繋いで額を合わせ、目を瞑る。
「怖い…?」
「…少しだけ。でもね、なおさんがいるから…大丈夫です」
「うん…ちゃんといる…。それに先生が、走らなくてもいいルートを用意してくれてる。時間がかかるけれど、辛くなったら、僕が背負うから、大丈夫…。うまくいくよ、」
「なおさんと一緒だったら、僕は強くなれる気がするんです」
「ふふ…しずくは、強いよ…いつだって…。これからは、ずっと一緒だからね」
「…はい、ずっと一緒です…」
計画の日、医師は僕らを抱きしめて言った。
祈っていると。
神様なんていなくてもいい、僕には、しずくには、たった一人の言葉で十分だった。
どうか貴方も無事で。
手を繋ぎ、一歩を踏み出す。
暗闇?慣れている。悪臭のする地下水路、孤児をナメるな。
複雑な悪路だって、全て頭に叩き込んだ。薬の入ったバッグが重く肩に食い込んだって平気だった。
繋いだ手さえ離れなければ、僕たちはどこへでも行ける気がした。
「出口から出る頃にはちょうど朝日が昇っているはずだよ」
しずくを励ましながら、僕たちは出口を目指す。
出た先は、街を見渡せる丘のふもとになっているはずだ。
光が見えて、息があがる。粘土層の土で足を滑らせながらも、僕らは前だけを見てがむしゃらに地下からの斜面を登った。
「…しー」
口元に指を当てて念の為あたりを警戒するが、誰もいない。
銃やナイフを突きつけられることもない。
ただただ静かに朝日を浴びる丘のふもとに、僕たちは無事に出ることができた。
「…もう少しだけ、がんばれる…?」
頷いたしずくを連れて、丘に登ると、ほんの豆粒くらいの小ささで施設が見えていた。朝の少し冷たい風が汗ばんだ肌に心地良い。
これからどうなるかなど、もうわかりやしない。
追手が来るかもしれない。
隠れ続ける毎日になるかもしれない。
食べ物は、水は。なにもかも、確実に施設にいた頃より…。
けれど、それでも僕たちは。ただこの場所にいれることが嬉しくて。
生きていけると。
丘の柔らかな草に座って、明るくなっていく街を見下ろしていた。