偏愛の対極(はいる)
「偏愛について書いて欲しい」と言われたときにウケてしまった。理由が「偏愛の対極にいるから」つってよ……わたしが偏愛の対極にいることがフォロワーに周知されてるのかよ……。
もうすぐ30歳になる。既婚。4歳息子の母である。わたしも生まれてからずっと偏愛の対極にいたわけではない。
初めての偏愛は15年ほど前。ポルノグラフィティの新藤晴一である。彼が書く詞と薄い唇が好きだった。NHKホールの9列目で見た晴一の伏し目がちな瞼の煌めきに卒倒しそうになったこともある。その後は生身の人間に恋をして、恋愛に味をしめた。めちゃめちゃ顔の良い男を追っかけて一年(告白したら妹みたいって振られた、それから4年くらい引きずった)顔が好きじゃない男と付き合って一年半(ツイッターで顔が好きじゃないことがバレて振られた)彼女のいる男に迫って別れさせ、3年付き合って結婚(この時恋愛ツイッタラーとしてフォロワー数を伸ばし、叩かれることも増えた)子も生まれて今に至る。
……いや、全然偏愛から対極にいない。偏愛って意味知ってる?「ある特定の人・ものだけをかたよって愛すること」だよ?めちゃめちゃ恋愛に全力投球してきた身としては偏愛の人生歩めてる自信ある。
ただ、わたしの場合、偏愛と疲弊はセットなのである。
恋をすると寝ても覚めてもその人のことだけを考えてしまう。相手に対峙していない時間もずっと相手との過去のシーンを擦り切れるほど反芻しては喜んだり悔いたりしてしまう。まだ見ぬ妄想を繰り広げては笑ったり泣いたりしてしまう。自分の感情を、偏愛する相手がいることで浪費してしまう。しかも相手を抜きにして。そうして取っている一人相撲を見て、客観的なもうひとりの自分が憂いて言う。情けなくて、格好悪くて、疲れる、と。
わたしは何かを偏愛することが下手なのだ。自分を削り、誤った形で捧げるやり方しか出来ない。結果、人生に支障が出てきてしまう。だから今はほどよく色んなものを好んで生きている。仕事も家族も趣味も。没頭はしていないが、各々をわたしなりに愛している。そういう生活は、刺激がなくて寂しい時もあるが、わたしにとっては平和で心が健康になれる。偏愛の対極にいることは、別に不幸なことではない。
ただ一つ思うのは、何かをとにかく愛せるひとは、才能があるということだ。自分を削ることなく、むしろ偏愛することが生きる活力になるひとは。そういうひとは強い。自分で明日の活力を見出していけるということだから。その強さを羨ましく、眩しく思う。
そんな話が聞けるということで、今回の様々な偏愛の話を、わたしはとても楽しみにしている。
【今回の「偏愛」を語ってくれた人】 はいる twitter note
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?